一定程度確立された知識の暗記が思考の基礎体力になる、というのは語彙の幅と思考の深度(解像度)が対応しているという事実と同義と言っていいと思う。下記の通り私も、勉強の価値を認めない大人は、得た知識をアウトプットする機会を意識的に持たなかったとか、知識に触れた経験の意味を落とし込んで捉えないまま来た、ということであると解釈している。
また、私も中高一貫校の進学クラスで「競争原理に基づく勉強」を多少なりとも経験し、成績は特段悪くはなかったが窮屈で苦痛の伴うものだったと記憶している。私は同志社大学に入学すると決めて私立文系クラスにコース変更し、それからは独占禁止法を大学で学ぶために淡々と受験勉強をした。
新しい知識に触れて知的欲求が満たされる感覚や、自己実現に向かって勉強という形でアプローチしていく感覚が、競争原理によるそれに代わっていけばと思う。
以下抜粋(強調部分は筆者による)
『最近は「勉強」の評判が悪くなったのか、子どもたちの教育現場にも「学び」が積極的に取り入れられるようになりました。学習指導要領には「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)を取り入れた探究学習を行うことが明記されました。
暗記偏重の「勉強」よりも、「自分で未来・社会を切り開いていくための資質・能力を育む」ための「学び」こそが必要であるとの方向転換がなされたわけです。
しかし、僕はこの方針に対して懐疑的です。基礎知識がないままに探究学習を進めることは、ピースが足りないジグソーパズルを組み立てるような、どだい無理なことをやらされているにすぎないのではと思えるのです。
「つまらない大人化」を加速させる授業
以前、小学校の「哲学対話」に招かれて、授業のサポートをした際に痛感したのは、小学生たちに下手に議論をさせたところで、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うようなものにしかならないということでした。そして、その行きつく先は、いかにも社会適応的で常識的な議論でした。こういう議論の練習をしたところで、早期の「つまらない大人化」を進めるだけ、そんなふうに感じました。
僕が授業をサポートしたのは一般の公立校ではなく、果敢に新しい教育にチャレンジしている小中一貫の難関校です。その学校の生徒は、大人の意図に適応することに長けている子が多いと感じました。探究型学習に積極的な学校ですが、子どもたちがそこで身につけているのは、個性と呼ばれるような独特さとは無縁な、より高度な協調性と規範性でした。
新しい教育がさまざまな現場で試みられています。しかし、それらの多くが「新しさ」という甘い蜜に引き寄せられた向こう見ずなやり方にすぎないと感じています。アクティブ・ラーニングは、かえって学力格差を拡げる懸念があることが昨今指摘され始めましたが、そんなことは現場にいる人間ならわかり切っていたことです。
杓子定規な学力的評価を捨てたうえでの振り切った改革であるのならまだ理解できるのですが、そうではなく、学力評価の価値観をそのままに、基礎力をないがしろにするような改革をしたわけですから、迷走しているとしか言いようがありません。
僕自身は、いまだ「学び」というよりは、暗記中心の「勉強」が必要だろうと感じています。なぜなら、暗記した言葉の一つひとつが、その人の思考の足掛かりになり、その結果、思考を深めることができるからです。そして、思考の足掛かりを生成AIなどに肩代わりさせることは、自分独特の生き方を手放すことになるのではないかと危惧しているからです。
勉強の価値を信じない人のなかには、「学校で習ったことなんて何も覚えていないから、意味がないよ」という人もいます。でも、そもそも大人は、自身の過去の勉強が現在どう役立っているかを認識できるほどの高い解像度で生きていないのです。
学校で『徒然草』や『平家物語』の冒頭文を音読したり暗唱したりしたことは、いまの自分に何の影響も与えていないと思うかもしれませんが、古めかしい文章を読み上げたそのときには、確かに自身の意識と身体が変化して、その変化の後に各々の人生を積み上げてきたわけです。これは案外重い事実なのですが、それを意識しながら生きている大人はほとんどいないでしょう。
ただし、困ったことに「勉強」には向き不向きがあります。いや、正確には「勉強」はすべての人に開かれており、そんなものはないはずなのですが、受験をはじめとするコンペティションの環境のなかでは、どうしても自分が他人より見劣りすると感じて、勉強なんかやってられなくなる。その意味において向き不向きがあるのも事実です。
だから、競争原理に基づく勉強は、ごく少数の上位者にとって気持ちのよいものでしかなく、他の人たちが勉強嫌いになるのは必然の帰結でしょう。』