MICHAEL J. KRUGERのウェブサイトより

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以前の記事で述べたように、私は「Bully Pulpit(イジメの説教壇)」という新しいブログシリーズを始めました。このシリーズを始める前に、一旦立ち止まって、霊的虐待とは何を意味するのかを正確に定義しておかなければなりません。

まず、私たちがここでは触れないことについて指摘することから始めます。第一に、ここでは誰かを叩いたり、殴ったりするような肉体的な虐待について話しているのではありません。

第二に、肉体的な接触や不適切な性的会話や誘惑などといった性的虐待を指しているのでもありません。

第三に、私たちは単に感情的な虐待について話しているのではありません(重なる部分は確かにありますが)。感情的な虐待はキリスト教の文脈以外でも、例えば、結婚生活や職場で起こることがあり、必ずしも霊的・聖職的権威が関与するわけではありません。

霊的虐待とは、霊的指導者(牧師、長老、キリスト教組織の長となる者)が、聖書的、霊的目標を達成するために、その霊的権威を利用して、部下を操り、威張り、いじめ、圧力をかけることを言います。この定義のいくつかの特徴を探ってみましょう。


霊的虐待には、霊的権威のある立場の人が関わっている

実際、虐待者はしばしば何重もの権威を持っています。例えば、牧師がスタッフを虐待する場合、牧師はその人の牧師であると同時に、その人の上司でもあるので、2つの権威のある立場で行動していることになります。また、そのスタッフが女性である場合、ある牧師は自分がさらなる権威を持っていると感じるかもしれません(女性は相手が男性だからといって、すべての男性に服従するよう求められているわけではありません)。

ジョンソンとヴァンフォンデレンは、『霊的虐待は、指導者が自分の霊的立場を利用して他人をコントロールしたり支配したりするときに起こり得る』(20)と主張しています。

ここで1つ明確にしたいことがあります。それは、聖書は教会と世界における権威者の適切な役割を肯定しているということです。聖書は反権威的なものではありませんし、そのような区別をすべて消滅させようともしていません。しかし、同時に、人間の堕落した性質のために、聖書はその権威の乱用に対し、繰り返し警告しています(マタイ20:25; 1テモテ3:3; 1ペテロ 5:3).

もし教会のメンバーのひとりが他のメンバーに向けて軽蔑的な発言をしたとしたら—例えば「あなたは律法主義者だ」「あなたはあまり良い母親じゃないのでは」「あなたは痩せた方がいい」などーこれらのことばであっても、非常に傷つくかもしれません。しかし、そのような言葉には、権威の重みはまだありません。

それに対して、もしあなたの牧師が同じことを言ったとしたら、それは全く違った意味で人を打ちのめすことになるでしょう。その人は、神が自分のことをどう思っているのか疑わしくなり(結局のところ、この指導者は何らかの形で神を代表しているのではないでしょうか)、またスタッフであれば仕事を失うことを恐れ、この指導者が教会の他のメンバーに自分のことを悪く言っているのではないかと思うようになるのです。


霊的虐待は、罪深い方法で他人をコントロールし支配する

虐待的な指導者の下にいた人と会話の中には、「権威主義者・操作的・支配的・意地悪・残酷・執念深い・防衛的・批判を受け入れない」などの言葉がよく出てきます。

しかし、事はいつもこれらの言葉から始まるわけではありません。この種の虐待的な行動は、リーダーが誰かをつるし上げて心を傷つけるような冗談を言ったり、あるいは彼の下で働くスタッフに対する過度の批判などから始まるかもしれません。しかし、時間が経つにつれて、より深刻な事態に発展しうるのです。

霊的に虐待する牧師と対立する人々の多くは、孤立し、恥をかかされ、追放され、黙らされ、自分が従順でなく、反抗的で、教会から与えられたリーダーシップを損なう者であるかのように感じるようになります。

もちろん、いわゆる「虐待」と呼ばれるものがすべて虐待とみなされるわけではないことに留意する必要があります。ある教会や団体では、牧師が人の罪を指摘したり、その人の行動が聖書的でないと宣言したりすると、それが "虐待 "と見なされることもあるのです。もちろん、私たちはそのような考え方を否定します。ですから、私たちは虐待という言葉が誤解され、操作される可能性があることを認識する必要があります。

つまり、私たちがここで話しているのは、他の人が牧師やクリスチャンの指導者に支配されるような本当に罪深い行為についてであり、1ペテロ5:3にあるように、聖書自体が認めていることについてです。


霊的虐待は、神のための働きや、聖書的な目標を達成するために使われることがよくある

ここで、霊的虐待の重要な容貌ー少なくとも保守的な福音主義教会の中に存在するものーが見えてきますが、それは、聖書的な目標を達成するために使われることが多いということです。

もし私たちが、牧師がなぜ自分の部下を虐待するのかと尋ねれば、重度の自己愛性人格を含む多くの理由があるかもしれません。しかし、虐待は通常、牧師が自分の状況を必死でコントロールしようとするために起こります。彼は自分のスタッフをコントロールし、ビジョンをコントロールし、教会の方向性をコントロールしようとします。忠誠心は何としても維持しなければなりません。何事もミニストリーを狂わせることは許されないのです。そして、人々が道を踏み外した時(これは人間には起こりがちなことですが)、彼は鞭を打つのです。

ジョンソンとヴァンフォンデレンによると、『霊的な権威、教義、あるいは物事のやり方を守ろうとするあまり、疑問を持ったり、反対したり、自分の思うように霊的に "行動 "しない人を罵倒することもあり得る』(23)。

要するに、虐待行為は、教会の良い目標を達成するための手段として使われるのです(これはおかしな話なのですが)。

このことこそ、霊的虐待をまさに悲劇的にしている特質です。そして、この事実を見出すことは非常に困難です。霊的虐待で告発された牧師は、おおかた御国のために何かよいことを成し遂げていますーたとえば、福音を宣べ伝えていたり、教会開拓をしたり、貧困者を助けたりー彼らの働きは祝福されているように見えます。そのため、人々は多くの場合、その告発は事実のはずがないと思い込んでしまいます。

このシナリオの悲劇は、虐待が発覚したとき、当然ながら大概の人々はそれを信じようとしないことです。そのような可能性を認めると、その霊的指導者の周りに築き上げられている整然とした世界が崩れてしまうからです。そのため、虐待を行う牧師はこれらすべてのことに対して自分が信頼されるような”説明”を提供することが可能であり、また、成功したミニストリーが崩壊するのを見たくない支持者によって、虐待を行う牧師がバックアップされているとも言えるのです。


この3つの要素からなる霊的虐待の定義は、すべてを網羅しているわけではありませんが、今後の残りのシリーズの基礎としては十分なものです。霊的虐待の定義について、詳しくは、以下をご覧ください。

ウェイド・ミューレン:Somethings Not Right: Decoding the Hidden Tactics of Abuse 『何かが正しくない:隠された虐待の手口を解読する』(Tyndale, 2020)

Chuck DeGroatチャック・デグロート, When Narcissism Comes to Church『ナルシシズムが教会にやってくるとき』 (IVP, 2020)

Paul David Trippポール・デービッド・トリップ, Lead: 12 Gospel Principles for Leadership in the Church『リード:教会におけるリーダーシップのための12の福音的原則』 (Crossway, 2020)

David Johnson and Jeff VanVonderenデビッド・ジョンソン、ジェフ・ヴァンヴォンデレン, The Subtle Power of Spiritual Abuse 『霊的虐待の微妙な力』(Bethany House, 1991)



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