以前から気になっており、ときどき拝読していた「コラム・インテリジェンス」のhttps://ameblo.jp/column-antithesis/

本日の記事ゼノン13に神についての記述があり、キケロの「神々の本性」について

ブロガーであるアリストス氏は下記のような解釈を述べている。

 

我々の「主」は宇宙の真理摂理・論理・理性であり、

我々の「神」は宇宙の神聖真聖・善と慈悲にあるようです。

 

なのに多くの宗教が特定または複数の神々を崇めているので

僕は無信仰無宗教、無神論者のまま現在に至ってしまいました

 

この無信仰無宗教、無神論者ということについて、多いに共感した。

そもそも多くの日本人は、個別の宗教信者でないかぎり、

誕生から七五三くらいまでと正月は神社で、

クリスマスはキリスト教で、亡くなる時は仏教というのが定番である。

これはもう無信仰無宗教、無神論者と言ってもいいと思う。

 

個人的なことで恐縮だが、昨年私はキリスト教的無宗教で母を見送った。

母はキリスト教の信者ではなかったが、プロテスタントの女学校出身で賛美歌がとても好きだった。

数年前、従兄弟の葬儀に参列した時、いわゆる仏教の葬儀に違和感を覚え、

母の時は賛美歌で送りたいと強く思ったのだ。

そこで、教会の牧師さんに斎場までおこしいただき、ミサを行い、賛美歌を参列者とともに歌い、

簡素ではあるが母らしく華やかに旅立たせることができた。

キリスト教風の良いところは、柩を飾る花も洋花ばかりで、しめやかだが明るいことだ。

また、幸いなことに我が家の墓地は宗教問わずなので戒名がなくても納骨できるのだ。

キリスト教風の不利な点は、斎場が仏教優先であることくらいだろう。

 

知人のご母堂の葬儀はより無宗教であった。

聞けば、その家はあるお寺の檀家で、お父上の葬儀を執り行った際、

物心ともに大変な負担だったとか・・・そこで、ご母堂の葬儀は親戚一同の了解のもと、

お坊さんを呼ばず、ご母堂が宝塚ファンであったこともあり、

越路吹雪のCDを流し、あとは故人の思い出話のみの告別式だったのである。

そちらは檀家であるために納骨には戒名が必要だが、

知人は何年か経って、お寺へのわだかまりがなくなってから納骨すると言っていた。

 

最近は宗教、特に仏教にこだわらない人たちが増えているようで

葬儀社のリストには散骨、樹木葬から無宗教の音楽葬なども載っている。

その風潮に乗ってか、近頃はカトリック教会でさえ、信者でない人の葬儀を受け付けている。

 

もともと日本人のほとんどが無信仰無宗教、無神論者なのであるから

人生の最後くらいは自由に、その人らしく旅立つべきではないだろうか。

 

アリストスさんは

僕の「主」はカオスから生まれた母なる大地ガイアであり、

僕の「神」は絶対的万能神ゼウスなのであります。

 

そして時にはゼウスの息子アポロンを崇め、また、時には

ゼウスの娘たちで知と愛欲の女神アフロディティや、

戦略戦闘の最強戦士にして月の女神セレネであったり、

知力策略文武両道最高の女神アテネに祈ったりもしています。

と続けているので、自由壮大を感じ、仏教で締めくくらないことを心から願う。

 

ちなみに私は海に散骨と決めている。

 

「死ぬ時くらい自由にさせて」というと尊厳死がテーマになるので

このブログの締めは「葬式くらい好きにさせてよ」にする。