私は今自分がどうなっているのか、自分でも分からない。
ただ結果としてこうなったことについて、察してくれというほかにない。 つぶさに語るつもりもない。
3 年生になって、より真剣に学問や就職と向き合わざるをえなくなった。それらと向き合うためには、自分の持つ様々な枠組みと、それらを組織させてきたバックグラウンド(それもまた何らかの枠組みだが…)が問い直される。そんな取り組みの中で、自分でもなぜかわからないまま、足に、ドロドロとしたものが猛烈にまとわりついたような感覚に襲われた。
私は、幼少期から明らかに〈普通〉の人間ではなかった。様々な枠組みからはじかれてきた。詳細はここでは省くが、高校時代には精神を保つのに限界がきて、そこから身体的な疾患も生じて、それ以来満身創痍の日々を送ってきた。医者も信用できず、自分で自己啓発本の類を読み漁っても何も得られなかった。とりあえずは、絶望が深まるほどなんとか笑顔を増やし、ごまかして生きていくしかなかった。
また、落ちこぼれる中でそれまで信じて疑わなかった教育というものへの疑念も生じた。そこで、鷲田清一の臨床哲学に出会い、「じっくり迷ってもいいんだ」と思った。学校の勉強はできなくても、自分の知的営為が許された気がしたことが、人文学に関心を持ったきっかけであった。
このように私は自分自身の枠組みというものと向き合わざるをえない状況で生きてきたので、その枠組みという概念が、自身の足にまとわりつくものの正体へ迫るキー概念になると信じてやまない。
このエッセイ集では、様々な話題について私の意見を書いたものだが、すべてにおいてこの枠組みという概念を意識している。
ただ、もちろん何かの枠組みを批判するうえで自分も何かの枠組みを設定せざるを得ないので、自己矛盾を起こしていることも多々あるだろう。 それは、おそらく、私の感覚では気づいていても、分析しきれていない部分だと思う。
また、あくまでエッセイとして素直に自分の感覚を掘り下げるため、かなりカジュアルな感じで書いた。自分の感覚うちの、なんとか切り取れた要素からそれをそのまま掘り下げるイメージで。
さらに、「言語化することで自己を分析する」のではなく、「感覚としてなんと なく切り取られたものを、ありのままに表現することの不可能性と向き合いながらも、他者と共有するためのあくまで一つの手段として、言語化という方法をとる」という認識のもとに取り組んだ。
ゆえにこのエッセイ集は、他者を納得させられるような、論理的な意見を書くことを目的にはしていない。 先述の通り、自分の感覚を深めることに目的がある。そのため、自己満足でたぶんめちゃくちゃなことも言っているかもしれない。
さらに自己を表現することは私にとって血の滲むような痛みを伴うものだった。
それゆえに沈黙を続けていたが、その自分の感覚を、一度言語化という枠組みに入れてみたらどうなるか、その実験だと思い、最近考えていたことを一気に言葉にしてみることにする。
