駆け足、歴史の旅
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蒼き狼の血脈

蒼き狼の血脈

 

モンゴル軍を率いてヨーロッパに遠征したバトゥ(1207~1256年)の物語です。
 

バトゥは、モンゴル帝国を建国したチンギス・カンの長男ジュチの息子です。物語は、このジュチが亡くなるところから始まります。

 

1237年、ジュチの跡を継いだバトゥはロシアに遠征します。翌1238年2月、モンゴル軍はウラジーミル・スーズダリ大公国の都ウラジーミルを数日で攻略します。

 
蒼き狼の血脈

ウラジーミルの入口、「黄金の門」
 

1240年にはキエフ大公国を滅ぼしてロシアの大部分を占領したバトゥは、休む間もなくヨーロッパに侵攻します。

 

モンゴル軍は複数の部隊に分かれて進軍し、ポーランド方面に向かった軍勢はレグニツァでポーランド・ドイツ連合軍を破りました。この戦いは「ワールシュタット(死体の山という意味)の戦い」とも呼ばれています。

 

同じ頃、バトゥ率いる本体はハンガリーに侵攻します。モンゴル軍は国王ベーラ4世率いるハンガリー軍とモヒー平原で激突します。

 
蒼き狼の血脈

ハンガリーのブダペストに立つベーラ4世像
 

蒼き狼の血脈

ベーラ4世がブダの丘に建設した王宮
 

モヒー平原の戦いは、モンゴル軍の大勝利に終わり、ハンガリーはモンゴル軍に征服されました。

 

モンゴル軍はさらに西に向かい、オーストリアのウィーンに迫ります。ヨーロッパは恐怖に陥りましたが、同じ頃、はるか東方のカラコルムでモンゴル帝国の2代目カン、オゴデイが亡くなりました。

 

これを機にモンゴル軍は一斉に東に引き返し、危機一髪のところでヨーロッパは征服を免れました。

カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

 

河出文庫から出版された「カール5世-ハプスブルク栄光の日々」を読みました。

 

700年近くにわたってヨーロッパに君臨したハプスブルク家、、、そのハプスブルク家がもっとも多くの領土を支配したのがカール5世の時代でした。

 

 

カールは、きりの良い1500年にベルギーのゲントで生まれました。父親はブルゴーニュ公国を統治するハプスブルク家の皇太子フィリップ美公、母親はスペイン王室出身のフアナ王女です。

 

カールが6歳のとき、父フィリップ美公が亡くなります。彼は15歳で成人に達するとブルゴーニュ公国(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)の君主として即位します。

 

下の画像はその頃のカールを描いた肖像画です。フランドルの画家ベルナルト・フォン・オルレイの作品でフランス・パリのルーヴル美術館に飾られています。
 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

若き日のカール5世

 

翌1516年、母方の祖父にあたるスペイン王フェルナンドが亡くなります。スペインの王位はフェルナンド王の娘でカールの母にあたるフアナ王女に継承されます。しかし、フアナは夫フィリップ美公の死後、精神的に不安定となっていました。そのため、フアナの息子カールが代理のスペイン王として即位します。

 

当時のスペインは、スペイン本国に加えて、南イタリアのナポリやシチリア、新大陸(アメリカ)のペルーやメキシコも支配していました。

 

さらに1519年には父方の祖父にあたる神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン1世が亡くなります。カールは跡を継いで神聖ローマ帝国の皇帝に即位します。この神聖ローマ帝国は、現在のドイツを中心にオーストリア、チェコ、スロバキア、北イタリアなどを含む大帝国でした。

 

カールはイギリスとフランスを除く西欧の大部分を支配する君主となります。そして、彼の爵位は神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王、ブルゴーニュ公など史上最多の70以上に及びました。

 

下の写真は、オーストリア出身の画家ヤーコブ・ザイゼネッガーが描いた32歳のカールです。オーストリア・ウィーンの美術史美術館に展示されています。
 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

32歳のカール5世

 

広大な領土の支配者になったカールは生涯を戦いに明け暮れました。彼はハンガリーを征服してオーストリアに迫ってきたトルコ軍を撃退し、祖父以来のライバルだったフランスと一進一退の攻防を繰り広げました。

 

しかし、彼をもっとも悩ませたのは、当時ヨーロッパ全土に吹き荒れていた宗教改革の嵐でした。旧教(カトリック)を擁護するカールに対して、新教(プロテスタント)を信仰する諸侯は同盟を結んで対抗します。

 

1547年、カール率いる旧教軍は、「ミュールベルクの戦い」で新教軍に大勝利をおさめます。下の画像は、その勝利を記念して翌1548年にカールがお抱え画家ティツィアーノに描かせた作品です。この作品はスペイン・マドリードのプラド美術館に展示されています。

 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

ミュールベルクのカール5世

 

同じ1548年に、カールはティツィアーノに肖像画をもう1枚描かせています。それが今回読んだ文庫本の表紙に使われている作品です。この作品は、ドイツ・ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに展示されています。

 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

48歳のカール5世

 

「ミュールベルクのカール5世」と異なり、全身に黒い装束をまとったカールはヨーロッパの支配者とは思えない姿で描かれています。

 

前年にカールは新教軍に軍事的な勝利をおさめましたが、新教を信仰する人々の抵抗は止まず、ヨーロッパを旧教で統一するという彼の理想は破綻しました。

 

1555年、力尽きたカールは退位を決意します。下の作品は、ベルギーのブリュッセルで行われたカールの退位式を描いた作品です。オランダ・アムステルダムの国立美術館に展示されています。

 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々
カールの退位式

 

カールが差し伸べている右手には弟フェルディナント、左手には息子フェリペが立っています。フェルディナントは神聖ローマ帝国の帝位をはじめ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアを継承し、フェリペはスペイン王国の王位をはじめ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、南イタリアのナポリ、シチリア、新大陸(アメリカ)を継承しました。

 

もう1枚、下の作品はベルギー・ブリュッセルの市庁舎に展示されているカールの退位式を描いたタペストリーです。

 
カール5世 - ハプスブルク栄光の日々

カールの退位式(タペストリー)

 
生涯を戦いに明け暮れたカールは、退位式で「私はドイツへ9回、スペインへ6回、フランスへ4回、アフリカとイギリスへは2回訪れ、そして去った」と語りました。

 

その後、全ての爵位を投げ出してスペインのユステ修道院に隠遁したカールは1558年に静かに息を引き取りました。

東京国立博物館

上野恩賜公園にある東京国立博物館に行ってきました。

  
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館

 

公園の中は1000本を超える桜が満開で、多くの人で賑わっていました。

 

人混みを抜けてやってきた東京国立博物館では円空展が開催されています。円空(1632~1695年)は日本各地の霊山を旅して多くの木彫りの仏像を彫りました。彼が生涯に手がけた仏像は12万体を超えていると伝えられています。今回の展示会では約100体が公開されています。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

円空展を見学した後は常設展を見学します。常設展では縄文、弥生時代から江戸時代までのコレクションが展示されています。

 

円空展は写真撮影が禁止されていましたが、常設展は一部の作品を除いて撮影OKになっています。

 

個人的に興味があったのは安土・桃山時代から江戸時代にかけてのコーナーです。

 

まずは戦国時代を代表する英雄、織田信長(1534~1582年)の肖像画です。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館

 

織田信長は尾張国(愛知県)で生まれました。1560年に今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破って戦国の表舞台にデビューし、1568年には足利将軍を奉じて京都への上洛を果たします。

 

1575年の長篠の戦では鉄砲隊を駆使して武田騎馬軍団を破り、1582年3月には甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)に勢力を張る武田家を滅亡させました。
 

その後、信長は中国地方で毛利家と戦っている羽柴秀吉(豊臣秀吉)を支援するために西に向かいます。しかし、6月2日に京都の本能寺に宿泊しているところを家来の明智光秀に襲われ、自害しました(本能寺の変)。

 

続いては豊臣秀吉(1537~1598年)の肖像画です。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

豊臣秀吉は尾張国の百姓の家に生まれました。織田信長に仕えてから頭角をあらわし出世を重ねます。

 

本能寺の変で織田信長が自害したとき、秀吉は中国地方で毛利家の大軍と戦っていました。秀吉はすぐに毛利家と停戦して東に向かい、明智光秀を討伐しました。

 

1583年、秀吉は織田信長時代のライバルだった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ります。勢いに乗った秀吉は1585年に長宗我部家を降伏させて四国地方を平定、1587年に島津家を降伏させて九州地方を平定します。そして、1590年に東北地方の伊達家や関東地方の北条家を降伏させて日本を統一しました。

 

続いては徳川家康(1543~1616年)の肖像画です。


駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

徳川家康は三河国(愛知県)で生まれました。幼少の頃は今川家の人質として駿河国(静岡県)で暮らし、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると三河国で独立します。

 

豊臣秀吉の元では五大老の1人として関東地方を治め、秀吉の死後、1600年に起こった関ヶ原の戦いで石田三成の西軍を破ります。

 

家康は1614年に豊臣家を滅ぼして日本統一を果たし、翌1615年に亡くなりました。

 

続いての写真は、当時の京都の様子を描いた「洛中洛外図屏風」です。17世紀の江戸時代に描かれたものです。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

続いては上杉景勝(1555~1623年)が所有した刀です。上杉景勝は越後国(新潟県)で生まれました。1578年に上杉謙信が亡くなると家督を相続し、豊臣秀吉の元では五大老の一人として会津国(福島県)を統治しました。

 

景勝は関ヶ原の戦いで石田三成の西軍についたため、戦後に会津から米沢に厳封されてしまいました。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

続いては、キリシタン狩りに使われた踏み絵です。

 

江戸時代、徳川幕府は日本でキリスト教を信仰することを禁止しました。幕府は人々にキリストや聖母マリアが描かれた絵を踏みつけることを強要し、拒んだ人をキリシタンとして処罰しました。

 

当初は紙が使用されていましたが、すぐに破れてしまうため木製や金属製のものが使用されるようになりました。

 

駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

続いては伊万里焼です。写真は17世紀に作られた「色絵椿図平鉢」と呼ばれる作品です。日本を代表する陶磁器の伊万里焼はヨーロッパで人気を博し、多くの作品が輸出されました。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館
 

続いては小判のコレクションです。これは1714年に発行された正徳小判です。これらは、昭和31年(1956年)の銀座6丁目の開発で地面を掘り起こした際に出土したものだそうです。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館

 

美術鑑賞の後は、庭園を散策します。東京国立博物館の庭園は1年のうち春と秋の2回だけ公開されます。現在は桜が満開です。

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館

 
駆け足、歴史の旅-東京国立博物館

ピョートル大帝の妃

先日買った「ペテルブルクの薔薇」に続いて、「ピョートル大帝の妃」という本を買いました。

 

今回の主人公は、「ペテルブルクの薔薇」のエリザベータ女帝の母親、エカテリーナ1世(1684~1727年)です。
 
駆け足、歴史の旅-ピョートル大帝の妃

 

エカテリーナはロマノフ王朝のピョートル大帝(1672~1725年)の2番目の皇妃で、ピョートル大帝の死後に皇帝に即位しました。

  

駆け足、歴史の旅-ピョートル大帝の妃

エカテリーナ1世の肖像画

 

この肖像画は、サンクトペテルブルク郊外のツアールスコエ・セローに建つエカテリーナ宮殿に飾られているエカテリーナ1世の肖像画です。エカテリーナ宮殿は、夫ピョートル大帝が彼女のために建てた宮殿で、後に2人の娘エリザベータ女帝によって豪華な宮殿に改築されました。

 

エカテリーナについて、当時の記録では「背は低くて、ずんぐりしていた。肌は浅黒くて、気品や優雅さがまったく感じられない。」とあるそうです。ひどい書かれようです。

 
駆け足、歴史の旅-ペテルブルクの薔薇
エカテリーナ宮殿

 

エカテリーナは、もとの名をマルタといい、リトアニアの農民の家に生まれました。家が貧しいため奉公に出され、やがてスウェーデン人の兵士と結婚します。しかし、夫はロシアとの戦争で戦死してしまい、彼女はロシア軍の捕虜になってしまいます。

 

彼女はロシアで洗濯女として奉公することになりますが、あるときピョートル大帝に出会います。そして、彼女はピョートル大帝に気に入られ、愛人になります。

 

それからのマルタは、エカテリーナ・アレクセーエヴナとロシア風の名前に改めたり、ロシア正教に改宗したり、宮廷の作法を学んだりと、様々な努力を重ねました。

 

そして、1712年2月19日、ついにエカテリーナはピョートル大帝と結婚してロシア帝国の皇后となりました。

 
駆け足、歴史の旅-ピョートル大帝の妃
ピョートル大帝の肖像画
 

1725年1月28日、ピョートル大帝は後継者を指名しないまま亡くなり、次の皇帝の座を巡って家来たちが2つに分かれてしまいます。モスクワを中心とする旧貴族派はピョートル大帝の孫(ピョートル大帝と前妻の孫)を擁立し、ピョートル大帝に抜擢された新興貴族派はエカテリーナを擁立しました。

 

この争いは、近衛兵を味方につけた新興貴族派が勝利し、女帝エカテリーナ1世が誕生します。18世紀のロシア帝国は女帝が続く時代となりますが、エカテリーナ1世は最初の女帝となりました。

ペテルブルクの薔薇

何気なく立ち寄った本屋で1冊の本を買いました。

 

本のタイトルは「ペテルブルクの薔薇」。主人公はロシア帝国のエリザベータ女帝(1709~1762年)です。

  
駆け足、歴史の旅-ペテルブルクの薔薇
 

彼女はロマノフ王朝10代目の君主で、ロマノフ王朝出身の皇帝としては6代目になります。

 

父親はサンクトペテルブルクの町を建設したピョートル大帝、母親は後に女帝となったエカテリーナ1世です。

 

彼女は両親の死後、15年に渡って不遇な生活を送りましたが、32歳のときに近衛兵を味方につけてクーデターをおこして即位しました。

 

彼女の時代はロシア帝国が文化面で栄えた時期にあたります。

 

サンクトペテルブルク郊外のツアールスコエ・セローに建っているエカテリーナ宮殿はエリザベータ女帝によって現在の姿に改築されました。

 
駆け足、歴史の旅-ペテルブルクの薔薇

エカテリーナ宮殿

 

また、ロシアが世界に誇るサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館もエリザベータ女帝の時代にロマノフ王家の宮殿として建設されました。

  
駆け足、歴史の旅-ペテルブルクの薔薇

エルミタージュ美術館

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