貧乏時代の話し(実話)第二章~1~ | Casual Hiroのブログ

Casual Hiroのブログ

御殿場 Casual Hiroです。 


とある所で書いた自分の話しです。






 実際仕事なんてなんでも良かったし、まして学校へ行っててもそんな頭のいい方じゃなくて、就職活動っていってもやりたい事なんてわからない。 いい大学へ行き、年収何百万もらって我慢ばかりの平凡で苦労しない生き方とか望んでいなかったし・・・ 



 高校3年生の夏に担任の先生に言われた「進学はしないつもりだろ。就職先はどうするんだ。停学とかもしてるし、これから卒業までマジメにしていれば学校の紹介でどこかいい所紹介するぞ。」  時代はバブル経済とか全盛期。 日本の経済は安定していて、今の就職難とか言われる時代ではなく、高卒なんかでも十分就職先はたくさんあった時代だった。



 母親一人に育てられて、裕福な家庭というものとは少し遠い育ち方をしてきたオレは母親に私立高校では学費が払えないからと、中学時代から公立高校だけは卒業してくれと言われ、御殿場の公立高校に。 学校は大好きで、(そこには遊んでくれる仲間達がたくさんいたし)勉強や授業はあまり好きではなかったが、のんびりと(この高校3年間を話すと長くなるんで省略)いろんな遊びを学び、学校では禁止されていたアルバイトなどをこなし、人生の決断期の就職を迎える歳になっていた。



そんな3年間を少し話すと・・・
アルバイトもいろんなアルバイトをしていた記憶がある。片親だったから、学費を稼ぐって感じではなく、遊ぶお金が欲しくて。  一緒に遊ぶ仲間達もいろんな奴がいた。 世間で言うお坊ちゃんみたいないい家の奴もいたし、そおいう奴はバイトしなくても親から遊ぶお金もらえてたし、欲しいバイクも親に買ってもらったりしていた。 別にそんな仲間も羨ましいとも思わなかったし、オレは自分で自分の稼いだお金で欲しいものを買いたかったし、そのお金で買ったバイクをとても大切にしていた。


 そんな感じで働く事は昔から嫌とは思わなく、自分の好きな事、仲間と遊ぶ楽しさの為にやはりお金は必要だったし、普通に生きてきた人よりはそんな常識を覚えるのは早かったのかもしれない。  




そしてそんな時期に母親から衝撃的な一言、「お母さん結婚式をハワイで挙げてきたんだ。」





その年頃のオレはマザコンって訳ではなかったが、世間一般で言う家族ってものにすごい憧れていて、普通の家庭ってものが羨ましかったのかもしれない。 うちは3つ上の兄がいるが、高校卒業後に就職の為に家にはいなかった。 母親も自分達を母親一人で育て、オレが物心つく前にオレ達を残し出て行った本当の父親の借金を払う為に、昼夜働き、オレが高校にあがる頃に自分の店(今でもある名前は変わったが御殿場駅前の劇場通りの細い路地)小さいスナックを経営していた。







 学校から帰っても家に誰もいないし、そんなオレは一緒に遊んでくれる仲間達を大切にしていた。






中途半端に第二章~1~






中途半端に終わり。 続く・・