7事件を一つずつ、詳しめに見てみたい。
とはいえ、先行サイトや未解決事件本を参考に書かせていただいているので(ほとんど引き写し)、内容的には、既知のものばかりかと。
比較的目新しいものといえば、文章の内容ではなく画像のほうかと思われるので、そちらをご覧いただければと思います。
1975年8月発生の第1の事件
被害者であるY.Tさんは、杵島郡北方町大渡在住で、北方中学1年(当時12)の女子生徒だった。
(やや見えにくいが、画像中、赤線で囲まれた部分が北方町大渡。ちなみに赤線内に「富吉大明神」とあるが、そこから須古小学校までの距離は、直線で約2.7km)
Yさんの母親は、杵島郡白石町で飲食店に勤務。ネット情報には、「バー勤務」「クラブに勤めていた」「スナック経営」とあるが、Y.Tさん失踪から5年後の1980年6月の新聞では「スナック経営(41)」とされているので、Y.Tさんの失踪時はともかくとして、少なくとも80年6月の時点では「スナックの経営者」だったものと思われる。
1975年8月27日(水)、Yさんは、午後4時ごろに母親が出勤した後、近所の友達と遊んでいた。
いつもは母親のスナックの従業員控え室で勉強することが多かったようだが、この日は、自宅にいたという。友達は午後7時ごろに帰宅した。
8月28日(木)の午前零時半ごろ、母親が帰宅すると、Yさんの姿が見当たらなかった。
座敷やふろ場の電灯、テレビもつけっ放しで、布団が敷いてあった。普段はいている履物は残されており、室内に荒らされた様子はなかった。
母親は、近所を探し回ったが見つからず、28日、大町署に届け出た。
その後も、Yさんの行方は杳(よう)として知れなかった。
Yさん失踪から約5年後の1980年6月24日の夕方、杵島郡白石町の須古小学校で、糞尿の汲み取り作業を行おうとした衛生会社の作業員が、北側校舎トイレの便槽ふたを開けたところ、中に遺体が浮いているのを発見した。
警察が遺体を回収して調べたところ、2か月ほど前に失踪していた、当時20歳の喫茶店女性従業員H.Rさんの遺体であると判明した。(Hさんの事件については後述)
Hさんの遺体発見を受け、県警は白石署・大町署の合同捜査本部を設置し、殺人及び死体遺棄の疑いで捜査を開始した。
6月27日には、機動隊を投入した人海戦術で、須古小学校周辺の山や草むらなどで遺留品の捜索を行った。
この捜索の際、須古小学校の教頭が、気になることとして、捜索隊への申し入れを行った。
それは、「6月18日にプール開き準備のために、(プール横の)トイレの汲み取りをしようとしたが、そのときに業者が、『(便槽に)石がいっぱい詰まっていて、やりにくかった』と言っていた。念のために、(プール横のトイレ便槽も)調べてほしい」ということだった。
そこで、警察が須古小学校のプール横トイレ便槽(縦93cm、横31cm、深さ102cm)を調べたところ、便槽内に白骨化した遺体を発見した。(1980年6月27日、Yさんの遺体発見)
(1980年10月1日---遺体発見の約3か月後に撮影された画像。さすがにこれは、事件直後の新聞に載った画像と、建物の位置などが一致しているように見える)
発見時の状況としては、「便槽の鉄製ふたの真下に積まれた約30個の石の中に、頭だけを出して横たわるような格好で見つかった」とする情報もあり、一方で、「遺体の上には、近隣で拾った大小100個の石が敷き詰められていた」との情報もある。
同日(27日)の午後4時過ぎ、警察は、電動式カッターを使って便槽のコンクリートをはぎ取り、遺体を引き上げた。
遺体の着衣の襟の部分が赤と白のチェック柄で、5年前に失踪していたYさんの衣服と同じだったため、 当時佐賀市に引っ越していたYさんの母親に連絡した。
その襟の部分と、残っていた長い髪の毛を母親に確認してもらったところ、母親はそれらを一目見た瞬間、その場に泣き崩れ、Yさんに間違いないかという問いかけにも、涙ながらに頷くのが精一杯だったという。
翌28日、Yさんの遺体は久留米大医学部で司法解剖されたが、白骨化していたため、死因は特定出来なかった。
長期にわたってプール横の便槽ふたが開けられず、Yさんの遺体が発見されなかったことについて、
「プールの便槽に繋がる道がひどく傾斜しており、まむしが出る草むらだったため、便槽に車を近づけるのが困難で、プール授業に前後して行われるし尿の汲み取りは、(便槽側からではなく)便器側から行っていた。このため、長期間、便槽のふたが開けられることがなく、Yさんの遺体は発見が遅れ、 石の下で白骨化したものと思われた」
との見方がある。
(上の画像は、1975年3月8日---Yさん失踪の約半年前に撮影されたもの。プール横にある、トイレとおぼしき小さな建物の位置が、1980年10月撮影のそれとは微妙に違うように見える。)
1980年4月発生の第2の事件
被害女性H.Rさんは、杵島郡大町町福母在住で、喫茶店「リンデン」のアルバイト従業員だった。
(赤線で囲まれた部分が、大町町の福母地区。ちなみに、赤線内に佐世保線「大町駅」があるが、そこから須古小学校までの距離は、直線で約3.5km)
Hさんは6人家族で、4人姉弟の二女(姉、Hさん、弟、妹)。
Hさんの年齢について、多くの情報には「当時20歳」とある一方で、「失踪したのは4月12日(土)であり、20歳の誕生日を明日に控えていた」ともあるので、失踪時は19歳、遺体発見時は20歳ということかと思うが、よくわからない。
喫茶店「リンデン」に務める前には、やや分かりにくい流れをたどっていたようで、ネット情報によると以下のようだった。(引用)
「Hさんは地元の大町中学校を卒業後、兵庫県の尼崎市内の病院に就職し、看護学校に通っていた。
1977年3月に帰郷後は、杵島郡江北町(きしまぐんこうほくまち)の病院に通いながら武雄市の看護学校に通っていた。
1978年5月から、大町町の喫茶店『リンデン』経営者の次女とHさんの姉が同級生ということから、同店に勤め始めた。
その後、大阪で就職していたが、 母親が病気をしたことで再び1979年8月から同店で働いていた。
真面目であかるい性格で以上のような経歴から、看護学校時代、 同喫茶店などで知り合った人など交友関係は広く、男友達も多かった。
店から男友達に電話をすることもあり、相手は24歳くらいだったという。その半面、失踪当時何かに悩んでいたという知人女性の証言もある。」
Hさんは真面目で、バイトを休むこともなかったが、異性関係で悩んでいる様子があり、失踪前にも2度、睡眠薬で自殺未遂をしたことがあった。
今でいうメンヘラの気があったのか、周囲には、「20歳の誕生日に自殺したい」と漏らしていたという。
Hさんの働いていた喫茶店「リンデン」には雑記帳があり、そこには、「考えることすら、"あの人"のことばかり」という、Hさん自身の書き込みもあった。
Hさんの喫茶店によく来る客の「U」という人物が、Hさんの姉と交際・同棲していた。
このUはまた、Hさんとも交際(つまり二股)していた、との噂もあった。Hさんは失踪する2週間前、誰かと旅行した形跡があった。
友人が、結婚式を迎える知り合いへの贈り物をHさんに相談すると、「そんなことを考えてる余裕はないの。今すごく悩んでるの」と、深刻な様子だった。
その3日後、20歳の誕生日を明日に控えた4月12日(土)の午後11時半ごろ、自宅から愛用の黒と白の横縞のネグリジェを着たまま姿を消した。
平素から「20歳の誕生日に自殺したい」と周囲に漏らしていたこともあり、心配した家族の求めで、すぐに公開捜査に踏み切った。
失踪当日は、父親が怪我で入院しており、母親はその介護で病院に付き添い、姉や妹は外泊、弟は県外で働いており、家にはHさん一人だったという。
Hさんの履物は残っており、室内に荒らされた形跡はなかったが、その後の捜査で、3月末に買ったばかりの時計が、現場からなくなっていたことが判明した。
Hさんの失踪直後(4月16日)、父親のもとに、鉛筆書きで3行の脅迫状が届いた。
旧仮名遣いで書かれており、1行目は、「家族の人権を著しく傷つけるプライバシーに触れ」ているため非公開で(1980年佐賀新聞)、2行目と3行目に、「娘ハ帰ラナイダロウ」「苦シメ」と書かれていた。
同時期、「人捜しのテレビに出るな」「Hさんの写真を出すな」という脅迫電話もあったという。
失踪から約2か月後の1980年6月24日夕方、Hさん宅から5kmほど離れた須古小学校(杵島郡白石町)の北側校舎トイレ便槽内から、Hさんの遺体が発見された。
(1980年10月1日---遺体発見の約3か月後に撮影された画像)
この日は、衛生会社(白石衛生社)の作業員が、須古小学校で2か月に一度のし尿の汲み取り作業にあたっていたが、作業のため北側校舎トイレの便槽ふたを開けたところ、中に人の遺体が浮かんでいるのを発見し、警察に通報した。
遺体は、全裸・仰向けの状態で浮かんでおり、すぐ側に、スリッパ一組と、児童用サンダルの片側があった。
顔は判別できないほど腐乱していたが、左手親指の指紋から、4月12日から行方不明になっていたHさんであると判明した。
遺体発見の翌日、久留米大学医学部で司法解剖が行われた。
死後1~2か月が経過しており、 死因は、首を締められたことによる窒息死の可能性が高いことがわかった。 (一方で、死因は不明とする情報もある)
肺に異物が入っていないことから、別の場所で殺害され、便槽に遺棄されものと推定された。
遺留品はなく、便槽を調査した際、パンティストッキングと注射器が発見された。(先の「スリッパ一組と、児童用サンダルの片側」との関連は不明)
衛生会社の作業員によると、須古小学校で前回し尿の汲み取り作業を行ったのは4月21日で(Hさんの失踪は4月12日夜)、その時には、便槽内に異常はみられなかったとのことだった。
一方で、同小学校では、6月10日(遺体発見の約2週間前)に行われた校内大掃除の際、便槽付近で草刈りをしていた女子児童が、両手に一握りずつの赤い髪の毛を発見していたが、現場付近に捨てられていたこの髪の毛を捜査員が持ち帰り調べたところ、Hさんのものであることが判明した。
さらに、便槽のマンホールにも、この髪の毛が数十本付着していた。
以上のことから、犯人が遺体を便槽に投げ入れた時には、遺体はすでに腐乱が進んだ状態であり、犯人が髪の毛をつかんで移動したために抜け落ちたとみられること、また、犯人が遺体を便槽に投げ入れたのは、4月21日から6月10日までの間であると推定された。
死因は、窒息死であるとか不明であるとか言われる一方で、遺体発見直後には「刺殺」の可能性を思わせる記事も出ているので、以下に紹介したい。
(1980年6月28日付、毎日新聞)
上の記事より抜粋:
「男子脱衣場のブロックべい三面(?)にはけではいたような人間の血液が多量につき、コンクリート床にも血液が点々と落ちていたことがわかった。
Hさんの遺体が発見されてから1日経過した25日夜、捜査本部は遺体のあった便槽一帯でルミノール検査をしたが、血液反応は検出できなかった。
このため、27日調べたところ男子脱衣場の床と壁三面(?)から、多量のルミノール反応が出た。
捜査本部では、脱衣場から血液反応が出たことを重視、検出した血液型の鑑定を急いでいる。
捜査本部は犯人が閉鎖中のプール脱衣場でHさんを殺害、死体が腐乱したのとプール開きを間近に控えて発覚を恐れ、Hさんの遺体を第二校舎北側の便槽に投げ捨てた可能性が強いと見ている。(中略)また犯人像については、二人の被害者と面識があり、自宅に自由に出入りでき、たやすく被害者を誘い出せる者、さらに土地カンがある者との見方を強めている。」
この記事に関連する情報がネットには出ておらず、「プールの男子脱衣場で発見された血液」と「Hさん殺害事件」との関連の有無を、最終的に警察がどう判断したのかはよくわからない。
警察は、容疑者に目星をつけ追求したが、起訴には至らなかった。その間の事情は、ネット情報によれば次のようだった。(引用)
「(遺体発見の)翌年3月12日、重要参考人として浮上していた武雄市内で農業を営むU(当時29)という人物が、工員を殴ったとして逮捕される。別件逮捕だった。
Uが疑われた理由は、YさんともHさんとも知り合いだったことだった。UはHさんの働く喫茶店によく出入りしており、彼女の姉と同居していた。結婚するつもりだったが、Hさんの家族に反対されていたという。
UはHさんと交際しており、Hさんが失踪前悩んでいる様子だったのはこのことからだった、という噂もあった。
また、Yさんの母親は以前に白石町内のクラブに勤めていたが、Uはその店にも常連として訪れていたという。
(注: 時期は重なっていないが、Hさんの母親もその白石町のクラブに勤めていたことがある)
捜査本部はUの友人を次々と逮捕し、彼らから情報を引き出そうとしたが、これといった証言を得ることはできなかった。
結局、証拠がないため、2件の殺人事件について、Uへの追及は打ち切られている。」
Uについては、「白石町に住む、無職の男(当時29)」とする情報もある。
それによると、このUの素行は悪く、Hさんの姉と交際し、結婚するつもりだったが、Hさんの親からは素行の悪さなどを理由に結婚を反対されていた。
Uはやはり、Hさんとも交際していたという噂があった。
Hさんが失踪した直後、Uは地元の新聞社を訪れ、「Hさんを捜さないでくれ」と言ったり、「捜してくれ」と言ったりと、矛盾したことを一方的に話したという。
またUは、便槽事件のもう一人の被害者である中1女子Yさんが失踪した当時、Yさんの母親が勤めていた白石町のクラブ「K」にたびたび出入りしており、その後、Yさんの母親が佐賀市に転居して同市内でクラブを経営し始めると、その店にも何度か顔を見せていた。
Hさんが失踪した4月12日(土)の行動について、Uは、「佐賀市内のバーで午後11時ごろまで飲んでいたが、朝方帰宅した」と警察の事情聴取に答えているが、Hさんの失踪時刻と推定される午後11時半ごろのアリバイは明確ではない。
Uは須古小学校の出身で、自宅も小学校に近かった。
捜査本部は、Uと親しかった友人や、付き合いのある非行グループを婦女暴行や窃盗の容疑で逮捕して、Hさん殺害事件の情報を得ようとしたが、めぼしい情報は得られなかった。
また捜査本部は、過去に起きた婦女暴行事件の容疑でUを別件逮捕したが、Uは、婦女暴行については容疑を認めたものの、Hさん殺害については否認した。
さらに捜査本部は、U宅の家宅捜索でHさん宅に送られた脅迫状---「娘ハ帰ラナイダロウ」「苦シメ」というもの---と同じ便箋を発見し、筆跡鑑定の結果、筆跡がUと一致したことにより、Uを脅迫容疑で逮捕したが、Uはそれでも、Hさん殺害については否認を続けた。
結局、脅迫状がHさん殺害と直接結び付くという確証がなく、Uに対する追及は打ち切られた。
捜査が難航しているときに、捜査本部に女性の声で、次のような匿名の電話が入った。
「私は大町町の出身です。いまは武雄市内に嫁いでいますが、たまたま用事で(大町町に)里帰りをした夜、実家にいたとき、男が隣家の娘さん(Hさん)を車に運び入れるのを見ました。ただ、姑との折り合いが悪いので、本名で名乗り出ると実家に帰ったのがわかってしまい、ひどく怒られます。ですから、名前を明かすことはできません」
捜査本部は色めき立ち、この電話の内容に合致する女性を見つけ出し、事情聴取を行った。(Hさんの自宅裏に実家があり、武雄市に嫁いでいる女性を割り出した)
しかし、女性にはそんな電話を掛けた覚えがなかった。
「結婚して5年目くらいでした。突然、警察の人がやってきたので、最初はびっくりしました。何度、『そんな電話は掛けた覚えがない』と言っても信じてもらえないのです。
結局、声紋の検査をやらされる羽目になりました。それも1回では済まず、3回もやらされました。それでようやく疑いが晴れたんです」(女性談)
その女性は、刑事たちからその匿名電話のテープも聴かされた。
女性によると、そのテープの声は、「生真面目な声で、多少おどおどしている感じ」だったという。
以下の画像は、2遺体の発見以降に撮影されたもの。
まずは1981年10月3日の画像。遺体発見の約1年3か月後の画像だが、事件にまつわるものはなるべく早く撤去するという方針だったのだろうか、北側校舎横にあったトイレとおぼしき建物は、早くもなくなっているようにも見える。
続く3枚は、グーグルマップからの画像。かつての北側校舎の三角屋根が平らなそれに変わっており、校舎横のトイレとおぼしき建物を確認することはできない。
また、プールの構造自体が事件当時とは変わっており、プール横にあったトイレとおぼしき小さな建物もなくなっている。