こんばんは。
今回は久しぶりに登城ネタアーカイブスで参ります。
こちらの登城日は2010年6月ですので、もうちょうど11年前になるんですね。
いったんこれで福井シリーズが終了です。
福井県南越前町と敦賀市の間にある、「嶺北」と「嶺南」を分ける、国内有数の難所であった木の芽峠にある城塞群です。
しかし、案内図には4つの城(ないし砦)の存在があるのですが、恐らく民有地である事やその地主さんとあまり関係がよろしくないからか、一つしか立ち入る事が出来ない状況でした。
今はどうなのでしょうか?
そんなに訪れる人もいないように思えますが(笑)
○西光寺丸城
明確に駐車場と言える場所があったかどうか自信がないのですが、最初の案内板があるあたり含め、駐車できるスペースはいくらでもあったかと思います。
ここまでは車で上がって来て、周囲を散策する方はいそうな感じの案内板です。
4つの城跡のうち、この稜線の最高所「鉢伏山」にある城が真ん中に書かれております。
そこはすでに標高は750mを超えていて、鞍部の木の芽峠ですら620mあります。
この城塞群の案内図の下に木の札が取り付けられており、「城跡は当家の敷地です」みたいなコメントが書かれておりました。
この段階でこの近辺を訪れる方と地主の方とがあまり良好な関係でない事が推察できました。
駐車スペースは木の芽城跡の下、ちょうど木の芽峠そのものの下にありました。
私は初めから鉢伏城に行く事は装備の面からも諦め、それ以外の3つを目指しました。
恐らく一番抵抗感なく行けたのが西光寺丸城だったのでそちらから。
舗装道から入っていくので安心感があったんですよね。
そんなに時間がかかる距離ではないので、すんなり到着です。
ここは城跡らしい遺構がけっこう多く残っており、その備えからも一番最後に完成した最も新しい城ではないかと思われます。
城そのものは一度目の織田信長の朝倉攻めの際に備えとして峠の城塞群に加えられた新しいもののようですが、城名の由来は別にあります。
二度目の信長の越前侵攻は、越前を一時支配下に置いた一向一揆を攻めるためでした。
その際、この城には西光寺の5代・真教が籠って信長軍に対抗したのです。
城名の由来はここにあるそうです。
そのまま尾根の稜線伝いに木の芽城跡へ。
歩きやすかった記憶がありますね。
木々がもう少し低ければかなり壮大な景色が広がっているはずです。
ところが写真がここから一気に引いたアングルばかりでした。
何かにびびって城跡には入らなかったのかもしれないです。
次はこの写真。
木の芽城の真下から撮影したものです。
やや右側に民家のような建物が見えます。これがかつての峠の茶屋です。
旧北陸道はこの民家の脇を抜けて最高所である木の芽峠に出ていました。
真正面が木の芽城、右手の木の陰になっているのが観音丸城です。
西光寺丸城には左へ登っていく林道沿いに入口がありました。
ちょっと登城記としては不完全燃焼感のある内容になってしまったのは、これが日曜日で早く帰りたかったのと、前日杣山城跡で熊鈴を持たないまま熊に遭遇してしまったこと、まるで訪問者を見張るような位置にある民家を見て、士気が落ちたからだと思います。
上空の青い空を見て頂ければわかりますが、このような天気の日に訪れる事ができれば、景色も含めもう少し楽しめる城跡だと思います。
これからの時期は草木も生い茂るでしょうから、本当は冬前の秋がいいのでしょうけど。
いかがでしょうか?
○木の芽峠城塞群
はじめの案内にある通り、真ん中に木の芽峠を挟み込む形で4つの城跡が確認されております。
木の芽峠は古くから北陸道の難所として有名な場所です。
ここは福井県を簡単に分ける嶺北と嶺南の分岐点であり、大きい意味では「北陸」と「近畿」を違う場所でもあります。
平安時代のはじめに道が置かれてからずっと北陸道であったかというとそうではなく、難所を避ける意味で中世にはより南にある栃ノ木峠が北陸道に充てられていた時期もあります。
例えば戦国時代に越前を支配した朝倉氏は、若狭方面に出陣する際は木の芽峠を使っていたようですが、近江や畿内に進出する際は栃ノ木峠を使っていました。
1573(天正元)年8月、信長に攻囲された浅井長政の小谷城を救うべく、朝倉氏の最後の当主・義景は出陣。
しかし、浅井氏救援は難しくなり撤退を決断します。
その撤退戦で、義景の暴風雨を衝いての徹底を読んでいた信長らの激しい追撃に遭い、ついに刀祢坂で追い付かれ多くの重臣・家臣を失う大敗北を喫してしまいます。
義景は一時、この木の芽峠城塞群に兵を集め、信長を防ごうとしたと伝わっていますが、すでに義景の名は地に堕ち集まる兵はなく、彼は一乗谷に落ちていったのです。
木の芽峠城塞群が戦場になったのは1575(天正3)年8月のこと。
朝倉氏滅亡後、蜂起した一向一揆に支配された越前に、信長が10万と号する大軍で押し寄せたのです。
この時、木の芽峠は最重要拠点とされ敦賀方面から侵攻する織田軍を迎え撃つべく、本城たる木の芽城・観音丸城に総大将・下間頼照(1516~1575)が入り、新造ながら備えの充実した西光寺丸城にはその名の通り西光寺真教法師が立て籠って信長軍と戦いました。
しかし、すでに越前一向一揆は派遣されてきた本願寺派の面々(頼照や七里頼周など)と地元の門徒・国人層の間に激しい亀裂が走っており十分な援助を得られず、信長軍に完全に打ち破られてしまいました。
この時を最後に、ここが城として取り立てられることはなくそのまま廃城になったと思われます。
4城のうち、最高所の鉢伏城は遺構的にも恐らく物見台としての役割が中心でしょう。
要衝・木の芽峠を守るため峠の両サイドに木の芽城と観音丸城が築かれ、ここの突破を阻むべく構えていたと思われます。
そして、今までにない大軍で攻め寄せる信長に備えるべく、改めて西光丸城が当時の山城として十分な構えを持つ城として築かれたものかと思います。
私が訪れた時はかなり草が生い茂っていて十分に遺構は確認できませんでした。
しかし、縄張り図を見る限り、土塁や空堀が幾重か連ねっているのがわかります。
この多くが遺構として遺っているものと思われます。
○行き方
はっきり言ってここに車以外の方法で行く事が想像できません。
行くには99.9%、車での登城をおすすめします。
私が南越前側から接近したように城跡見学であれば城塞群の北・東側から接近するしかありません。
国道365号線から今庄365スキー場を目指して下さい。
スキー場の駐車場を過ぎてさらに登っていくと道が分岐していますが、ここは左へ。
そうすると間もなく大きな案内看板を見つける事ができます。
そこに車を停めて、あとは徒歩で回る感じになります。
ただ、西光寺丸城までは舗装道があるので車でも行けなくはありません。
よく見てみると、スキー場のリフトはその最終地点が鉢伏城、観音丸城、木の芽城の下まで到達しています。
けっこうな山奥・山の上ですが、舗装された車道が整っているのはその整備のためかと思われました。
その利点を活かしましょう。












