北海道道東の雄武町で失踪した漁師4人は、北朝鮮による拉致の疑いが持たれていますが、当日、不審な船が目撃されていたことがわかりました。
1967年、雄武町の紙谷慶五郎さんと息子たちの合わせて4人が、漁から戻らず、行方不明となりました。捜索では、無人の船だけが海底から見つかっています。
当時、船の給油を担当していた鈴木辰治さんは、紙谷さんたちの船が漁を行わない浅瀬で、不審な船に囲まれているのを目撃しました。
北朝鮮の元工作員が「漁師たちを海上で拉致して、船は沈めた」と証言していて、海上保安庁が当時の海難事故を再調査しています。
1967年、雄武町の紙谷慶五郎さんと息子たちの合わせて4人が、漁から戻らず、行方不明となりました。捜索では、無人の船だけが海底から見つかっています。
当時、船の給油を担当していた鈴木辰治さんは、紙谷さんたちの船が漁を行わない浅瀬で、不審な船に囲まれているのを目撃しました。
北朝鮮の元工作員が「漁師たちを海上で拉致して、船は沈めた」と証言していて、海上保安庁が当時の海難事故を再調査しています。
失踪当日、所有する漁船「圭運丸」(6トン)に父親と息子の3人(計4人)がともに乗船し、当日午前6時頃に北海道雄武町元稲府北岸港を出港し、港から7キロ付近にてイカ底建て網漁を操業。
船体は遭難付近の海底にて発見されたものの、引き上げ作業に失敗した。船の油や残留品などが海面で発見された後に、雄武町付近の海岸でも発見された。
乗組員4人の遺体は発見されないまま、捜査は打ち切られた。
乗組員4人の遺体は発見されないまま、捜査は打ち切られた。
拉致の可能性が高い。
以前から工作員たちは船を物色し、誰を拉致するか下見をしていた。
工作員の中には父親と面識のある者もいて、家族構成などを探っていた。
慶五郎さんから親子4人で漁に出るという情報を聞き付け、工作員たちはその日に決行することにした。
そして当日、事件が起こってしまう。
4人は激しく抵抗し、特に慶五郎さんは息子たちを守ろうと必死だった。
しかし相手の方が人数が多く、刃物も持っていたため逃げきれず拉致されてしまった。
それからの人生。慶五郎さんと長男、次男は新しい場所で生きていくため順応し、仕事も私生活も順調にこなしていった。
三男は新しい生活を受け入れられず、しばらく苦労した。生活は営んではいるが、3人のように上手くは生きられなかった。
4人は生涯、残してきた妻や母親のことを忘れたことがない。気掛かりで、心配で、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。