とあるキャバレーで人気をそこそこ掴んだ私は

19の年に銀座に出る事を決意した❗


そもそも一流ホステスといわれる人間は銀座や赤坂にいるものである。(という思い込み)

いつまでも池袋南口にあるキャバレー(また場所を特定してしまった💦)にいても仕方ない❗


ということで、すっかり仲良くなった支配人のおじいにその旨を伝えた。(おじい、、当時の私から見たら60歳位だと思っていたが、、今思えば50歳位だったのかもしれない。。)


私の事を孫のように可愛がってくれている支配人のおじいは、、何故か笑った‼️💦というより呆れ顔でこう言った。


「うちでさえ、まだナンバーワンもとったことがないのに銀座に出てトップになれる訳がない❗ここに居て寿退社でもしなさーい」と。


そんなおじいは勿論スルーして、早速求人に掲載されていた時給が今の2倍以上はある某銀座のクラブに面接に行った。


私の働いているキャバレーよりお店の規模は小さいが、シックで落ち着いたお店。ソファーもフカフカでシャンデリアもでか~い😳何より壁に掛けてある絵画も高そう❗壺の様な大きな大きな花瓶の生花もゴージャスだぁ~


私の他にも2人面接に訪れていたのでフロアで待たされたが、面接じたいは奥の事務所の様なところで行われた。


事務所に入ったら男性が3人にホステスさんらしきモデルのような美女が1人、どうみてもママらしきオーラを纏った女性が1人いた。(キャバレーにはママという立場の女性がいないので年配の女性に圧倒されたのを覚えてる)


で、

話はぽ~ん❗と飛ぶが


結果、面接には落ちた💧

というよりハナから面接らしい面接もなかった。

少し世間話をして「合格なら連絡します。」その一言で帰された。

そして連絡は3日経っても無かった。。


後日談だが、この時代、よっぽどの容姿をもっていない限りは、銀座や赤坂に出るホステスは、六本木あたりのクラブで人気を稼ぎ、顧客様と一緒に店を移るというのが一般的だったようだ。


池袋のキャバレーから、いちホステスの為に銀座に通う顧客などなかなか居ない。そして池袋のキャバレーからいきなり銀座に乗り込むホステスもいない。。そもそもキャバレーとクラブの違いも曖昧だった私は、すっかり心をへし折られた訳である。


支配人のおじいは何も聞かず何も言わず私の日々の出勤に目を細めていた。ちぇっ💦

そうこうしながらも、そのキャバレーには関西に移り住むまで暫く身を置きました。


何故東京から大阪に移住したか❗関西弁に惚れたから😍と、この話は後程で。。