左団扇のブログ

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 Ⅶ ジルベルトの二人の友人

 

   ジルベルトはあずまやにはもう戻らなかった。繊細な気持ちがそれを許さなかった。それでも、何時もの時刻になると、毎日が薄雲の様に彼女の心を通り過ぎ、もう少しで、自分の恩知らずぶりを責めそうになった。


 素性の知らない友人に対する、漠然とした後悔にしか過ぎなかったものは、別な方向において、すなわち、毎日顔を合わせる友人(ギヨーム)に関係して、明確なものになった。彼に全く新しい友情を捧げて、それで初めての感動を味わいたいと思っていた。確かに、彼女の中で二つの感情の間に葛藤は無かった、一方はずっと遠く摑み処の無い存在で、もう一方は明確で生き生きとした存在だ。しかしながら……。


   もっと几帳面な者の心にも、さざ波も起こさない様な子供じみた葛藤だが、ジルベルトのそれの様に、平和で純粋な良心には大きな動揺だった。


   しかしながら、これらは全て彼女の心の奥で、言って見れば知らぬ間に起こった事であり、彼女の人生に対する魅力を弱めはしなかった。何故ならそれは魔力であり、過去の闇と現在のまばゆいばかりの光とを比較した時、彼女には奇跡に近いものに思われたからだ。彼女が目覚めた時に震えた喜びは何処から来たのだろうか、花や風景、百遍も見詰めたのに一度も気付かなかった光景等を見て興奮した、あの熱狂は何処から来たのだろうか。あの思考力の高まり、突然の赤面、心身全体の説明の付かない麻痺、そして同時に、彼女の生活の不安定を、力強さ、信仰、忍耐そして確実性等で補強していた、変わる事の無い平静さは、何処から来たのだろうか。


 アンデーヌの森で何が起きたかと云う言及はついぞなされなかった。しかしあれ以来、ド・ラ・ヴォードレイ夫人の、息子を見る眼は変わり、ジルベルトに対する態度にも、それ以前には無かった微妙な尊敬の念が加わった。


 ギヨームはジルベルトに言った。


「あなたは本物の妖精、いや妖精以上です。何故なら、あなたは自分で望まなくても、自分で知らなくても、能力を発揮する事が出来るからです。あなたには、善い事をしようとしたり、他人の怨恨を解消したり、心の痛手を癒そうとしたりする意志は必要はありませんし、人に善良で寛容になりたい気を起こさせたりする意志も必要ありません。あなたは存在するだけで良いのです、そうすればあなたの周りの人々の心が気高いものになります。


 ジルベルトはにこやかに聴いていた。相手から賛辞を受け取っても顔を赤らめはしなかった。仮に自分の美しさを褒められたり、魅力の全てを羅列されても、恥ずかしそうに眼を伏せたりはしなかっただろう。ギヨームは若い娘の羞恥心を揺り動かす事が出来なかった。


 或る朝、それは前日にジルベルトがド・ラ・ヴォードレイ夫人宅に行かなかった翌日の事だが、アデルが街から息を切らしながら戻って来た。


「ああ、奥様、一大事じゃありませんか、昨日の夜会で、シマールの息子さんが……」


「でも、彼なら欠席のはずじゃ」と、ジルベルトが訊いた。


また戻って来ました、そして、昨日の夜会で、『ミレイユ』の二重唱の時に、彼とギヨームさんが……、人から離れた所で言葉を交わしていて……、口論になったそうで……、どうもシマールの親父さんがひどく場にふさわしくない物語をしたらしく、それをギヨームさんが息子に非難した様です」


「ああ、それも私のせいだわ」と、ジルベルトは思った。彼女には、ギヨームが絶交を持ち出す最初の機会を利用したとは、つゆ疑わなかった。


 更に訊ねた。


「それ以上の事は分からないの」


「ええ、何も……、先程、貸し椅子係の女が、警官二人がシマール家の呼び鈴を鳴らすのを見て、それからギヨームさんが乗合馬車を止めたらしいのですが……、それは無関係です……」


 二人の若者の間の口論がどんな結末を辿るか予測出来ず、ジルベルトはル・ウルトゥ氏とボーフルラン氏の場合の様に、自分が取り成しても事態は改善しないだろうと思った。ギヨームはもう二度とシマールの息子の受け入れに同意しないだろうし、シマールの父親は息子と同じ立場を選ぶだろう。そうなるとド・ラ・ヴォードレイ夫人は常連客を一度に二人失い激怒するだろう。結局は、ジルベルトがそもそもの原因である、一連の騒動や喧嘩が元になっているのだ。


 寂しく昼食を食べた。何かの危険を予感して暗い気持ちになったが、それが一体どんなものかは分からなかったし、誰に危険が迫っているのかも分からなかった。


 直ぐに立ち上がり、外出してド・ラ・ヴォードレイ家に向かうには、心配事が現実のものでなければならない。しかし、怯えつつもためらいながら、急に立ち寄るには、用向きが無駄な様であり重要でもある様に見られなくてはならなかった。どうしたら良いのだろう。誰に対して働き掛けるべきか。どんな出来事を避けるべきか。


 教会が近くにあり、彼女はそこに入った。しかし、お祈りを捧げる事が出来ず、彼女の不安はその原因が分からぬまま、更に(つら)いものになった。そこで、ロジに戻って何もせずに堪え難い想いをするよりかはと、幹線道路を谷底まで降りて行きしばらくヴァレンヌ沿って進みそれからラ・オート=シャペル[1] の方へ、また昇って行った。


 三時頃、少しくたびれたので、小さな森の外れに日陰を探し、腰を下ろした。


 彼女が道路を離れると直ぐに、乗合馬車が通り過ぎ、森の中の道を曲がって行った。ギヨームはその中にいただろうか。


 鈴の()そして鞭のもう一台の馬車の到来知らせシマールと二人の警官を乗せた四輪馬車猛スピード走り先の馬車と同じ道を消えて行った


 恐ろしい考えが浮かび、そのショックでジルベルトは一瞬胸がどきどきした。そんな事があってはならない、そう、絶対に駄目だ。そして、突然、彼女は息も絶え絶えに走り出した。十字路で直ぐに足を止めた。三つの道の内のどれを選ぶべきか。


 右の道を選んだが、百歩進んだ所で真ん中の道につながり、そして更に左の道につながった。そこで彼女は、藪をかき分け、大きな道の草の上の車輪の跡を探しながら、手当たり次第に歩き回り、シダの上に身を投げ、高ぶった神経をかき集めて耳を澄まし、辺りを見回した……。銃声が一発……、ほとんど間を空けずにもう一発……、とても近くだ……。 


 彼女は悲鳴を上げて倒れた。


 数分が経過した。まるで夢の中の様に、木々の枝の間に、二台の馬車が通り過ぎるのが見えた。それから、声が響き渡った……。 


「間違いありませんよ、先生(ドクター)今のは女性叫びでした」


 まぶたを開ける事も話す事も出来ずに、ジルベルトは男が二人近付いて来るのが分かった。その内の一人が彼女に向かって屈み込み、その片手を取った。


「何でも無い……、ただの気絶だ」


「それなら先生」と、もう一人が言った。「どうか長居をなさらずに、私が御婦人(マダム)送って行きます


[1]  ドンフロンからは北西に2キロ位行った所にあった村。2016年にドンフロン及びルエレと合併し、現在はドン・フロン・ポワレと云う自治体になっている。