だから恨まれても文句なんて言えない、と困ったように微笑む桜司郎の声音は、表情とは反対に酷く寂しげに響く。志真は思わず襟元を掴む手を離した。乱れた胸元からは刻印が覗く。

 

 

「ただ。私は……、覚えていたかった」

 

 

 思い出にすることも、偲ぶことも、選択肢すら与えられなかった辛さは誰にも分からない。ただ永遠にぽっかりとした虚無が胸に空いているだけだ。

 

 桜司郎の呟きは海風に拐われていく。

 

 

その一言に思いと苦悩の全てが乗せられているようで、志真はそれ以上責める言葉が告げなくなった。

 

 

 波を打つ音だけが鼓膜に響く。もしも桜司郎が可笑しなことを言おうものなら、この場で斬り殺して自分も自害しようと思っていた。だが、決して嘘を吐いているようには見えなかった。それどころか苦しんでいるようにも見える。志真は胸元に手を当てた。

 

 

「……これを」

 

 志真は懐から小さな帳面を取り出すと、桜司郎へ差し出した。

 

「これは……?」

 

「……先生が京に居るときに書いちょった日記です。先生は何でも文字にするんが好きな方じゃったから。これは貴女が持っちょるべきじゃと思いますけえ」

 

 

 それは吉田が"鈴木桜花"と会ってからの出来事や思いを綴った、恋文のような日記だった。吉田は言葉にすることが苦手だった分、文字に興すのが好きなのだ。 その後、二人は村塾へ戻るが高杉はまだ帰っていなかった。桜司郎は志真から貰った帳面をペラペラと捲る。

 

「……"不思議な男に会った。桂さんの言い付けで新選組に追われていたところを助けたが、仲間なのだろうか"」

 

 筆の跡を指でそっとなぞった。少しだけ色褪せたそれを見ると、年月が経ってしまったことを指す。丁度ぽっかりと空いた記憶の辺りなのだろうと感じた。

 

"僕の鬼切丸と対の刀を持っていた。彼とは仲良くなれそうな気がする"

 

「鬼切丸……。そうか、あれは吉田さんの言葉だったのですね」

 

 その脳裏には、土方らと江戸へ隊士徴募へ行った帰りの草津宿本陣にて浮かんだ人知れずの言葉が思い起こされる。

 

『鬼切丸よ、どうか叶うなら彼女から僕の記憶を消し去ってくれ。愛しい人が涙に暮れることがないように。道を迷わせないように』

 

 あの時に浮かんだ疑問の数々が、僅かな時を経てやっと答えを掴もうとしていた。

 

"桜花さんと居ると、落ち着かなくなる。秀三郎へ相談したら、慕情だと言われた。まさかそのようなことがあるのだろうか"

 

"桜花さんは女子だった。知らなかったとはいえ、泣かせてしまった。どうすれば良かったのだろう"

 

 

 覚えていない人の日記を覗くというのは、少しくすぐったい気持ちになる。だが、そこに並べられた誠実な思いに胸がじわりじわりと暖かくなった。分からない今でもこれほど詰まる思いがあるのだ、当時の自分はどのような思いだったのだろう。

 そのような事を思いつつ、桜司郎は紙を捲っていく。

 

"彼らは例の計画を遂行するつもりだ。本当に良いのだろうか。嫌な予感がする。どのような形になったとしても、桜花さんだけは巻き込みたくない"

 

"もし桜花さんが求婚を受け入れてくれたのなら、共に萩の海を見たい"

 

「求婚……!?」

 

 受け入れてくれたのなら、ということはその言葉は既に自身へ告げられていたのだろう。それ程までに親密なのであれば、志真が怒るのも無理はなかった。

 

 胸の奥の空洞に、温かい何かが流し込まれるような感覚がする。

 

"古高さんが捕まった。もう計画は終わりだ。祇園祭の約束も果たせないかも知れない"

 

 

 それは今までの文面とは明らかに毛色が異なっていた。どくん、と鼓動が嫌な音を立てる。恐る恐ると次の頁へ向かう手が震えた。

 

「無い……」

 

 期待を裏切るように、それ以降は何も書かれていない。そこで時が歩みを止めていた。恐らくこの続きを書く前にこの世から姿を消してしまったのだろう、と想像が付く。

 

 すると、途端に喪失感のようなものが渦巻いた。山南や松原の時に感じたものとは異なり、言葉では言い表せないほどの痛みが浮かぶ。桜司郎はその知らぬ感情に動揺し、瞳を揺らすと再び帳面へ視線を戻した。