【強運のTさん ミッドウェー海戦と奇跡の生還】

 

 北海道室蘭市は三方を海に囲まれた港町で、古くからその地理的優位性から、日本の海軍と深く結びついてきました。

明治23年、山県有朋内務大臣の意見により、室蘭港は第5海軍鎮守府の位置と定められ、明治26年には正式に第5海軍区軍港となります。以降軍港の推移は省略しますが、函館どつくや楢崎造船(現在は函館どつくと合併)といった大手造船所が立ち並び、新日鉄(現 日本製鉄)や日本製鋼所と共に、まさに「鉄と造船の町」として繁栄を極めていたのです。

 

 室蘭市内の海に近い場所に、一軒の理容店がありました。

店主の名はTさん。当時、初老を迎えていた彼は、丁寧かつ手際の良い腕で、多くの常連客から親しまれていました。そして、彼は客の髪を刈りながら、自らの海軍時代を語ることがありました。

 

Tさんは昭和16年、家族と相談して、兵隊に行くなら陸軍ではなくて海の上の軍艦に乗りたいと思い、志願して海軍に入りました。

 

厳しい訓練の末、Tさんが配属されたのは、駆逐艦『野分』(のわき)でした。

全長118メートル、2033トン、速力35ノット。主砲12.7センチ砲3門、25ミリ機関砲2門、そして61センチ魚雷発射管2門を装備した日本の主力駆逐艦の一隻でした。Tさんは、この『野分』で25ミリ対空機関砲の射手としての訓練を受けます。

飛行機に曳航された吹き流しの標的を狙って撃っても、なかなか正確には当たらないと話していました。

 

(日本海軍 駆逐艦 ノワキ)

 

●ミッドウェー海戦 運命の分かれ目

1942年(昭和17年)6月4日。Tさんが所属する南雲機動部隊は、ミッドウェー島攻略作戦を決行します。しかし、この戦いは日本海軍にとって悪夢となりました。アメリカ軍の艦載機による猛攻を受け、日本は空母「飛龍」「蒼龍」「赤城」「加賀」の4隻すべてを失い、さらに重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を喪失。3057名もの戦死者を出し、ミッドウェー海戦は日本海軍の歴史的な敗北として記憶されることになります。

 

Tさんはミッドウェー海戦で、駆逐艦『野分』の25ミリ対空機関砲の第一射手として参戦しました。航空母艦4隻が次々と沈んでいく中、『野分』は奇跡的に生き残りました。

 

 

駆逐艦は、その速力を生かし、空母の周りを旋回しながら護衛するのが主な任務でした。しかし、敵機の攻撃を避けるための右急旋回(面舵一杯)と左急旋回(取舵一杯)の連続により、左傾と右傾と船体は激しく傾き、機関砲の照準を合わせることは至難の業だったと言います。

 

大型機関砲の照準は、左右旋回ハンドルの係員、上下垂直方向ハンドルの係員、射撃の引き金の係員、給弾の係員と、各員が絶妙に連携して敵機を追う必要がありました。一人で扱い射撃する9ミリや12ミリの小さな機銃よりも、操作ははるかに複雑で難しかったのです。ただ、敵機にしても威力の大きい機関砲の弾幕を避けながら突入するわけですから、対空砲火の効果はあったのです。

 

 

空母が撃沈され、多くの水兵が海に飛び込み、助けを求めていました。しかし、『野分』艦長の命令は「停船するな!」です。敵潜水艦の標的になることを避けるため、救助活動は夜になるまで待たなければなりませんでした。

 

『野分』が救助のために付近を航行する中、助けを求める沢山の水兵が見えました。呼ぶ声も聞こえてきました。空母が沈んだ海面は重油で覆われていて、海に浮かぶ水兵たちは重油にまみれて真っ黒で、本当に可哀そうでした。救助活動は、艦を走らせながら、材木などの浮力体を海に投げ込んでいきました。

やっと浮いている人を助け上げたのは、夜になってからの事でした。

ミッドウェー海戦を無傷で生還できたTさん。

これが、Tさんの「第一の幸運」でした。

 

●マリアナ沖海戦 またもの強運

1944年(昭和19年)6月。駆逐艦『野分』はマリアナ沖海戦に参戦します。ここでも敵機動部隊の攻撃は熾烈を極め、日本は空母3隻、戦艦1隻、重巡洋艦1隻、そして395機もの艦載機を失います。

経験が少なく錬度の低いこの当時の若い艦載機パイロットの技量は落ちて、発艦は出来ても、まともな着艦は出来なかったと言われます。

この海戦で日本海軍の残存主力艦艇と多くの航空機を失い、日本海軍の敗北でした。 

 

しかし、駆逐艦『野分』はここでも生き残り、Tさんはまたしても無傷で生還しました。

これが、Tさんの「第二の幸運」となりました。

 

●トラック諸島で負傷

その後、『野分』に乗艦していたTさんは、ラバウルからトラック島方面で輸送船団の護衛任務に就きます。そこで『野分』を襲ったのは、十数機のグラマン戦闘機群でした。

第一射手であるTさんは、即座に25ミリ機関砲の銃座につき、グラマンへの射撃をはじめます。

 

冷静に狙うのですが、艦の右旋回・左旋回で船体が傾き、やはり敵機にはなかなか当たらなかった。グラマンの射撃は、『野分』によく当たりました。敵機を射撃している最中は、どんなにグラマンの機銃掃射を間近に浴びても、まったく怖くなかったといいます。自分も相手を攻撃しているからです。

 

 

数回のグラマンの攻撃のさなか、Tさんは被弾します。敵の機銃掃射による跳弾の破片が首の正面から入り、300度近くグルっと首を回り、右首のところで止まったのです。熱いような痛いような感覚でした。

銃座から転げ落ちて、出血で意識が薄れたが、戦闘中は手当されませんでした。

対空機関砲はすぐに第二射手に交代して、射撃を続けました。陸上でも艦艇でも、敵に集中して狙われるのが機関砲の射手で、一番戦死率が高いと言われました。

 

グラマンが去った後、Tさんは駆逐艦の食堂に運ばれ、首に包帯を巻かれます。そして近くの島に寄港し、そこで『野分』を下船しました。広島の呉海軍病院に護送され、破片摘出手術を受け、しばらく入院生活を送ることになります。トラック諸島での負傷により、Tさんは無事に内地へ生還しました。

これが、Tさんの「第三の幸運」でした。

 

●最後の奇跡 強運に導かれた生還

1944年(昭和19年)10月、Tさんが下船した駆逐艦『野分』は、サマール沖海戦に参戦します。そこで『野分』は敵艦艇により撃沈され、ほとんどの乗組員が命を落としました。

もし、トラック諸島でTさんが負傷することなく『野分』に乗り続けていたら、彼の命もまた、海の藻屑となっていたことでしょう。

しかし、負傷による下船が、彼の命を救ったのです。

Tさんは、図らずも負傷したおかげで命拾いをしました。

これが、Tさんの「第四の幸運」です。

 

 

呉海軍病院を退院した後、また召集されたが、その頃にはアメリカ軍に日本の多くの艦船は撃沈されており、乗る軍艦がほとんど無かったのです。

それで本土の地上勤務で太平洋戦争は終わりました。

 

1945年(昭和20年)8月の終戦後、Tさんは横須賀海軍基地で戦後処理に従事します。戦後の国内は食料も衣服も不足し、餓死する人も多かったと言われますが、物資が乏しいなか、軍の備蓄により1年間は比較的安定した生活を送ることができました。

 

1年間の横須賀での戦後処理が終わり、任務を解かれて室蘭に帰る時、上官の好意で食料や毛布など、持てるだけを背中に担いで帰宅しました。しばらくは家族共々、暮らしに困らなかったそうです。

 

 

後年、Tさんは総理大臣からの感謝状と銀杯を賜り、子供や孫たちと室蘭で平穏な日々を送りました。平和な世の中が一番の幸せだと話していました。

 

 

●Tさんの強運の秘密

Tさんの尋常ならざる強運の理由は何だったのでしょうか。

彼の生涯を紐解くと、いくつかの共通点が見えてきます。

艦隊勤務中、素直な性格の彼は得意な理容技術で艦長など上官に信頼されました。

また部下への暴力や威圧は決してありませんでした。軍隊ではしばしば下級者への暴力が横行しましたが、Tさんはそうした行為を慎み、誠実な態度を貫いていました。

多くの場合、自分が受けた虐待のストレス発散で、部下に暴力をふるうと言われますが、Tさんは違いました。

 

そしてTさんは神社仏閣を大切にし、お地蔵さんなど、気がついた時には手を合わせたと言います。長万部など遠方の親戚が親の遺骨を納める墓がない時には、室蘭の自身の先祖の墓に入れてあげたそうです。そして、運気の良い方面を大事にし、運気の悪いものには近づかないようにしていました。

何が災いを招き、何が幸運を呼び込むのか分からない。

Tさんは、そのことを直感的に理解していたのかもしれません。

 

Tさんの生涯は、まさに「人間万事塞翁が馬」(にんげんばんじさいおうがうま)という諺を体現しています。

人生において、良いことも悪いことも予測できない。

幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないからこそ、何が良くて何が悪いのかは、後になってみないと分からないという、中国の古いことわざです。怪我や病気になっても悪い事ばかりでは無いと思えるようになりました。

 

※(ことわざの由来)

中国の北のほうにお城がありました。

そこに住むおじいさんの馬が、ある日逃げ出してしまったのです。

逃げ出したことを知った近所の人々は、おじいさんを慰めました。

しかし、おじいさんは「このことが幸運を呼び込むかもしれないよ。」とあまり気に留めていませんでした。

しばらく経ってから、なんと逃げた馬が戻ってきました。

しかも、たくさんの馬を連れて戻ってきたのです。

近所の人々は、喜びましたがおじいさんは「このことが禍(わざわい)になるかもしれないよ。」と言うのです。

しばらくすると、おじいさんの息子がその馬から落ちて怪我をしてしまったのです。

近所の人々がお見舞いに行くと老人は「このことが幸運を呼び込むかもしれないよ。」と言いました。

やがて戦争が起き、この城も戦争に巻き込まれてしまいました。

しかしおじいさんの息子は足を怪我していたので、戦争に行かずに済みました。

このエピソードから人間万事塞翁が馬ということわざが生まれました。

 

(くじら神社 室蘭八幡宮)