クリスチャンである友人の話です。彼は、口頭で物件の約束をして、好条件で事務所として数年借りていました。そんなある日、体調を崩したとオーナーが訪ねてきて言いました。

 

´「私の健康状態では、もしものことがあるかもしれない。今のこの物件の状態を、口頭ではなく、書面で残し、期限を切って然るべき金額でここを買いとって欲しい。

 

ただし、期限内に然るべきべき金額が支払えない時は、立ち退いてもらい、売りに出すことにしよう。」彼らはその通りにし、期限も金額も決め、後日契約を交わすことにしました。

 

しかしオーナーは、その人と会うことなく帰らぬ人となりました。その後、新オーナーが、その事務所に会いに来ることになりました。

 

その人は、書面に落とした全オーナーとの約束を提示し、事情を話しましたが、新オーナーは一切受け入れず、、期限も無視して然るべき金額を支払わねば出て行くように言いました。

 

彼は、その物件に設備を持っており、その設備を物件で使える期日が残っている契約を、別途前オーナーと結んでいました。

 

その設備投資は、高額であり、まだ償却も終わっていない状態でしたので、徹底抗戦も辞さない怒りの思いが湧いてきました。

 

しかし、それを察知した妻が言いました。「あなたは、誰の子なの?」彼は言いました「神の子・・・。」彼は争う気持ちを抑えました。

 

然るべき金額は、決して安くはなく、彼がすぐに支払うことは困難でした。彼は、神に祈りました。妻の言葉によって、理性で抑えていますが、怒りは払しょくされていないかったのです。

 

彼の心は、数日間揺れ続け、そのたびに妻は、「あなたは、誰の子なの?」彼は「神の子・・・。」と答えるというやりとりが繰り返されました。

 

彼のその状態は抜けきらないまま、ある晩、祈りました。しかしその日は祈るよう強い促しがあったとのことです。

 

すると、向かいの壁に付いている十字架のイエス様が、血を流しているように見え、そのイメージはなくならず、強く心に焼き付いたようでした。

 

彼は、イエス様に、「これはどういう意味ですか?」と祈って尋ねると、以下のようなイメージが湧いてきたということです。

 

「私は、彼(新オーナー)の罪を背負ったのだから、あなたも背負いなさい。それともあなたも私を十字架に付ける側になるのですか?」

 

彼は、有名な小説「クオ・ヴァディス」のクライマックスの以下のやり取りを思い出したそうです。

 

。ペトロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れることに同意した。

 

夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストの姿を見る。ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。

ラテン語: Quo vadis, Domine? (主よ、何処にか行き給う / 主よ、どこに行かれるのですか)

キリストは言う

汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん/そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。

ペトロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。

 

彼は、はっとして悔い改めたそうです。彼の心は安定したようでした。しかし翌日、彼の友人が言いました。「その設備、もったいないね。」

 

この一言で、彼は新オーナーに補償を求めてもいいのでは、という思いが湧き出てきました。しかし、彼がその晩祈ると、以下のことを思い出したということです。

 

その設備投資について、彼が苦しい時期、債券者が債務を大分帳消しにしてくれたことがありました。その金額を考慮に入れると、償却どころか撤去分まで回収が終わっていたのです。

 

彼は、神はすべてを見ており、損はさせていないことを教えてくださったと感じ、心のわだかまりがすべて消えたことを感じました。

 

彼は、これらのことを妻に喋ると彼女は、ほっとしたようで、このように言ったということです。「あなたの心が揺れ神以外のほうを向くので不安だった。

 

だから、そのたびに、神があなたに触れてくださるように祈ってた。神は祈りを聞いてくださった。」『良い妻を持った夫は幸福である。

 

彼の寿命は二倍になるだろう。』(シラ書〔集会の書〕/ 26章 01節) アーメン

 

以上は、サタンが人をどのように罪を犯させるよう唆し、どのように罠を仕掛け、どのような手を使ってくるかが、よく現されています。

 

ヨブは、最初に物理的に、次に肉体、最後に霊魂を攻撃されました。物理的、肉体的は分かりやすく書いてありますが、霊魂については愛する妻や、信頼する友人の口を通してきました。

 

しかし、神が全能であることを信じ全うすることで、彼は復活したのです。私たちは神が愛であることを知り主がともにいてくださる方であることを知っています。

 

そこから離れてはいけないことの証として紹介しました。 ハレルヤ

 

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