まずはおさらいですが、「遊郭」とは「遊女が集団的に居住、売春業が公認されていた特定の地域。公娼街。色町。遊里。くるわ。」(『日本語大辞典』講談社)のことです。公娼が制度化されたのは江戸時代初期。大都市各所に散在していた遊女屋を京都島原、大坂新町、江戸吉原に統合したのがはじまりといわれ、三都以外長崎、奈良など全国の都市にも幕府によって公認された遊郭ができました。明治以降も内務省の許可を得て営業が続き、川崎の場合、現在の南町が公認の川崎遊郭となり、堀之内は非公認の私娼街でしたが、京浜工業地帯の発展とともに2つの街ともに関東屈指の色町として大いに賑わいました。
戦局が悪化した1944(昭和19)年、遊郭は他の接客業とともに営業が全面禁止となり、多くの遊女が従軍慰安婦として戦場にも駆り出されました。このコラムでは反日帝論をブチ上げるつもりはありませんので、戦争の悲惨さ云々は割愛しますが、敗戦により虚構の日本帝国は壊滅し、あらゆる面で新しい動きが始まったのです。1945(昭和20)年、日本の敗戦日である8月15日から一週間足らずの8月21日に、驚くべきことに、“公娼街の早急なる整備”が閣議決定されたのです。これはGHQ対策として、「良家の婦女子をアメリカ兵から守る」という大義名分だったようですが…
こうして旧遊郭エリアには急ごしらえのバラックが建ち並び、かつての遊女の他に、戦災孤児や職にあぶれた女性が続々と集まったのです。しかし中には、「女中募集」とか「家政婦募集」といった嘘の求人で集められた女性も多くいたようです。
川崎遊郭と堀之内もこうした流れの中で再建されました。吉原や新宿が空襲で消失し、戦後の遊郭には新規の業者がほとんどだったのに対して、川崎の場合、運良く戦災を逃れた店も多く、再建も早かったのです。
堀之内の場合、政府のお墨付きのない無許可地区だったのですが、ウヤムヤのまま妓楼が再建されたのです。かつて軍が中に入って取り締まりをおろそかにしたこともあり、またお隣の横浜市街地が広範囲にわたって米軍に接収され、溢れんばかりの米兵対策に遊女の存在は欠かせないものだったようです。
日本政府は、米兵対策を第一の目的に遊郭を再建しましたが、当のGHQは、不当な人身売買を防止するために、1946(昭和21)年1月に、公娼制廃止の命令を出しました。日本政府は、廃止命令への対抗策として「社会上やむを得ぬ悪として生ずるこの種の行為については特殊飲食店を指定して警察の特別の取り締まりに付かせ、かつ同店は風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置」させることにしました。
この結果、旧公私娼地区とほぼ同じ区域に特飲店街が形成されることとなり、これらの地区を「赤線」と呼ぶようになります。結局、必要悪とされながらも妓楼は存続したのです。
「赤線」とは、警察署の防犯課が地図上、特殊飲食店のエリアをわかりやすく赤い線で囲ったことに由来します。赤の範囲が「娼婦の自由意思」での売春を認めた「特殊飲食店街」で「赤線地帯」、青が飲食店の営業許可だけでもぐり売春を行う「青線地帯」と色分けされました。
川崎では、明治政府のお墨付きを得た南町が「赤線」で、堀之内は「青線」と規定されました。しかし、戦後復興の流れの中で、川崎市最大の闇市が市役所前の疎開跡地に形成されていたこともあり、人の流れは堀之内方面に向き、もぐり売春ながら活況を呈したとされています。
戦後の堀之内は、全盛期には100軒近い飲食店(小料理屋)と旧貸座敷(旅館形式)があったようですが、女性の質のわりに値段が安かったのも人気の理由だったようです。堀之内の女給(戦後は遊女でなくこう呼ばれた)の旅館での泊まりのお遊び代は800円~1000円で、ちょんの間でのショートタイム(20分程度)のお遊び代は300円くらいでした。おとなりの南町がもう少し高く、泊まると1500円くらいになり、吉原はさらに高く3000円もかかる高級店があったそうです。
我が国に、正式に売春防止法が成立したのは、形式的全廃から10年後の1956(昭和31)年5月でしたが、これが法案として国会に提出されたのは、1947(昭和22)年の第二回国会が最初でした。以来、数度に及ぶ審議未了ということで難を逃れていましたが、赤線業者の間では、いずれ全廃は免れないだろうという空気が漂っていたようです。
ちなみに、当初、警察内部の識別から色分けされた呼び方が、売防法施行後は地下に潜った売春の形体を指す一種のマスコミ新語となりました。女性を普通のアパートなどに住まわせて売春させ、業者は離れたところで監視し金を絞り取るのが「白線」(パイセン)で、一般の新聞の見出しにも使われたくらい普及しました。美人局(つつもたせ)や、やらずのぶったくりが行われるような暴力売春店が「黒線」、電話の呼び出しで売春するコールガールが「黄線」(おうせん)です。
さて、国会での審議が曖昧に終わる中で、各自治体の対応の方が早く、1951(昭和26)年に、埼玉、栃木の両県、そして横須賀、神戸、岩国、千歳、小倉の各市で売春取締条例が制定されました。この年の4月、日本で最初のトルコ風呂が銀座に誕生しました。名称を「東京温泉」といい、短パン姿の制服を着た美形のマッサージ嬢による個室でのサービスを売りにオープンしたこの店は、600円という破格の料金にも関わらず、連日満員の大盛況ぶりでした。「東京温泉」の経営者は中国からの引揚者で、中国の垢すりボーイを若い女性に変えるという発想で始めた店だっただけに、Hなサービスは一切ありませんでした。お客様の身体を洗うも、股間部分に関しては石鹸を手渡しし、マッサージを行う際は専用のパンツをはかせると行った念の入れようで、健全さをウリにしていたのです。
この後、全国にトルコ風呂が続々と開店します。売防法の成立を見越した先見の明のある赤線業者の転業もありましたが、新しい事業として参入した業者も多く、1958(昭和33)年の売防法施行の年には全国で100軒を数えました。
それでは売防法施行以後の堀之内のトルコ風呂についてはまた次回に書いていきます。
戦局が悪化した1944(昭和19)年、遊郭は他の接客業とともに営業が全面禁止となり、多くの遊女が従軍慰安婦として戦場にも駆り出されました。このコラムでは反日帝論をブチ上げるつもりはありませんので、戦争の悲惨さ云々は割愛しますが、敗戦により虚構の日本帝国は壊滅し、あらゆる面で新しい動きが始まったのです。1945(昭和20)年、日本の敗戦日である8月15日から一週間足らずの8月21日に、驚くべきことに、“公娼街の早急なる整備”が閣議決定されたのです。これはGHQ対策として、「良家の婦女子をアメリカ兵から守る」という大義名分だったようですが…
こうして旧遊郭エリアには急ごしらえのバラックが建ち並び、かつての遊女の他に、戦災孤児や職にあぶれた女性が続々と集まったのです。しかし中には、「女中募集」とか「家政婦募集」といった嘘の求人で集められた女性も多くいたようです。
川崎遊郭と堀之内もこうした流れの中で再建されました。吉原や新宿が空襲で消失し、戦後の遊郭には新規の業者がほとんどだったのに対して、川崎の場合、運良く戦災を逃れた店も多く、再建も早かったのです。
堀之内の場合、政府のお墨付きのない無許可地区だったのですが、ウヤムヤのまま妓楼が再建されたのです。かつて軍が中に入って取り締まりをおろそかにしたこともあり、またお隣の横浜市街地が広範囲にわたって米軍に接収され、溢れんばかりの米兵対策に遊女の存在は欠かせないものだったようです。
日本政府は、米兵対策を第一の目的に遊郭を再建しましたが、当のGHQは、不当な人身売買を防止するために、1946(昭和21)年1月に、公娼制廃止の命令を出しました。日本政府は、廃止命令への対抗策として「社会上やむを得ぬ悪として生ずるこの種の行為については特殊飲食店を指定して警察の特別の取り締まりに付かせ、かつ同店は風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置」させることにしました。
この結果、旧公私娼地区とほぼ同じ区域に特飲店街が形成されることとなり、これらの地区を「赤線」と呼ぶようになります。結局、必要悪とされながらも妓楼は存続したのです。
「赤線」とは、警察署の防犯課が地図上、特殊飲食店のエリアをわかりやすく赤い線で囲ったことに由来します。赤の範囲が「娼婦の自由意思」での売春を認めた「特殊飲食店街」で「赤線地帯」、青が飲食店の営業許可だけでもぐり売春を行う「青線地帯」と色分けされました。
川崎では、明治政府のお墨付きを得た南町が「赤線」で、堀之内は「青線」と規定されました。しかし、戦後復興の流れの中で、川崎市最大の闇市が市役所前の疎開跡地に形成されていたこともあり、人の流れは堀之内方面に向き、もぐり売春ながら活況を呈したとされています。
戦後の堀之内は、全盛期には100軒近い飲食店(小料理屋)と旧貸座敷(旅館形式)があったようですが、女性の質のわりに値段が安かったのも人気の理由だったようです。堀之内の女給(戦後は遊女でなくこう呼ばれた)の旅館での泊まりのお遊び代は800円~1000円で、ちょんの間でのショートタイム(20分程度)のお遊び代は300円くらいでした。おとなりの南町がもう少し高く、泊まると1500円くらいになり、吉原はさらに高く3000円もかかる高級店があったそうです。
我が国に、正式に売春防止法が成立したのは、形式的全廃から10年後の1956(昭和31)年5月でしたが、これが法案として国会に提出されたのは、1947(昭和22)年の第二回国会が最初でした。以来、数度に及ぶ審議未了ということで難を逃れていましたが、赤線業者の間では、いずれ全廃は免れないだろうという空気が漂っていたようです。
ちなみに、当初、警察内部の識別から色分けされた呼び方が、売防法施行後は地下に潜った売春の形体を指す一種のマスコミ新語となりました。女性を普通のアパートなどに住まわせて売春させ、業者は離れたところで監視し金を絞り取るのが「白線」(パイセン)で、一般の新聞の見出しにも使われたくらい普及しました。美人局(つつもたせ)や、やらずのぶったくりが行われるような暴力売春店が「黒線」、電話の呼び出しで売春するコールガールが「黄線」(おうせん)です。
さて、国会での審議が曖昧に終わる中で、各自治体の対応の方が早く、1951(昭和26)年に、埼玉、栃木の両県、そして横須賀、神戸、岩国、千歳、小倉の各市で売春取締条例が制定されました。この年の4月、日本で最初のトルコ風呂が銀座に誕生しました。名称を「東京温泉」といい、短パン姿の制服を着た美形のマッサージ嬢による個室でのサービスを売りにオープンしたこの店は、600円という破格の料金にも関わらず、連日満員の大盛況ぶりでした。「東京温泉」の経営者は中国からの引揚者で、中国の垢すりボーイを若い女性に変えるという発想で始めた店だっただけに、Hなサービスは一切ありませんでした。お客様の身体を洗うも、股間部分に関しては石鹸を手渡しし、マッサージを行う際は専用のパンツをはかせると行った念の入れようで、健全さをウリにしていたのです。
この後、全国にトルコ風呂が続々と開店します。売防法の成立を見越した先見の明のある赤線業者の転業もありましたが、新しい事業として参入した業者も多く、1958(昭和33)年の売防法施行の年には全国で100軒を数えました。
それでは売防法施行以後の堀之内のトルコ風呂についてはまた次回に書いていきます。