お父さん、いつもお疲れ様でした。父の日おめでとう。私の父亲 「いつも身近に居れば、その人の贵重さを感じられないものだ。しかし、一度别れると、それは、私にとってどんなに大切だったことか!」これは、私が父に対する感情だ。日本に来て早一年になる。私の头の中にいる父の姿は、いくら时间が経过しても决してぼやける事はない。却って懐かしさから、益々父の姿がくっきりとしてきた。父は、五十年代に师范学校を卒业した教师だ。自分の努力からすぐに学校の主力となり、26歳の若さで副校长になった。しかし、文化大革命の勃発により、父は、右派として田舎に下され农民として働いた。母と结婚し、兄と私が生まれた。父は"赤贫洗うが如し"の时、毎朝早くから夜遅くまで田畑で働き、少ないお金を稼いでは家族を养ってくれた。まだ幼く世间知らずの私は、先代に受けた苦难をどうして理解できようか。我が侭な私达兄弟は、些细な事からよく口论になった。その时父は、いつも私达の要求を満たしてくれ、「兄弟が互いに譲り合う优しさを持つように」と、教えてくれた。 私が7歳の时、父にようやく名誉挽回の日が访れた。政府からの赔偿と都会に戻れる事を全て放弃し、当地の学校で教师に戻ったのだ。父は、真面目で、毎日一心で学生の为に宿题の添削をし、讲义の准备をした。そして、毎年の成绩は、全地域一番になっていた。他人は「どうしてここまで一生悬命なのですか?」と、父に闻いた。その时父は「工场で不适合品が出たら再度つくることができる。しかし、私が前にするのは人だ。失败すれば、人の一生を害する。私の责任は重大なのだ。」と答えた。父は、言行一致の人だ。父が学生を可爱がる程度は、私に対するもの以上だった。例えば、扫除当番の学生达には、一切黒板拭きをさせない。いつでも自分で拭いていた。何故なら、白墨の粉が健康を害すると认识しているからだ。私は、小学校5年生の时、父のクラスで学んだが、毎日黒板拭きを命じられた。父は、「黒板を拭きながら暗记ができるだろう。私は、君の手伝いをしているのだよ。」と言った。私は、父の事が怖かったので仕方なく黒板拭きをした。その后、私の大学受験が思い通りにいかなかった时のことだ。私は、父が激怒するだろうと怖れていた。しかし、父は「君の事を気に挂けることが少なかった私にも责任がある。进取の精神があれば、社会に入っても成すことができる。」と言った。それは、私がはじめて、父の事を怖くないと感じた时だ。时间の推移とともに、父も益々年老いて来た。私は、自分の思想もあり、父の话をくどくどと闻くことが无駄に感じ、たて突くことが増えた。それでも最初は、父が激怒しないか少し不安だった。しかし、父は、昔ほど怖くなくなり、私は、何ひとつはばかることがなくなった。日本へ研修に行くことが决定した私は、父に报告した。父は「良かったね。日本は良いところ。风景も良く空気も绮丽。日本人の学びの精神と真面目な态度は一番。あなたの手本となるので、日本へ行く価値がある。家族のことは心配しなくて大丈夫だ。」と言った。実はその时、父は、癌手术后の疗养期间中で、人手が欲しい时期でもあった。父の言叶を闻いて、自分の利己を感じた。日本に来てからは、私が家に电话を挂けると、父は、いつも嬉しそうに、私の体は大分良くなった。君もホームシックに挂からないよう、そして、私を失望させないように日本で顽张って。」と言った。でも、母は、「彼の体はあまり良くない。君が家に居た顷に比べて悪くなった。彼は、いつも君の事を気に挂けている。」と、私に告げた。私は、その话を闻き、とても悲しくなった。そして、日本できちんと技术を身に付け、二年后、家に帰ったら、是非、父の为に栄光を胜ち取りたいと思っている。