高層ビルのメタリックな尖塔が、薄靄がかかっている夜空を貫いていた。ビルは闇の奥に沈んでいて、輪郭に沿ってところどころ付いている赤いライトと、碁盤の目のように並ぶ窓だけが明るい。SF映画に出てくる張りぼてのようなビルだ、とシズナは思う。ビルの谷間を、アドバルーンのマンボウがゆっくりと泳いでいる。その近くを、ライトを点けたヘリコプターが旋回している。マンボウとヘリコプターがぶつかってしまうのではないかとシズナは不安になった。マンボウは風に乗ってゆっくりと移動し、ヘリコプターから遠ざかっていく。
 夜空には星も月も見あたらない。だがコンクリートや金属やプラスティックやガラスで埋め尽くされた街は、無数の宝石をばらまいたような人工光で夕暮のように明るい。人々が休む間もなく活動していて、粉塵やガスが立ち上がり、黒い空に薄いピンクの靄がかかっている。
 シズナは足のまめの痛みをこらえてびっこをひきながら繁華街にある公園に入っていった。バー、クラブ、ゲームセンター、カジノの入り口では極彩色の電球が点滅していたり、電気の文字が移動しながら色鮮やかな光を放っている。ラブホテル、飲食店、コンビニエンスストア、街灯などで公園内はぼんやりと明るい。石のベンチには新聞で身体を覆った浮浪者が寝ていたり、相手のいないゲイの男が座って通行人の男を目で追っていた。男同士のカップルが顔を近づけひそひそと会話をしている。
 シズナは誰も座っていない石のベンチにへたり込んだ。スーツなんて脱いでしまいたい、パンプスも脱いで大の字に寝転がりたい、だが、向こうのベンチにいる浮浪者や男たちの視線を感じて居心地が悪くなった。ごみ入れの大きな金網の缶からは残飯や新聞や空き缶などが溢れていて、浮浪者がゆっくりとした動作であさっている。彼はシズナの方に虚ろな目を向けると、のろりと上体を起こしこちらに歩き出してきた。シズナはベンチから立ち上がり、池の方に行った。池のそばには雑木があり、水面には枝葉や空き缶や新聞やチラシなどが浮いている。どんよりと濁っていて生臭い。その周りを小さな虫が飛んでいた。
 公園に接した道路の方を見る。外国人の痩せた男が街灯の下で自動車のタイヤ交換していた。ジャッキで車体を上げて長細いレンチでナットを締める手慣れた動きを見ると、素人ではないようだ。タイヤを直した後、工具用品の入っている金属の箱から別の工具を取り出しエンジンルームをのぞいている。道路の向こうから仲間の太った外国人がプラスティックのボトルとビニール袋を持ってやってきた。痩せた男は仲間から手渡されたボトルを脇に置いてエンジンルーム内をいじった。彼はいろいろな工具やワイヤーやゴム製品を使って、懸命に修理をしている。太っている方の男がビニール袋を持って、池の方にやってきた。彼はちらりとシズナに目をやった後、ベンチに座ってビニール袋から弁当を取り出した。彼は大声で自動車を修理している仲間の男に話しかけた。シズナが大学のサークルで習ったことのあるペルシャ語だった。
 太った男は脂肪がついていたが筋肉質だった。口の周りに髭を生やしタックのついたズボンをはいている姿は、東京で見かける他のイラン人と変わらない。ベンチの上に二人分の弁当とコーラを置いて、割り箸を割っている。彼は大盛りのご飯と焼き肉を口に掻き込んでは、自動車を修理している仲間の男を見ていた。
 修理をしていた男が作業を終えてこちらにやってきた。痩せているがやはり筋肉質で、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしていた。頑健な体つきだが、華奢で顎の線が細い。長い髪を後頭部で一つに束ねて、首にトルコ石のネックレスをつけ綿のベストをボタンを外して着ていた。その下から生成りの丸首の長いシャツがはみ出して見える。黒の細身のジーンズをはいていて、他のイラン人とは違う服装のセンスだった。シズナは彼の持つ雰囲気をかっこいいと思って見つめた。そばで見ると、思ったより背が高かった。彼はシズナが見ているのに気づき、警戒しているような、だが好奇心が入り混じった目で見た。鳶色の純朴そうな瞳がためらいもなくこちらを見ているので、彼女は目を逸らした。
 彼はベンチに座って弁当を開き食べ始めた。彼らは口を動かしながらペルシャ語で話をしている。大まかな意味を聞き取ることができた。郊外にある自動車修理工場にいって修理の見積もりをしてもらったのだが、高額で支払えないため修理をあきらめて帰宅している途中に、スィヤの車のパンクとオイル漏れに見舞われた。タイヤを交換しホースをワイヤーで留めて応急処置をしたが、また壊れるに違いない。今度解体屋で中古パーツを仕入れて自分たちで修理しよう。そんな会話だった。
 スィヤと呼ばれる痩せた男が話しながら、ちらりとこちらを見た。シズナはまた目を逸らして池の手摺りにもたれた。彼らが、もう買い換えの時期だとか、いや修理を繰り返せば十分乗れるなどと、車の話をしているのが聞こえる。シズナは道路と公園の間のスペースに駐車してある黒いパジェロを見た。ジャッキや輪止めなどの工具は収めてあった。古ぼけた車だが、フロントガラスに検査標章のマークが見える。
 また壊れて乗れなくなったら友達の車を安く買おう、とペルシャ語で話し合っている声が聞こえてくる。シズナは彼らを盗み見た。
 モジと呼ばれる太った男がシズナを振り返った。彼とまともに視線がぶつかってシズナは瞬きをした。彼が、こんばんは、と日本語で言うと、シズナは小声で、こんばんは、と返して下を向いた。
 たぶん出稼ぎで来日した不法就労のイラン人だろう。彼女は、あまり彼らと関わらないように、と自分に言い聞かせた。上目遣いでスィヤを見ると、人間味のある優しそうな瞳がこちらを向いていた。だが、骨格のしっかりとした精悍な顔立ちを見ると、腕力では完全に負けてしまうことがわかる。本能的に怖さを感じる。
 スィヤが慣れた日本語で話しかけた。彼の表情からは、日本人への卑屈さや構えは感じられない。日本に適応して生活しているのだろう。
「人待ってるんですか?」
「いいえ」
「この公園、あぶないところだよ」
「どうして?」
「みんな悪いこと……」
 スィヤが言いかけると、モジは両手を左右に振って、大きな声だめだよ、と日本語で言う。
「大丈夫よ」
 シズナは忘れかかったペルシャ語でモジに言った。彼らは驚いた顔をした。スィヤは日本語で言った。
「ペルシャ語できる?」
「ええ、少し勉強したの」
 シズナは片言のペルシャ語で言った。モジはビニール袋から、開けていないコーラ缶を取り出して差し出した。モタチェッケラム、とシズナは受け取った。スィヤはペルシャ語で話し始めた。
「俺スィヤ。こいつモジダバ。君は?」
「シズナ」
「ここで何してるの?」
「疲れたから休んでたの」
「ここに立っている人はみんな売春してるんだよ」
 とスィヤ。
「よく知ってるね」
「スィヤは日本に来て長いんだ」
 モジダバが焼き肉とご飯を口に掻き込みながら言う。スィヤはうなずいてコーラのプルトップを開けて飲んだ。浅黒い皮膚の下で喉仏が上下に動いた。シズナもコーラのプルトップを開けて飲み始めた。シズナはスィヤに言った。
「あなたの車?」
「そうだよ」
「修理できるの?」
「もちろん」
「スィヤは運転も修理もすごくじょうずなんだ」
 モジダバが言う。スィヤが照れ笑いをした。シズナはスィヤの顔を見た。先ほどは体格の良い頑健な男だと思ったが、華奢で純粋な少年のようにも見える。
「イランにいた頃、車の修理の仕事していたことあるよ」
「へえ」
 スィヤはセカンドバッグから大きい手帳を取り出して、二種類の免許証をシズナに見せた。日本の免許証とイランの免許証だった。
「両方ともテストは一回でパスしたよ。子供の頃からお父さんの車を運転してたんだ」
 モジがうなずいている。
「子供が運転していいの?」
「いけないけど、お父さんの前に座って運転を見てたんだ。高校卒業したらすぐに免許取ったよ」
「へえ、嬉しかったでしょう」
 スィヤは笑ってうなずいて、手帳に挟んであった写真を見せた。色褪せた白黒写真だが、旧型の古びた乗用車の前で髭を生やした中年男と少年のスィヤが映っている。
「でも、お父さんは死んだんだ」
 彼は世間話をするように言った。急に告げられた過去の悲しい出来事にシズナは目を瞬いて黙った。
「どうぞ、食べてください。まだ手をつけてないんだ」
 スィヤがビニール袋に入った菓子パンをすすめた。
「ありがとう。でもお腹空いてないから」
 彼女は菓子パンを受け取ったが食べないでコーラを飲んだ。彼女はスィヤを見ていた。彼は箸を器用に使い鳥の唐揚げやご飯を口に掻き込んでいる。モジがキャベツの千切りを口に入れて咀嚼しながら言った。
「これから俺たちとドライブしようよ」
 シズナはたじろいでコーラを飲むのを止めた。スィヤは笑って言った。
「冗談ですよ。お父さんお母さんが心配するんでしょう」
「両親はここにはいないけど」
「一人暮らし?」
 スィヤが尋ねた。シズナはどう答えて良いか迷った。よく知らない外国人の男に一人暮らしだと言いにくかった。彼女が困っていると、モジダバが言った。
「彼氏と住んでるの?」
 彼らは返事を待っていた。シズナは躊躇した。つき合っている男の人はいたが、恋人と呼べるかどうかわからない。しかし恋人がいると言えば、こちらにあまり踏み込まれないので安全だという気がした。
「ま、まあ、そんなとこ」
 スィヤとモジダバは沈黙した。
「ペルシャ語よく話すね。彼氏イラン人なの?」
 スィヤが聞いた。
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「今度彼氏と別れたら、俺とつき合わないかい」
 モジダバが言う。シズナは身を引いて、コーラ缶から口を離した。スィヤが声を立てて笑った。
「もう行かなくっちゃ」
 シズナは飲み終わったコーラ缶とハンドバッグを持ち直した。
「途中まで送っていきますよ」
 スィヤが日本語で言った。
「え?」
少しためらってスィヤを見つめた。途中までという言い方と邪気のない表情は自然だった。
「スィヤの車で?」
「そうだよ」
「そんな悪いわよ」
「だいじょうぶだよ」
 スィヤは立ち上がって食べ終わった弁当などをビニール袋に入れた。続いてモジダバも片づけ始める。スィヤはポケットからエンジンのキーを取り出して、さあ、行こう、と歩きだした。
「運転なら誰にも負けないよ。事故なんて一度もない」
「本当?」
「スィヤは俺の車の先生さ」
 モジダバが言う。
 黒いパジェロを近くで見ると、艶がなく窪んでいたり傷ついていたりしている。モジダバはスィヤに促されて後部座席に乗った。スィヤは運転席に座って、助手席の手動のロックを外した。車内は密室なので一瞬ためらいを感じたが、リラックスして計器類を触っているスィヤを見ると気持ちが落ち着いた。
 彼女は助手席に乗り込んだ。マニュアル操作のギアーで計器類も指針式で単純だった。足下のゴムシートは砂石で汚れている。オイルや機械類の匂いがした。運転席に座ったスィヤはエンジンをかけようとするが、なかなかかからない。
「いつもなんだ」
 何度もエンジンキーを回した後、ようやくエンジンがかかった。ウィンカーを出して発進する。エンジン音と振動が車内に伝わってきた。ゆっくりと走りながら公園を通りすぎる。スィヤはたずねた。
「アパートはどこ?」
 シズナは家の在処を教えたくなかった。彼氏がいると答えたものの一人暮らしだったので、知り合ったばかりの男に住所を教える気にはなれない。今こうして一緒に安心して車に乗っていられるのが不思議なぐらいだった。
「東外苑通りへ出てまっすぐに行って左に曲がって右に曲がって突き当たりで降ろしてちょうだい。ここからは遠くないの。あなたたちはどの辺に帰るの?」
「帰るところはないけど、同じ道だよ」
「アパートないの?」
「よく引っ越すんですよ。いつも友達と一緒に住んでるんですけど、本当は一人で暮らしたい。この車が自分の家みたい」
「古いけど乗り心地は良いわ」
 スィヤはシズナを振り向いて笑った。
「そうでしょう。エンジンもバッテリーもタイヤも解体屋で拾ってきて、俺が全部修理したんだ」
「本当? 大丈夫かしら」
「車検ではOKでしたよ」
 フロントガラスの上部に貼ってある検査標章のマークの有効期限はあと半年だった。開いた窓から絶えず大きなエンジン音と風が入ってくる。車内はエンジンで細かく振動していた。
「オーディオも、新しい型に取り替えたんだ。店で買ったらすごく高いやつですよ。聞いてみる?」
 彼は上機嫌でカセットステレオのスイッチを押した。旧型のシンプルな計器類にはそぐわない重厚な感じのものだった。CDシステムはないが、これで十分なのだろう。カセットボックスにはペルシャ語で書かれたカセットばかりが入っている。日本人のミュージシャンのカセットも少しはあった。
 ペルシャ音楽が聞こえてくる。イランの伝統的な楽器である葦笛と撥弦楽器と太鼓のアンサンブルの曲だった。リズミカルだが哀愁のあるメロディーで、祈りのような男の声が鳴り響く。後方からも音がした。シズナは後を振り向いた。モジダバがリズムに合わせて身体を揺らしている。彼の後の両側に小さなスピーカーの陰があり、重低音の効いた音が響いてくる。シズナも嬉しくなった。
「いい音ね」
 スィヤは運転しながら彼女の方を向いた。
「そうでしょう」
 車はシズナが言った通りの道順を走っていった。高層ビル街や繁華街から離れて住宅のある早稲田の商店街に入った。深夜は人通りが少なく静かだった。シャッターの降りた店やスーパーや学校が、暗がりの中にひっそりと並んでいる。明かりといえばラーメン屋やコンビニエンスストアや街灯ぐらいのものだった。車は片側二車線の広々とした道路をスムーズに走る。彼は右折や左折を繰り返し、道路の名前を呟きながら運転している。
「東京に慣れているのね」
「八年前に東京に来ました」
「やっぱりね。日本人みたいに話すもの」
「ありがとう」
 スィヤは嬉しそうにシズナを見た。
「日本語学校に行ったの?」
「ええ、読み書きもできますよ。そこに教科書とノートが入ってるけど、見る?」
「うん」
 シズナは彼が目で示したグローブボックスを開けた。地図類やバインダーなどが入っていた。バインダーを取り出すと、ノートが挟まっている。ノートを開けると、ミミズが這うようなペルシャ語と日本語の単語がずらりと書いてあった。自作の単語集だった。
「スィヤの?」
「そうだよ。もうすぐ店を開くんです。ずっと日本で商売をするつもりなんです。だから勉強しているんです」
「へえ、何を売るつもりなの?」
「イランの絨毯や雑貨です」
彼は運転しながら笑顔でシズナを見た。自動車は右折して人通りのない暗い商店街を通過した。
「アパートはどこ?」スィヤは運転しながら訊いた。
「近くよ。ここで降ろしてちょうだい」
「あ、うん」
 彼はウィンカーを出して、自動車を道路脇に寄せて停めた。
「ありがとう。楽しかったわ」
 シズナはスィヤと後部座席にいるモジダバに言った。スィヤは微笑んだ。彼女はノートをバインダーに挟みグローブボックスに収めた。ハンドバッグを手に持ち、さようなら、とドアを開けた。夜気の涼しい風が入ってきた。このまま外に出ていけば、もう彼らと会うことはないだろう。両足を地面につき前屈みになって出ていこうとした。
「ちょっと待って」
 スィヤが声をかけた。振り向くと、彼は何かを紙に書きつけて、それをシズナに差し出した。
「気が向いたら電話してくださいね」
 シズナは微笑して紙を受け取った。ハンドバッグの中にしまって外に出た。深夜で人通りはほとんどない。街灯と、閉まった商店の並びの先にあるコンビニエンスストアの明かりだけが道路を照らしていた。スィヤは身を乗り出し助手席の開いたウィンドウに顔を近づけて言った。
「気をつけてね」
「ええ、スィヤもモジダバも」
 シズナは歩道で彼らを見送った。スィヤは小さく警笛器を鳴らして、発進させた。後部のドアガラスからモジダバがシズナに向かって片手を上げるのが見える。彼女もモジダバと運転席のスィヤの後ろ姿に手を振った。
 暗い道路に遠ざかっていくパジェロの後ろ姿を見つめた。深夜の広々とした道路を、悠々と走っていく。やがて緩やかな坂を降りて、消えていった。
 交通のない暗い道路に、間隔を置いて立っている信号機が一斉に緑から黄になる。閉まった書店のショウウィンドウに展示された本を眺めながら歩いていき、十字路の所まで来ると辺りを見回した。
 通行人はなく、道路を走る車もない。道を曲がり脇道に逸れて街灯のない暗がりの路地をいく。古く汚れた低層マンション、波状のプラスティック板を壁に巻きつけた木造家屋、波状鉄板とブロックで作った倉庫、建築中止になって骨組みだけがある空き地が続く。
 さらに脇道に入ると、左側にモルタル塗りの壁とトタン屋根でできている木造家屋、右側にブロック塀があり、突き当たりに蔦で覆われた古い三階建てのマンションが姿を現した。ここの二階にシズナは住んでいた。外壁一面に蔦が這い、コンクリートの階段や廊下も老朽化していたが、家賃が安いのが気に入って借りていた。この界隈には外国人や労働者や学生が多く住んでいた。

 シズナはパンプスを乱暴に脱いで、ショルダーバッグを放った。スーツを脱ぎ捨てTシャツと短パンに着替え、六畳一間のカーペットの上に寝転がった。ため息をついて窓ガラスの向こうを見る。
 イギリスの高級ブランドを扱うブティックの社長の見下したような顔が浮かぶ。あのね、うちは経験者しか取らないんだよ、と子供をなだめるような口調で言われた。前にアジア・中近東の輸入雑貨店に勤めていたと言っても、鼻であしらわれただけだった。不愉快だった。ポールスミスのオーデコロンとポマードの匂いが漂ってきて吐き気がした。店員は糊がついているようなぱりっとした白いシャツに紺色のスカートを着て立ち回っている。あんな服、着たくない、とシズナは心の中で呟く。扱っている洋服もありふれたデザインで地味な色の無地やチェック柄が多かった。素材も仕立ても良くて値段の高い洋服だったが、彼女の趣味ではなかった。
 お客さんはあの洋服のどこが良くてお金を払っていくのだろう。シズナには理解できなかったが、今まで面接を受けたブティックの中では高級店で最も給料が多かった。
 本当は、中近東のキリムや絨毯や雑貨を扱っている店で働きたい。特に、糸を草木で染めて途方もない時間をかけて緻密な文様を織り出した織物に惹かれていた。しかしいくら探しても、働き手を募集している中近東の織物を扱う店はなかった。そのためアルバイトを募集している洋服や雑貨関係の店を探しているが、気に入った所はなかった。
 この不況の時代に気に入った職場を見つけるのは難しい。いずれ気に入らない職場でも働かざるを得ない時がくるのだろうか。憂鬱になってしまう。
 天井の黒い染みをぼんやり見ていると、扉をノックする音が聞こえた。
「誰?」
「俺だよ、俺」
 コウスケの声だった。扉を開けると、安いスーツを着て仕事用の黒い鞄を提げたコウスケがよろりと入ってきた。真っ赤な顔をして目が座っていた。酒の匂いをぷんぷんさせながらシズナに抱きついてくる。彼女は彼の腕から逃げるように身体を離した。
「どうしたの? こんなに夜遅く、べろんべろんに酔って」
「うひぃーっぷ、同僚と飲み会があって……うひぃーっぷ……疲れちまった」
 コウスケは玄関に倒れかかった。
「大丈夫?」
 シズナは両手でコウスケの上体を起こした。彼は酒の匂いを吐きながら、シズナの身体に手を回した。
「もう」
 彼女は身体を捻ったが、コウスケの両手に捕まえられていた。彼は唇をすぼめて突き出してきた。
「チュウして」
「やだよ」
「どうして、彼氏だろ」
 シズナは一瞬黙った。
「元気になったのなら自分のマンションに帰って寝た方がいいのに。明日仕事でしょう?」
「なんだって。シズナに会いに来たんだよ。恋人じゃないか」
「もう遅いから」
「さあ、やろう」
 コウスケはシズナを部屋に引っ張っていき、上着を脱いで、ズボンも脱いだ。シズナには、シャツの下から見えるすね毛の生えた太い両足や張り出しているお腹が滑稽に見えた。彼はさっさと服を脱いでシズナを押し倒した。
「相変わらずマグロだよな」
 彼は横たわっているだけのシズナの短パンを脱がし始めた。
「今度にしようよ」
「我慢できない」
「もう……これ付けてくれる?」
 シズナはベニヤ製のチェストの引き出しからコンドームを取り出し、袋を破って中身を渡した。彼は装着してまた彼女の身体の上に乗った。
「痛いよ」
 シズナは、はやく終わらせるために抵抗せずにそのままにしておいた。行為は終わり、コウスケは使用済みコンドームをティッシュにくるんで、ごみ箱に投げ捨てた。彼はパンツを穿き、二、三度シズナの髪を撫でるとすぐに眠りに落ちた。
 彼女は静かに起き上がり風呂場に行った。シャワーを浴びて体を洗いながら思う。コウスケとセックスしてもつまらない。つき合い始めた頃は、セックスの時に興奮していた。でも最近は、裸になって性器を擦り合わせることに飽きてきた。
 風呂場から上がってコウスケを見つめる。
 コウスケは大の字になって熟睡していた。彼とは、三年前に自己啓発セミナーで知り合った。費用のかかる胡散臭い講座は嫌いだったが、三日間の無料お試し講座だったので行ってみた。グループになって初対面の人たちと自分について語るワークショップだった。
 同じグループだったコウスケはまだ学生で痩せていて、アロハシャツに短パンを穿いてリュックサックを背負っていた。髭を生やし日焼けした旅行者のような顔で、将来は小説家になりたいと言い、サリンジャーについて喋っていた。
 コウスケはきっと芯のある人だと思い、ワークショップの講座が終了した後も電話で話をするようになり、いつの間にかつき合うようになっていた。
 年上のシズナは大学を卒業していたが、就職もできずにアルバイトを転々としながら、大学のサークルで勉強したペルシャ語を生かせる商売が良いと考え始めていた。前に勤めていた中近東雑貨キリム店を知ったのもその頃だ。働いてみるとトルコの商品が多くて、ペルシャ語を話す機会がなかったことと絨毯を扱っていなかったのが少し不満だったが、他の職種よりはましだった。
 やがてコウスケも卒業し、これといって就職したい職場はなかったが、生計を立てるために予備校に就職した。
彼は仕事は嫌だと言いながらも勤勉に働いている。仕事もなくぶらぶらしている自分と比べると、安定した仕事に就いていると思う。酒と食事の量が増えて太ってきたが、悪い人ではない。女っ気もなく、結婚したら家庭を大事にする人だろう。シズナは彼の寝顔を眺めながら、部屋の隅にあった毛布をコウスケに掛けた。スチールハンガーに掛けていた敷き布団と毛布を物音を立てないで敷き、電気を消して布団の中にもぐり込んだ。
シズナは眠れなかった。仕事がなかったら困ってしまう。家賃の安いアパートを借りていたため、まだ働かなくても食べるに困ることはなかったが、いつまでも無職でいることはできない。コウスケは時々、シズナの仕事が見つからなかったら、どちらか一方のマンションを引き払って一緒に暮らそう、と言っていた。
 規則的に響く彼の鼾を聞きながら、一緒に暮らすことはしたくない、と目をつぶった。

 翌朝、まだ薄暗い時に物音がして目が覚めた。目を閉じたままうつらうつらしていると、コウスケが洋服を着ている気配がした。起きようとしたが、深い闇から浮き上がれずに、まどろみの中にいた。厚い靄のかかった意識の向こうで、玄関の扉が開閉する音がかすかに聞こえる。シズナはまた眠り込んだ。
 部屋の温度が上昇してきて寝苦しくなってきた。目を覚ますと、日差しがカーテンを透かして部屋を明るく照らしていた。
 カーテンを開けて顔を洗い、敷き布団に座ってパンと牛乳を食べながらテレビを見た。地球の異常気象についての番組をやっていた。地球温暖化が進み例年より海面が上がっているらしい。このままでは、砂漠化が進み氷原や氷床が減少し、将来予想もつかないような深刻な事態が出てくるだろうとニュースキャスターは言っている。
 株の暴落の話題になった。大手の金融機関がつぶれたのが影響しているのではないか、と解説している。ここのところ、銀行や証券会社の経営破綻が続き、金融危機を招くのではないかと捲し立てていた。
リストラで解雇されたのは不本意だった。鏡に向かって髪をといていると、前に働いていた仕事場の店長の険しい顔がまざまざと思い出される。お店を減らすから今月で辞めてもらえますか、と突然に最後の給料を手渡された。彼女はアルバイトだったが、もし正社員だったら首を切られなかったはずだ。社長には、経営状態が良くなったらまた手伝ってもらいたいので連絡します、と言われた。
 社長が連絡して来ないだろうかと思いながら、電話を見る。
 田舎にいる両親には、失業してしまったことはまだ言っていない。心配させたくないという思いもあったが、何かと言えばすぐに田舎に帰れと口うるさいからだ。シズナは田舎に帰りたくなかった。異文化に触れる商売を、活気ある都会でやりたかった。
 どこかで自分の趣味に合う店が仕事の募集をしていないだろうか。毛布と敷き布団をスチールハンガーに掛け、今日も職を探すべくスーツに着替えた。
 部屋を出て、コンクリートの階段を降りていった。一階の部屋の扉が開いて、一人の外国人が出てきた。数ヶ月前から住んでいるイラン人の男で、シズナを見ると上目遣いでうなずいた。彼女もうなずいた。彼は体格が大きく、彫りが深い顔に髭を生やしているせいで怖い感じを与えたが、頼りなげにも見える。話をしたことはなかったが悪人ではない気がした。黙って一階の廊下を通り過ぎて、路地を歩いた。途中で後を振り向くと、その男はこちらを見ていた。
 彼女は背中を向けて、ブロック塀とモルタル塗りの家屋に挟まれた路地を歩いていった。

 雑貨店やブティックなどのショウウィンドウにアルバイトや正社員募集のチラシが貼ってあるのを見つけては、店に入って雰囲気を窺ったり店員と話をしたりしたが好みの店はなかった。自分の趣味とかけ離れたセンスの洋服や物を売るのは、きっと疲れることだろう。シズナは街中を歩き回って、働く意欲が自然と湧いてくる職場がないことにがっかりした。
 部屋に戻り、スーツを脱いで短パンとTシャツに着替えていると、電話が鳴った。コウスケからだった。
「面接どうだった?」
「うまくいかなくって……。そのブティックに置いてある服、ぜんぜん好きじゃないわ」
「そうっか、今時自分に合った職場なんてなかなか見つからないよ」
「そうね。小説の方はどう?」
「どうして?」
「前に小説家になりたいって言ってなかった?」
「まあね。小説家になっても食えそうにないしな。今時小説なんて流行らないし。あーあ、明日も仕事だよ」
 コウスケは深いため息をついた。
「なんだかつまんないわね」
「え?」
「しょうがないから仕事してるって感じね。就職したんでしょう?」
「そうだよ。フリーターなんて不安定でやっていけねえよ。シズナみたいに仕事がなくなったら困るもん」
 シズナは一瞬黙った。
「やりたい仕事がなかなか見つからないのよ。天職が欲しいな」
「そうだね。俺も塾辞めようかな、っていつも思うんだ。教えるの好きじゃないし。塾で生徒に一流大学合格目指して勉強させてさ、何のためかなって、教師の自分でもわかんないよ。受験競争に加担しているだけさ」
「向いてないんじゃない?」
 コウスケは一瞬黙った。
「まあそうかもな。だからってやめたら生活できないじゃん。それに他の仕事に比べればマシなんだよ。会社に入ったらもっと大変だよ。同僚に気を使って上司にぺこぺこして、利益を上げないと首を切られちゃうんだって、保険会社に就職した友達が言ってたよ」
「でもさ、コウスケみたいに教えながら何のためかなって、感じてるんじゃしょうがないわよね」
「仕事があるだけましさ。天職なんて探していたらいつまでたっても就職できねえよ。シズナこそこれからどうするんだよ」
「私も……このままだと、向いていない所で働くことになるわ」
「俺と一緒に暮らさないか。家賃が半分になるよ」
「ありがとう、でもどうして私と暮らしたいの?」
「そりゃあ……好きだからさ」
「好きって、私の何を?」
 コウスケはしばらく黙っていた。
「そ、そんなこと言われたってわかんないけど……シズナと一緒にいたらなんだか落ち着けるよ。エッチもしたいし」
「そう……ありがと」
 シズナは眠くなり、別れを言って受話器を置いた。
 また明日街を歩いてみよう。疲労で瞼が重くなってくる。布団に横たわっただけで、身体が沈み込むように感じた。いつの間にか眠りの淵に滑り落ちていった。

翌日も、仕事を探すために街を歩いたが、シズナを雇うところはなかった。帰路につく途中でアルバイト情報誌やジュースや野菜や肉などを買い、両手にビニール袋を下げてコンクリート階段を上っている時、下方からペルシャ語で喋る複数の男の声がした。振り返ると、二人の体格の良いイラン人の男が、赤い顔をしてうなだれている男を両脇から抱えて、一階の彼らの部屋に向かっている。抱えられている男は意識が朦朧としていて自力で歩けないのか、頭を垂らし、つま先を軽く地に着けてぶらりと進行に合わせて動かしていた。抱きかかえている片方の男が、シズナを見上げた。先日見かけた髭を生やした男だった。男はシズナを見ると後ろめたいような目つきで顎を引いてお辞儀をした。シズナは日本語で言った。
「どうしたの?」
 病人を抱えた両方の男がシズナを見た。髭の男が下手な日本語で言った。
「ともだち、あたま、いたいよ」
 彼らは病人を抱きかかえるようにして部屋の中に入っていった。シズナはコンクリート階段を上がって自分の部屋へ戻った。
 食事を終えて食器を洗っている時、扉をノックする音が聞こえた。コウスケなら、こちらが黙っていれば、俺だよ、と言うはずだった。相手は間を置いてノックした。誰だろう、とシズナは身を硬くして黙った。再びノックするので玄関に行く。扉は鉄製だが錆びていて、ドアチェーンもドアスコープもなかった。
「誰ですか?」
「わたし、アリです。さっき会いました」
 外国人独特の訛りがある日本語が聞こえてきた。階下の住人のイラン人だろう。シズナは扉を開けずに日本語で言った。
「何かご用ですか?」
「友達が病気なんです。頭が熱いから氷が欲しいです」
 アリは慣れた発音でよどみなく喋った。
「ちょっと待って」
 シズナは台所に戻って冷蔵庫から氷を取り出し氷嚢に入れた。扉を恐る恐る開けると、先ほどの髭の男が少し距離を置いて立っているのが見えた。悪意のない茶色の瞳がこちらを見ている。シズナは扉をさらに大きく開けて氷嚢を差し出した。
「ありがとうございます」
 アリは氷嚢を受け取った。
「どんな様子なんですか?」
「頭が痛くて、口から食べ物を出します」
「救急車でも呼びましょうか?」
「いいえ、大丈夫です」
「そう。お大事に」
 アリはお辞儀をして暗がりの階下に降りていった。病人を抱えたイラン人たちの部屋は、この真下だった。今頃、熱にうなされているのだろうか。どんな病気なのだろうか。彼女は考えながら台所に戻り皿を拭いた。
入浴を終え、布団を敷いて横たわっていると、スィヤの顔が思い浮かんだ。彫りが深くて浅黒い顔をしていた。逞しいのに、少年のように澄んだ瞳をしていて輝いていた。彼は、もうすぐ店を開いて、イランの絨毯や雑貨を売るらしい。日本でずっと商売をしたいと言っていた。
 彼は、どんな人なのだろう。シズナがやりたいと感じていた分野の仕事を、異国から来て言葉のハンデがありながらも成し遂げようと努力しているようだった。幼さが残っている顔つきだったが身体が引き締まっていて意志が強そうだった。
 このままこちらから連絡をしなければ、お互いに顔も名前も曖昧なまま忘れてしまうだけだろう。
 シズナは起きて、バックの中からスィヤの電話番号が書いてある紙切れを取り出し、電話をしてみた。すぐにスィヤがペルシャ語で出た。
「アロー」
「スィヤ?」
 彼は一瞬黙った後、明るい日本語で答えた。
「はい、はい。スィヤです」
「私、誰だかわかる?」
「シズナさん」
 彼女は嬉しくなって日本語で話し始めた。
「憶えていたの?」
「憶えてますよ。元気ですか?」
スィヤも流暢な日本語で話した。
「まあね」
「今、一人ですか?」
「うん」
「明日は暇ですか?」
「う、うん」
 一瞬彼女は構えた。
「昼にイランショップに行くんだけど、一緒に行きませんか?」
「そんなのあるの?」
「渋谷にありますよ」
「行ってみたいわ」
 シズナははしゃいだ。昼間に外で会うということに安心した。待ち合わせの場所と時間を決めて電話を切った。何を着ていこうか。どうせ仕事はないし好きな服を着ていこう。
 押入を改造したクローゼットから、ジーパンと綿シャツとザクロや茜などの草木染めの糸で織ってあるキリムの手提げ鞄を出した。これらは前の職場のお店で買ったものだ。好きな衣服や鞄を身に着けると気分が晴れる。
 いつもより多くの化粧水を顔につけてクリームを塗った。子供時代に戻った気分で手足を伸ばし、布団の中に入った。明日は良い日でありますように、とスィヤの浅黒くて彫りが深い顔を思い出しながら目を閉じた。

 シズナの家から最も近い地下鉄の駅が待ち合わせ場所だった。スィヤもそこから遠くない所に住んでいるらしい。昼過ぎに約束の場所に着くと、彼は前に見た時とは打って変わり、茶色のスラックスに白のシャツという改まった格好で待っていた。あれから何日も経っていないのに急に大人びた雰囲気がした。
 彼らは渋谷に行った。ブティックやカフェやレストランのある表通りを歩き、飲食店の看板が並ぶ古い雑居ビルの前で立ち止まった。一階はレストランで二階はパブだった。最上階にいたる六階まで飲食店の薄汚れた電気の看板が連なっている。ここだよ、とスィヤは地下への階段を指差した。階段の入り口の壁に、イランショップとペルシャ語で書かれた色褪せた紙が貼ってあった。彼はコンクリートの階段を降りていき、シズナも従った。
 扉を押し開くと、香辛料や酸っぱい匂いが鼻をついた。所狭しに食料品、雑誌類、本、カセット、CD、が並べてある。棚には乾燥野菜や乾燥レモン、豆、ターメリックなどの香辛料、瓶詰めのキュウリやカブ、缶詰、スープなどのレトルト食品などが積まれていた。
 シズナはそれらの棚を見て回った。白いブロック状のチーズやお菓子もあった。スィヤはペルシャ語で書かれた新聞や豆や乾燥野菜をレジスターに持っていった。
 彼はシズナの隣りにやって来て彼女の見ていたギャズというピスタチオ入りのヌガーを手に取り、食べたい? と聞いた。うん、と答えると、スィヤはそれもレジスターに持って行った。彼の後を追っていくと、スィヤは勘定をしていた。シズナは菓子の代金は自分で払った方が良いと思い、鞄から財布を取り出した。スィヤは彼女が金を払おうとするのを押し止めた。スィヤの好意に甘んじて、財布を鞄にしまった。
 イランショップを出ると、夕暮れになっていて気温も下がり、電気の看板やネオン管や街灯に明かりが点いていた。暗い藍色の空に夕陽の尻尾が残っていて、西側の空がうっすらと茜色になっていた。ビルの屋上では、蛍光灯の集まりでできているソニーという文字の看板が片端から明るくなったり暗くなったりして波のように移動していた。壁面には巨大なスクリーンがあり、パソコンのデスクトップが映し出されている。隣りのビルにはガラスのシリンダーのような通路が縦に伸びていて、人工光で煌めくエレベーターが上下に行き来していた。
 交通は渋滞していて、フロントライトやテールランプが列をなしていた。車の騒音、人々の話し声や叫び声、音楽、携帯の着信音、サイレン、電車の音など雑多な音が渦巻いている。流行の服を着た人々や学生風の若者がほとんどだった。空が暗くなると人々や車の交通量がさらに増え、街が活気づいた。
 大通りに出て、横断歩道の青信号を待っている時、スィヤは、おいしいよ、とギャズの包みを手渡した。
「ありがとう」
「これから仕事なんだ。シズナは?」
「う、うん……別に……」
 流暢な日本語で聞かれて、失業中でぶらぶらしているのが恥ずかしくなった。信号が青になり、雑踏の中を歩き始めたスィヤを見失わないようにそばについた。
「地下鉄の駅まで送るよ」とスィヤ。
 闇が街の隅々まで垂れ込んできたが、雑多な人工光で道路は明るい。二人は通行人にぶつかりそうになりながら歩いた。シズナは聞いた。
「どんな事をしているの?」
「店の内装工事をしたり、絨毯やキリムやアクセサリーやいろんなものをイランから輸入して、店に運んでいるんだ」
 彼は淀みなく日本語で喋る。
「へえ」
 シズナはスィヤの横顔を見た。鼻が高くて、前方をしっかりと向いている彼が格好良く見える。
「僕のお店見たい?」
「うん、見たいわ」
 シズナは嬉しくなった。急にギャズを食べたくなり、封を切って箱の中から白いヌガーを取り出して口に含んだ。
「歩いて行こう、近くなんだ」
二人は繁華街を抜けて、公園のそばの並木道を歩いた。路上でアクセサリーや置物などの雑貨や衣類を売っていたり、絵描きが通行人の似顔絵を描いたりしていた。マイクロバスを改造した移動式の屋台では、スブラキやジュースを売っている。
 彼は大通りから脇道に逸れた。鉄筋コンクリートでできた近代的なビルや大きなマンションが連なり、会社のオフィス、ブティック、雑貨店、ヘアーサロンがあった。彫刻を施した木製看板、イラストを描いたコンクリートの壁、蔦の巻き付いた白壁などが目に入る。タイル張りのビルの一階に、<ペルシャ絨毯・シラーズ>と書かれたショウウィンドウのある店があった。大小の様々の絨毯やキリムが飾ってあり、奥の壁にもロール状に巻いて立て掛けてあるのが見える。
 レジスターの前にイラン人の背の低い太めの初老の男が立っている。スィヤはガラス扉を押して入っていった。スィヤと初老の男はペルシャ語で親しげに挨拶をした。初老の男はシズナとスィヤを交互に眺めた。スィヤは彼に言った。
「友達だよ」
 太ってはいるが骨太の初老の男はシズナに笑いかけ、慣れた日本語で言った。
「はじめまして。コウカブです」
 白髪の混じった灰色の髪をしていて肌は色白で少々受け口の顔だった。憎めない雰囲気が漂っている。
「シズナです」
「スィヤが女の子を店に連れてきたのは初めてですよ」
「そうなの?」
 シズナはスィヤを見た。彼は笑っていた。店に初めて連れてきた女の子が自分だというのが、嬉しかった。
「彼女、ペルシャ語話せるんだ」
 スィヤが言うと、コウカブは少し驚いた。
「少しだけです」
 シズナは照れた。コウカブがペルシャ語で挨拶をした。シズナがペルシャ語で答えると、彼らは嬉しそうにうなずいた。しばらくペルシャ語で会話をしていたが、彼女のペルシャ語より彼らの日本語の方が流暢だったので、三人は日本語で話し始めた。
「スィヤには、今度隣りのお店をやってもらうんですよ」
「隣りのお店?」
 シズナはスィヤを見た。彼はうなずく。
「新しくオープンするんだ。店の名前は、グリスターン」
「へえ素敵ね」
 奥の部屋から、モジダバがやってきた。
「あら」
「おう、元気ですか」
「元気よ。絨毯の仕事をしてたのね」
「そうですよ。スィヤと絨毯運んでます」
 シズナは壁に掛かっている絨毯を見た。沢山の絨毯やキリムが掛かっている。その中の、イランのモスクの天井のタイル装飾を連想させる絨毯に目が留まった。瑠璃色の網目模様が放射状に広がっていて、こちらまで包み込まれるようだ。精緻な柄と織目、気品のある艶やかさ、その力強さと美しさに圧倒された。
「それはシルクで草木染めです。制作するのに何年もかかっています。途方もない時間とエネルギーがかかっているのですが、織り手は無名で貧しい人たちです」
 とスィヤが説明する。値札には産地と素材と値段が書いてある。とても高価だ。
「スィヤのお店では安い絨毯や雑貨を売ります。古い絨毯の買取もしますよ」
 コウカブが言いスィヤを見た。スィヤは得意げにうなずいて言った。
「ペルシャ絨毯は高価なイメージがあるでしょう。でも本当はいろんなサイズの絨毯を沢山、床や畳の上に敷いて貰いたいんですよ。もっと気軽に使ってもらいたいんです。だから安いペルシャ絨毯を紹介していくつもりなんです」
 シズナはスィヤを見上げて言う。
「あまり収入がなくても買えるのかしら」
「もちろんです。アパート暮らしの学生の方でも買える値段です。しかもずっとずっと先まで使える。お得ですよ」
「素晴らしいわ。絨毯を見る目もあるんでしょうね」
「もちろんですよ。絨毯商人の資格を持っているんだから」
 スィヤは彼女を真っ向から見て言った。
「スィヤの家は絨毯屋ですよ」とコウカブ。スィヤはうなずいた。
「僕は子供の時から家の絨毯の仕事を手伝っていました」
「へえ」
 余分な脂肪のない浅黒くて彫りの深いスィヤの顔がますます精悍に見えた。
「スィヤはよく働くよ。正直で良い男だよ」
 コウカブは言った。モジダバがうなずいている。スィヤの携帯が鳴った。彼はペルシャ語でやり取りした。相手は絨毯を見に来て欲しいと言っているらしく、スィヤは絨毯の状態を尋ねていた。彼は携帯を切ると、行ってきますよ、とコウカブにペルシャ語で言った。スィヤはシズナに言った。
「途中まで送るよ」
 シズナはコウカブとモジダバに別れを告げて、スィヤと店を出ていった。すっかり夜になっていて、向かいのブティックの店内の照明も消え蛍光色の衣装を着たマネキンだけがライトアップされていた。<ペルシャ絨毯・シラーズ>の隣りの店舗は、真っ暗でがらんとしている。シズナは言った。
「いつオープンするの?」
「もうすぐですよ。今修理してきれいにしているんだ」
 スィヤは立ち止まってガラス窓から暗い室内を眺めた。床にロール状の壁紙やペンキ缶などが置いてあるのが見える。彼らは隣りにある駐車場へ歩き出した。
 パジェロの助手席のドアを開けると、消臭剤と機械類が入り混じった匂いがした。彼は運転席でエンジンキイを回した。すぐにエンジンの回転が止まってしまう。何度も繰り返した後、ようやくエンジンがかかった。カセットプレーヤからペルシャ音楽が聞こえてくる。飾りけのない撥弦楽器の弾ける音だった。時代を遡った遠い沙漠の場所から聞こえてくるような懐かしい繊細な金属の音色だった。
 駐車場の出口に向かおうとするが、何度もエンジンが止まり、その度にシズナは前のめりになった。ごめん、とスィヤはエンジンをかけ直した。またエンジンが止まり二人は前のめりになった。

夜の繁華街を通り抜けシズナの住んでいる街の商店街を走った。人通りは少ないが、飲食店や書店はまだ開いていた。すいている二車線の道路を乗用車やトラックがスピードを出して走っている。スィヤは速度を落としながら尋ねた。
「マンションどこ?」
 マンションの近くまで行くとコウスケと鉢合わせになる可能性があった。
「ここでいいわよ」
「近くまで行くよ」
 スィヤは言う。商店街から細い脇道に入り、外灯も人通りもない暗い路地を走る。シズナは家路の途中で言った。
「もう降りるわ」
 スィヤは錆びた駄菓子屋の看板がある木造家屋の前で停めた。パジェロから降りようとした時、エンジンオイルの臭いがするのに気づいた。
「ねえ、変な臭いがするわよ」
「また、漏れてきたな」
 スィヤは舌打ちをする。シズナは車体の底を覗くと、黒々とした機械類の奥から滴が落ちているのが見えた。後方のアスファルトに黒い染みが間隔をおいて続いているのが、テールランプに照らされていた。
「まずいよ。直さなきゃ」
 シズナは驚いて言った。
「エンジン熱いから、待たないとだめだ」
 彼は車に乗ったままため息をついた。腕時計を見てまた舌打ちをした。
「仕事の人が待ってる、困った……」
 彼の眉間に皺が寄り始めた。 
「ここに停めたら、まずいよねえ」
 スィヤは木造家屋や古アパートが前後に続く細い道を見回した。一方通行で車一台分の幅しかない。ここに停めておくと自転車も通れない。
「近くに私のパーキングがあるの。車を入れておくから、スィヤ、仕事に行っていいよ」
 シズナは言った。スィヤは彼女の顔を見つめて言った。
「車持ってるの?」
「うん、今はないけど」
「パーキングどこ?」
 彼女が説明すると、彼はその道をゆっくりと走った。狭い路地を曲がり暗い木造家屋や倉庫の並びをいく。地上げをされて人が住んでいない空き家が多い。借り手のいない古アパート、老朽家屋、金網で囲まれた荒れ地などが暗がりに続く。波状鉄板を巻き付けたブロックの倉庫と木造アパートとの間に、地均しもしていない雑草の生えた空き地があった。
 周りは高いブロック塀に囲まれていた。倉庫の裏側が上方に覗くブロック塀のそばには、クレーン車が寄せて駐車してあった。一台分のスペースの向こうに、焼却炉のドラム缶があり、背後には大きな樹木があった。そばに黒い街宣車が駐まっている。
 スペースにパジェロを駐車してエンジンを切った。しんとした暗闇に包まれた。周りは雑木や藪に囲まれていた。駐車場の出入り口のそばに瓦葺きの古アパートが建っている。一階の部屋の窓ガラスは全て割れていて、外側から鉄格子がしてあった。一つだけしかない出入り口の扉も壊れていて開き放たれ、内部は真っ暗だった。そこから階段や横に延びる廊下にも通じているのだろう。二階には管理人が住んでいて、カーテンの閉まっている窓から明かりが漏れていた。スィヤが聞く。
「ここ安いの?」
「うん、二万円。でももうやめるつもり。車も使わないし」
「そうっか」
 彼の携帯が鳴った。彼は通話ボタンを押して先方と話をした。遅れるかもしれない、と伝えて通話を切ると、急いで上着とセカンドバッグを手に持って車から出た。シズナも急かされるように外に出る。彼はドアにキーを差し込みロックしながら言った。
「ここ使わないの?」
「うん」
「じゃあ貸して、パーキング代払うから」
「まあ、いいけど」
「じゃあまた、仕事の途中だから」
「うん、また電話してね」
 彼は走って路地に出ていった。彼は家屋から灯りが漏れている細い路地を走っていき、突き当たりの表通りに出た。シズナも後を追うように歩いていく。彼は左右を確認して、地下鉄の駅のある方向へ曲がった。後ろ姿が見えなくなったので、シズナは早歩きになった。表通りに出て、スィヤの姿を目で探した。少し先の十字路を曲がっている彼の後ろ姿があった。目の前をトラックが通り過ぎ、排気ガスで視界が覆われる。スィヤの後ろ姿はもうなかった。
 シズナは蔦がはびこる古マンションに戻った。一階のアリの住んでいる部屋の窓から灯りが漏れている。病人はどんな様子なのだろう。彼女は横目で見ながら、コンクリートの階段を昇っていった。アリの部屋の扉が開いて誰かが出てきた。踊り場から振り向くと、この間アリと一緒に病人を抱えていた背の低いイラン人だった。彼はシズナを見ると、おずおずとお辞儀をした。彼女はペルシャ語で言った。
「ひどい病気なの?」
 彼は答えに迷い唸るような声を出した。
「病院に連絡してみましょうか?」
 シズナが言うと、彼は頭を横に振りたどたどしい日本語で言った。
「だいじょうぶ。こおり、あたまおくとげんきなる」
 彼はマンションを出て、暗い夜道に消えていった。

 翌日の昼、シズナは職を探すために外出した。途中で、駐車場に立ち寄ってみた。パジェロは消えていて、ドラム缶とクレーン車との間のスペースは空いていた。もう車を修理したのだろうか。よくあんな壊れた車に乗っているものだと少し呆れた。
 電車を乗り継いで職業安定所に行き、仕事を募集している店や会社のファイルをめくっては探した。いつまでも無職ではいられない。弟に車を貸して少し報酬を貰っているが、これだけで食べていけるわけがない。貯金も残り少なくなってきている。アルバイト情報誌や職業安定所で得た情報をもとに、渋谷や新宿の店を見て回ったが、彼女のセンスに合う所はなかった。通りがかりに素敵だと感じる雑貨店やブティックに入ってみたが、働き手を求めている所はなかった。夕方になり疲労して渋谷の街を歩いた。
 スィヤと一緒に歩いた通りを歩いて、自動販売機で缶ジュースを買って飲んだ。太陽はビルの向こうに隠れてしまったものの、空にはまだ青みがあった。夕暮の空の下に、沢山の派手な人工光が点灯していた。少しは元気が出てきたので、スィヤの店に行ってみることにした。
 <ペルシャ絨毯・シラーズ>の店内は明るく、天井でシャンデリアが輝いているのがショウウィンドウから見えた。手前には高価そうな絨毯が飾ってある。奥の壁にはSALEと書かれた赤い札のついた沢山の絨毯やキリムが掛かっていた。
 隣りにあるスィヤの店も明るい。ガラス窓を通して、裸電球がぶら下がっているのが見える。床に雑多なものが置いてあり、作業服を着たスィヤが一人で動き回っていた。ビニールシートを鋏で切り、テープで壁に貼り付けている。
 ガラス窓から彼を見つめた。彼はこちらに気づきもせず、しゃがんでペンキの缶に刷毛を入れている。彼が立ち上がった時、ふと目が合った。スィヤは刷毛をペンキの缶に戻し、木製の扉を開けて出てきた。彼のズボンやシャツはペンキや埃で汚れていた。
「どうしたの?」
「うん」
「仕事は?」
「してないの」
「入れよ」
「うん」
 シズナは彼に従って店内に入った。壁はエンジ色に塗りかけだった。脚立、ペンキの缶、大工用具、木板、煉瓦、ビニールシートやテープ、新聞紙、布、刷毛などが床に雑然と置いてある。
「朝、パーキングにパジェロがなかったわ。どうしたの?」
「修理して乗って来たよ。ちゃんと直ったよ。見る?」
「結構よ。それよりペンキ、手伝っても良いわ」
「そう?」
 彼はシズナの顔を見つめた。
「うん。任せて」
 彼女が威勢良く言うと、スィヤは男物の大きなシャツを持ってきた。汚れるからこれ着て、とシズナに手渡すと、ペンキの缶を手に持って壁を塗り始めた。彼女は洋服の上から、シャツを着た。
「扉や窓枠はどんな色にするの?」
「グリーン」
「ペンキどこ?」
「あそこ」
 スィヤが指差す。彼女は缶を開けてみた。エンジ色の壁に似合う緑色だった。ビニールテープで塗らない所との境界を縁取り、刷毛で扉の内側を塗り始めた。ワニスの匂いが鼻についたが、気にならなかった。扉をペンキで完全に塗ると、部屋があか抜けた雰囲気になった。シズナは壁際の板張りの床に煉瓦を積み上げてみた。積み方によって部屋の印象が変わる。不規則に積んでみたり、一列に積んでみたりした。
「部屋の真ん中に丸いテーブル置いて、アクセサリーや小物を置くんだ。あっちもテーブルを置いて、こっちは棚を置いて……」
 彼は四方の壁を指差しながら言う。彼らは日本語で会話をした。スィヤは日本語の単語が見つからない時には、ペルシャ語で喋った。
「それにはまず床を掃除しなくっちゃ」
 とシズナは言った。
「そうだね」
 彼らはビニールシートや新聞紙とペンキの缶を手に持って奥の部屋に行った。シズナは部屋の隅に置いてあった掃除機を担いで売り場の部屋に行く。スィヤは大工用具をかたづけて屑を拾う。彼女が掃除機のスウィッチを押すとスィヤが言った。
「ねえ、ペンキが乾いてからが良いよ」
「そうね」
「今日はもうお終いにするよ。ここでアルバイトできる?」
「うん」
 シズナに迷いはなかった。
「コウカブに紹介するよ。店長なんだ」
二人は電灯を消してお店を出た。<ペルシャ絨毯・シラーズ>にもCLOSEDのカードが掛かっていたが、電灯はついていた。二人はガラス扉を押して入っていった。レジスターの前にコウカブが立っていて、モジダバが屈んで帳面に何かを書いていた。モジダバは顔を上げ、スィヤとシズナを見ると、やあまた会いましたね、と笑った。スィヤはコウカブに言った。
「明日からシズナもここで働いていいかな」
 コウカブはシズナの顔や洋服をじっくりと見ながら言った。
「アルバイトならOKだよ」
 彼は時給などの条件を言った。
「よろしくお願いします」
 シズナはお辞儀をした。
「こちらこそ」
 コウカブもお辞儀をして、彼らを奥の部屋に促した。そこは事務室になっていて、パーマをかけた細かい巻き毛の日本人の中年女性がパソコンラックの前に座りコンピュータを操作していた。コウカブは言った。
「グリスターンを手伝ってくれる人だよ。オカ、シズナさんだ」
「よろしくお願いします」
 シズナはお辞儀をした。
「コウカブの妻のユキコです」
 と彼女も頭を下げた。
「ペルシャ語もできるんだよ」
 スィヤが言う。ユキコは微笑んで言った。
「イランに興味のある人なら大歓迎よ」
「じゃ、スィヤのお店をお願いします。明日履歴書を持って来てください」
 コウカブは日本人が話すような発音で喋った。シズナは、今持っています、と履歴書をコウカブに手渡した。彼はそれを見ながら言った。
「前にもお店の仕事をしていたんですね、きっと慣れてるね」
「はい。任せてください」
「これから輸入するもの、いろいろ見せてあげるよ」
 スィヤは数枚の写真を見せた。大小のキリムや絨毯が敷いてあるもの、敷物がロール状に巻いてあるもの、トルコ石や銀のアクセサリー、水たばこ、レリーフ、大理石の置物、花柄模様の大きな金属の箱などが写っていた。
「素敵じゃない」
 シズナが言うと、スィヤは笑ってうなずいた。
「明日はシナガワの支店に一緒に行こうよ。倉庫にある商品を持ってくるんだ。朝早いけどいい?」
「いいわよ」
 シズナの心は弾んだ。コウカブとユキコはうなずいた。運転免許証について問われたので、彼らに見せるとユキコはコピーをとった。
 スィヤとシズナは店を出て駐車場に行き、パジェロに乗った。スィヤがキーを差し込み回すと一度でエンジンがかかった。
「車直ったの?」
「うん、もう大丈夫だよ」
 人や車の通りが少ない深夜の商店街を走った。街灯の明かりと自動販売機の電灯が、店のシャッターが閉まった暗い路上を照らしていた。十字路までくると、スィヤは言った。
「どこに住んでるの?」
「う、うん」
 シズナが戸惑っていると、彼は言った。
「この辺だよね?」
「うん」
 履歴書を出したのに、住んでいる所を言わないのも変だった。コウスケと鉢合わせになったら店の人だと言えば良い。実際にそれ以上の関係ではないのだから。彼女はマンションの在処を説明した。
 地上げをされた住宅街の細い路地に入り、化粧合板やパネルや薄い鉄板でできた家々を通り過ぎた。角を曲がりブロック塀に沿って自動車を停めた。
 外灯も人通りもなく、下向きにした前照灯の明かりだけが暗い路地に伸びていた。前方には、蔦で覆われたマンションが弱い明かりを受けて佇んでいる。辺りは暗くひっそりとしていた。ブロック塀の向こうには雑木や廃れた工場の屋根が見えた。反対側は古びた木造家屋で二階の窓が明るい。カーテンが半分だけ開いていた。
 誰かが見ているかもしれない、とシズナは思った。コウスケがいつ訪ねてくるかわからなかったが、シズナはもっとスィヤといたかった。シズナはじっとしてスィヤの方に身体を向けていた。
 突然スィヤの携帯が鳴った。彼はセカンドバッグから携帯を取り出し、スペイン語で話した。シズナにはスペイン語はあまり理解できなかったが、プライベートな会話であることはすぐにわかった。誰? と彼女が言いかけると、スィヤは慌てて、黙って、と指で口を塞ぐふりをした。シズナが黙ると、彼はスペイン語でまくし立てて携帯を切った。
「今の誰?」
「あ、うん」
 スィヤは目をしばたたいて携帯をセカンドバッグにしまって言った。
「彼女だよ」
「ふうん」
「シズナは彼氏いるの?」
「うん、まあね」
「一緒に暮らしてるの?」
「ううん。暮らしてないよ」
 シズナは目を落とした。コウスケについて触れたくなかった。
「スィヤは彼女と一緒に暮らしているの?」
「うん」
 また彼の携帯が鳴り始めた。彼女は落ち着きなく言った。
「じゃまた明日ね、今日はどうもありがとう」
 車から出ると、スィヤは携帯を耳に当てながらこちらをちらりと見て手を振った。彼は身振り手振りで相手と話し始めた。シズナは振り返らないで、自分のマンションに戻っていった。

 翌朝、品川の店に行くために、シズナはパーキングでスィヤを待った。ドラム缶のそばに、スィヤのバイクが停めてあった。彼はこのパーキングまで、バイクで来るのだ。スィヤは早朝からパジェロに乗って絨毯などの荷物を取引先の店に運んでいるが、約束の時間になっても戻ってこない。
 シズナはじっと道路を見つめていた。痺れを切らした頃に、スィヤのパジェロが帰ってきた。駐車場に入り、古アパートを横切って樹木の所で曲がり、バイクとクレーン車との間のスペースに車を停めた。
 焦げ臭い匂いがしていた。スィヤはドアを開けて外に出た。ボンネットと車体との隙間から細い煙が立ち上がっている。煙は薄くなり消えたが、オイルの匂いが漂っていた。シズナが屈んで車体の下を見ると、地面にオイルの滴が落ちている。
「こんな車乗りたくない」
「こんな車じゃないよ。いい車なんだ」
 エンジンが冷えるのを待ってから、彼は車のボンネットを開けた。エンジンルームを見回すと、周囲のパイプはつぎはぎだらけで、ワイヤーやゴムで留めてあり、濡れて黒光りしていた。スィヤは油圧計の金属棒を引き抜き、眉をひそめて舌打ちをした。オイルが下限をかなり過ぎて減っている。屈んでエンジンルームを点検しているスィヤの背中に向かってシズナは言った。
「修理しても、もう乗らないわよ。もし事故を起こしたらどうするの。危ないわ」
「修理したら直るんだよ」
「もう絶対乗らないわ」
 スィヤは彼女の顔を見上げた。
「それじゃ仕事ができないじゃないか」
 スィヤは慌ただしくトランクの中から工具セットとオイルの入ったプラスティック容器を取り出してきた。彼が軍手をつけ修理しようとするのでシズナは言った。
「新しい車を買えばいいじゃないの」
「そんなお金ないよ」と彼は弱々しく言う。
「どうして? お店が買ってくれるよ」
「だめなんだよ。予算が足りないから」
「お店の車を借りようよ」
「ダメだよ。モジダバが使ってるんだ。修理して、僕一人で行って来るよ」
「この車に乗るのはやめて。弟から車を返してもらってくるから、私の車を使えば良いじゃないの」
「本当?」
 スィヤは彼女を見つめた。彼女は弟に携帯で連絡を取って言った。
「車を返してくれるって。だからもうそんな車乗らないで」
「わかったよ……」
「もう廃車にして」
「う、うん」
 スィヤは軍手をつけた両手をだらりと下げて彼女を見た。着古したシャツと染みのあるパンツをはいて、頼りなげにこちらを見ている。
「午後には戻ってくるわ」
 シズナはパーキングを出ようとした。
「途中までバイクで送って行くよ」
 スィヤは車の後部座席からヘルメットを取り出してシズナに手渡した。彼はドラム缶のそばに停めてあるバイクのところに行き、ヘルメットを被りシートにまたがった。彼はエンジンをかけて、どうぞ、と彼女を促す。シズナはスィヤの後の空いているシートを見て、漠然と不安を感じた。スィヤの顔に陰が落ちた。
「怖いんだったら、いいよ」とエンジンを止めた。
「バイクは壊れていない?」
「壊れてないよ。大丈夫だよ」
「そうよね。大丈夫よね。運転長いものね」
 彼女は念を押した。
「十年乗ってるよ」
 彼は言った。シズナはヘルメットをかぶった。シートに乗りスィヤの背中に掴まる。彼はバイクを発進させた。車道に出ると、風を切って自動車の脇を走った。道路を曲がるたびに車体が地面に傾く。初めてバイクに乗ったシズナは、スィヤの胴体に掴まっている両手に力を込めた。横を走っている大型トラックがバイクに接近してくる。トラックの助手席に乗っている男がこちらを見て指を差し、隣りに座っている相手と何かを言い合い笑った。スィヤは速度を上げて前方の乗用車の横へいく。シズナは彼にしがみついたまま目を閉じた。安っぽいシャンプーの香りがした。スィヤを後ろから抱きかかえているのに違和感はなかった。駅の近くで彼はスピードを落とした。駅前で停まると、シズナはバイクを降りて言った。
「一緒に来て」
「これからお店で仕事があるんだ」
 彼は手を上げて別れの合図をし、バイクを発進させた。彼女も手を振って、彼を見送った。

 シズナの軽自動車が道路の脇に停めてあった。スーツ姿の弟が運転席に座って待っている。シズナが助手席に座ると、車はもういらないよ、と車のキーを渡した。
「マイホームを買いたいから貯金したいんだ。車は金かかるから返そうと思ってたんだ。ちょうど良かった」
「マイホームですって。結婚でもするの?」
「まさか、そんな相手いないよ」
「そうなの? 彼女とドライブしたいから車貸してって言ってたじゃないの」
「もう卒業したよ。車よりマンションが良いよ。男はマンションを持っていないと結婚できねえよ」
「あんた、女にもてたいからマイホーム買うの?」
「そういうわけじゃないけど、将来のためにさ。姉ちゃんは仕事の方はどうだい? 母ちゃんがいろいろ俺に聞くんだよ。シズナは自分からは何も話さないからって」
「仕事変わったのよ。今度は面白そうよ」
「へえ、どんな仕事?」
「ペルシャ絨毯のお店よ。この車、仕事で使うの」
「お店どこにあるの?」
 シズナが<グリスターン>の所在地を言うと、まあ頑張れよ、俺はこれから仕事の約束があるから、とアタッシュケースを手に持ち地下鉄の駅の方向に消えていった。
 シズナは車を運転して古アパートのある駐車場へ戻ってきた。パジェロの後に接近して停めた。車を二台停めていたら管理人に叱られる。スィヤに電話をしたら、すぐに来ると言う。
 陽が落ちて、駐車場の出入り口から街宣車の方まで西日が届いていた。倉庫の裏側と隣接する側は一日中陽が当たることはない。ブロック塀には苔が付着し、クレーン車の周りには雑草が伸び放題に生えていて、じめじめとしている。地面に区分けのために敷いてあるロープは泥まみれになり土との区別がつかなくなっていた。手入れのされていない空き地だが、余所より半額以下のパーキング代なのだから仕方がない。廃材で作ったような古アパートは少し傾斜していて、一階のガラス窓はひび割れ埃がこびりつき磨ガラスのようになっていた。二階の窓にはくすんだ茶色のカーテンがかかっている。右翼の街宣車があるわりには、静かで人気がない。過激集団が出入りしている様子もない。だが、アパートの板の壁に、政党を罵倒する文句が書いてある紙が二、三枚貼ってあった。
 バイクの音がしてきたので、パーキングの出入り口の方に行った。スィヤの乗ったバイクが駐車場に入ってきて、ドラム缶の近くに駐まった。ヘルメットを外しながら、彼はシズナを見た。彼女は微笑んだ。彼の顔も緩んでいた。
「軽自動車じゃ小さいかもね」
「これで助かるよ。グリスターンが儲かったら大きい車を買うんだ。それまで貸してください。保険料と駐車場の賃料は俺が払うから」
「うん」
 シズナの気分が明るくなった。スィヤも笑った。彼は車体に触れながら言った。
「いい車だぜ」
 シズナは嬉しくなった。彼はさっそく運転席に乗り込むとあちこちを点検し始めた。エンジンスイッチに入っているキーを回すと、すぐにエンジンがかかった。彼は威勢良く言った。
「さあ、シナガワに荷物取りに行くぜ!」
「いいよ!」
 彼女は助手席に乗った。彼は自分のセカンドバッグの中からカセットを取り出し、カセットプレーヤのテープ挿入口に差し込んだ。聞こえてきたのは、時代を何千年も遡った古代の土の街から流れてくるような撥弦楽器の音色だった。弾き出される弦の音の隙間から葦の笛の素朴な音と息が静かに響いてくる。続いて皮張りの太鼓を手で打つ音が鳴る。ふと、いつか習ったことのあるペルシャ語の本に載っていた土色のキャラバンサライの跡を思い出した。
「素敵な音ね」
 シズナはボリュームを上げた。音質は悪かったが、葦笛を鳴らす息吹の音が心地良かった。スィヤは、撥弦楽器がタール、葦笛がネイ、太鼓がトンバクとダフという伝統的な楽器だと説明する。男のペルシャ語の歌声が聞こえてくる。
 ♪美と人柄と誠実さでは誰もわが恋人には及ばない。どんな親友も誠意あるわが恋人には及ばない……老いても私をしっかり抱いてくれ。私は若返って起き上がる♪
 スィヤは音楽に合わせて上機嫌に口ずさみながら、車を走らせた。駐車場を出て、古アパートや金網で囲まれた藪のある空き地を通り過ぎ表通りに出た。夕方とはいえ、空はまだ明るく人通りも多い。飲食店やコンビニエンスストアや書店が並ぶ商店街の歩道では、学生服を着た生徒たちがたむろしてパンやハンバーガーを食べていた。交通は渋滞していて、バイクや自転車が停滞ぎみの車を追い越していく。
 シズナがスィヤの横顔を見ると、彼もシズナを見て笑った。前方の車の速度に合わせて徐行しながら、彼は音楽に合わせてペルシャ語で歌う。
 ♪恋人を見なくては薔薇も美しくない。知性や芸術も恋人の姿がなければ楽しくない……心が安らぎ麗しい恋人を持つ人はみんな、スィヤわせになる、幸運がやってくる♪
「お腹空いた?」
 スィヤが聞く。
「うん、少し」
「途中で何か食べよう。何食べたい?」
「ペルシャ料理」
「シナガワのお店の近くにあるよ。そこで食べよう」
「うん」
シズナは楽しくなって歌い始めた。タール、ネイ、トンバク、ダフの音が一斉に賑やかに鳴っていた。ペルシャ語の歌声に合わせて適当に歌う。
 品川の繁華街の一角に、ペルシャ料理レストランはあった。夜になっていて沢山の電気の看板が輝いていた。カラフルな絵や文字が動いたり点滅したりしている。<ペルシャ料理>という日本語の電気の文字が掲げてあるレストランの前に車を停めた。煉瓦造り風の建物で、厨房がガラスの扉から見える。前掛けをしたイラン人がキャバブを焼いていた。
 スィヤに付いて店の中に入っていった。スィヤはレジスターにいた店員のイラン人とペルシャ語で挨拶を交わした。木製のテーブルにつくと、店員が水を持ってやってきた。彼女はアーブグーシュト、スィヤはキャバブをオーダーした。野菜や豆や肉を煮込んだ料理とスープのセットがシズナの前に運ばれてきた。彼女は煮込んだ料理を潰して食べるのをどこかで聞いたことがあったのでそうした。スィヤは彼女の潰し方に耐えかねたのか、ちょっと貸して、と受け取ると慣れた手つきで潰してペースト状にした。彼はシズナに聞く。
「他に何食べたい?」
「サラダ」
 彼は店員を呼んでサラダとザクロジュースを二つずつ頼んだ。
 二人はそれぞれの料理を分け合って食べた。彼はシズナの家族についてや将来は何をしたいかを尋ねてきた。弟と両親がいて、自分は中近東の織物や雑貨を扱うお店の仕事をしたいと言うと、彼は上機嫌にいろいろ尋ねてきた。
「弟は、車が使えなくなって困るんじゃない?」
「ぜんぜん」
「ご両親はお店について何か言ってる?」
「まだ親に言ってないの」
「そうっか……」
 スィヤは少し俯いた。シズナはキャバブやナンを沢山食べた。
「シナガワのお店に到着するのが遅くなるといけないね」
「連絡してあるから、安心してゆっくり食べてください、僕のおごりです」
 彼は改まった口調で言った。食べ終わると、二人分の料金をスィヤが支払った。外に出ると涼しい風が吹いてくる。
「気持ちいい」
 シズナは空を仰いだ。けばけばしい電光を放つ看板が上方のビルの壁に連なっている。その上に夜空が見えた。
「星が出てるよ」
 シズナが喜ぶと、彼は言う。
「東京の星は小さいよ」
 シズナは少しがっかりした。二人は車に乗り品川の店に向かった。
 店はもう閉まっていたが、裏口から入ると日本人の社員が事務室にいた。スィヤは挨拶をして、隣りの倉庫に行った。シズナも後をついていった。棚に段ボールが積んであり、壁には紙で包んで巻いてあるロール状の絨毯やキリムが沢山立て掛けてある。
「いっぱいあるのね。こんなに車に積めないわ」
「うん、今日ぜんぶ運ぶのは無理だよ。また来るよ」
 彼らは段ボールやロール状の絨毯を運んで、軽自動車のトランクに詰めた。スィヤの店にも手伝いに来る予定があるアルバイトの日本人の青年も荷物を運んでくれた。トランクも後部座席もすぐに満杯になった。アルバイトの青年や事務室にいる社員に挨拶をして店を出た。軽自動車の運転席にスィヤが、助手席にはシズナが乗った。
 深夜だったが、人も車も多い活気のある都心の道路を走った。外灯が規則的に並ぶ高速道路が、ビルの谷間を大きくうねって遠方に消えている。ビルの壁面には明るいガラス窓が並び、エレクトロニックと書かれた大きな看板があった。内部はサイコロ状の形をした電気の集まりで、一斉に回転しては赤や青に変わり、文字と背景の色が入れ替わっていた。向かいのビルの壁面には巨大な映像のスクリーンがあり、レオタードを着たダンサーたちがポップス音楽に合わせてみんな同じ動きで踊っている。
二人はお金を節約するために、高速道路を使わないで一般道路を通って帰った。まだスィヤが使う店名義の車はないし、シズナの給料もどのぐらいになるのかわからないのだ。
<グリスターン>に到着し荷物を奥の部屋に運んだ後、スィヤはシズナの前に立って言った。
「今日はありがとう。新しい車を買うまで、貸してくださいね。お礼にこれをプレゼントします」
 彼は奥の部屋の隅に立て掛けてあった一枚のキリムを店の方に担いできた。
「いいのよ、気にしなくて」
 と躊躇っていると、スィヤはキリムを畳んで紙袋に入れ軽自動車まで運んだ。シズナは目を瞬いて見ていると、スィヤは言った。
「記念だよ。ずっと持っていてね」
「わかった。キリムは大好きよ。大事にするわ」
「明日もシナガワに荷物取りに行って、その後は、知り合いが中古の絨毯を売りたいって言うから査定に行くんだ。スペアキーを貸してくれる?」
「うん、いいよ」
 シズナは車のキーを彼に手渡した。
「明日も一緒に来てくれる?」
「いいよ。喜んで」
 彼女の胸は弾んだ。車の助手席に乗りキリムの入った紙袋を両手に持ち、スィヤを待った。彼は店の戸締まりをして運転席に入り、帰宅するために古アパートのある駐車場に向かった。
 古アパートと倉庫に挟まれた出入り口を徐行して入り、いつものようにドラム缶とクレーン車の間のスペースに停めた。後方の古アパートの二階の窓は暗い。静かで人気がなかった。ブロック塀の向こうに倉庫の歪んだ鉄板の屋根と木の影が見える。夜空は綿を薄く伸ばしたような雲で覆われていた。スィヤがエンジンを切ると、彼のズボンのポケットから携帯の音が聞こえてきた。彼はペルシャ語で電話に出たが、スペイン語で話し始めた。通話を切って、セカンドバッグを手に持って忙しなく言った。
「家に帰るから。今日はどうもありがとう」
「こちらこそ」
 月光でぼんやりと照らし出されたスィヤの横顔を見た。睫の長い瞳がじっと前方を見ていた。鼻が高くて口元が引き締まっている。がっしりとした顎の隆起も精悍だった。
 彼のズボンのポケットから携帯の着信音がまた聞こえてきた。
「もう帰るから」と彼は携帯に出ないで、車のドアを開けて降りた。彼女も車から出て彼の後方に回った。彼はドアの鍵穴にキーを差し込みロックする。
「毎日頑張っているのね」
 シズナはスィヤの髪に触れた。
「じゃあね。彼女が待ってるんだ」
 彼はシズナに触られるのを避けるように離れてバイクのところに行き、ヘルメットを被った。エンジンをかけてシートに乗り、足を地面につきながらこちらに徐行してきて言った。
「また明日」
 シズナは少し不服そうな顔でうなずいた。スィヤを乗せたバイクは、土やコンクリート片が剥き出しになっているでこぼこの地面で上下に揺れながら、古アパートを横切り駐車場を出ていった。シズナはキリムの入った紙袋を抱えて、か細い月光に照らされた夜道を歩き、蔦の這うマンションに帰っていった。一階のアリの部屋の風呂場の小さな窓は真っ暗で、辺りは静かだった。足音をたてずにコンクリートの階段を昇っていった。

<グリスターン>の内装は、見違えるほど変わった。汚れた黄土色の壁はえんじ色に変わり、桟や柱には薔薇の絵の壁紙を貼った。木製の古びた扉はすっかり緑色に塗られて透けて見える木目が素朴さを醸し出していた。リサイクルショップで買った細長い机を壁に沿って並べ、更紗のテーブルクロスを掛けた。中央には楕円形のテーブルを置いてイラン製のレースのクロスを掛けた。ところどころに煉瓦を積んで観葉植物を置く。
 彼らは店の奥の部屋にいき品川から運んできた段ボールを開け、ロール状の絨毯やキリムを包んである紙や紐を解いた。シズナは段ボールからアクセサリー類や置物を取り出した。彼らは売り場に行って何をどのテーブルに置くかを話し合った。スィヤはキリムのバッグや敷物を壁に掛け、革ひもを窓際にめぐらせ銀製品や石のネックレスを沢山吊した。彼女はテーブルに大理石の置物や水パイプを置く。
「素敵なお店になるわ」
「うん」
 彼は笑みを浮かべ、小さな絨毯を壁に掛け始めた。シズナは彼の後ろ姿を見た。ストレートのパンツを穿いていたが痩せた足腰には大きすぎてぶかぶかだった。首や肩に筋肉の隆起はあるが華奢で少年のような体型だ。格好良いとは言えなかったが、微笑ましかった。
 彼と一緒に暮らしたらどんな生活になるのだろう、と想像してみる。彼は家で掃除や整理整頓など身の回りのこともするのだろうか。だが、彼女と一緒に暮らしていることを思い出すと少し憂鬱になる。
「彼女のこと、好きなの?」
「まあね」
「結婚するの?」
「まさか」
 彼は素っ気なく言って、脚立に両足をかけ、骨董品の古時計を柱に取り付けた。シズナは彼女との関係についてもっと知りたかったが、彼は黙って工具でフックのネジを留めている。シズナも黙って、彼の後ろ姿を見ていた。
 夜も更けて店の前の人通りが少なくなった頃、スィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で話し始めた。シズナは動きを止めて彼を見つめた。話が終わって通話を切るとスィヤは何事もなかったように薔薇の絵が描いてある金属製の箱を床に積んだ。シズナも細密画が施してある木製の小箱をテーブルに並べた。またスィヤの携帯が鳴る。シズナは彼を見た。彼はスペイン語でまくし立てている。女のヒステリックな声が送話口からする。スィヤは話し終わって通話を切り、また作業を続けた。
「彼女?」
「うん」
 スィヤは金属製の箱を積み上げた。二人で段ボール箱を片づけていると、またスィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で説得させるように手振りをしながら話している。シズナは床に落ちている紐や段ボールや屑などを拾った。開いた段ボール箱に入っている、金、銀、銅、真鍮のレリーフについてスィヤに尋ねようとすると、静かに、と彼は必死に両手を振り回した。送話口の向こうから女の怒鳴り声がする。シズナは黙って店内を片づけた。スィヤは通話を切って、ため息をついた。シズナは言った。
「そろそろ帰るわ」
「あ、うん」
「また明日ね。もうすぐ開店するんだから早く来てね」
 彼女はスィヤの片手を取った。
「わかった。応援してるわよ」
 シズナは彼の肩に触れて、唇を彼の頬に近づけた。スィヤは顔を後方へ反らした。
「どうして? ほっぺたにキッスするだけじゃない」
「だめだよ」
 スィヤは後へ引き下がった。
「彼女が可哀想じゃないか」
 シズナは軽い衝撃を受けた。が、平静を装って言った。
「彼女を好き?」
「うん」
「本当に好き?」
「うん」
 またスィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で応対した。大きな声を張り上げて、繰り返し主張している。シズナは掃除用具を片付け、洋服についた埃を払い帰り支度をした。彼は送話口を手で覆って、シズナに囁く。
「ちょっと待って」
 彼女は立ち止まった。スィヤは話し終えて通話を切ると、彼女の方へ歩きながら言った。
「送っていくよ。夜の道は危ないから」
「結構よ、まだ電車はあるもの。また明日ね」
 彼女はキリムの手提げバッグを持ち、スィヤを振り切って店を出ていった。

 コウスケはよく食べた。すき焼きの三分の二は彼の胃袋に入り、さらに大盛りのご飯を何杯も食べた。ビール瓶も何本も開けてジョッキで一気に飲んでは、鼻の穴をふくらませて気持ちよさそうに息を吐いた。スイカやプリンも食べて、プハァー、と突き出たお腹を叩く。彼はげっぷをしてキリムの上に寝っ転がった。彼は年下なのに、中年親父のようだと彼女は思う。コウスケは最近、かなり太った。食った、食ったと赤い顔をして大きなお腹を撫でている。
「おいシズナ、こっち来いよ」
 彼は両手を伸ばし、シズナを引き寄せようとした。
「嫌だよう」
「どうしてだよ、恋人だろ」
 コウスケはシズナの手を掴んで引き寄せウエストに両手を回した。彼は酒臭い息を吐きながら、唇をすぼめてシズナの顔を追う。彼の唾が頬にべちゃりとつくと、彼女は手で拭った。
「今日は生理なんだよお」
「本当か? どれ」
 彼はシズナのジーンズに両手を掛けてずり降ろそうとした。彼女は彼の両手から逃れようと身をよじった。
「どうしたんだよ」
「嫌」
「本当に生理なのか?」
 シズナは黙った。コウスケの表情が曇った。
「今日は疲れてるの」
「そうっか」
 彼は肩を落として言った。
「しょうがねえ。自分でやるか」
 彼はズボンを脱いでキリムの上に座り、パンツも脱いだ。
「ねえ、キリムは絶対に汚さないでね」
 シズナはティッシュペーパーの箱を彼のそばに置いた。コウスケは処理を終わって、汚れたティッシュペーパーを部屋の隅にあるごみ箱に投げて捨てた。
「これ買ったの?」
 彼はズボンを穿きながらキリムを眺めた。シズナはどう言うべきか一瞬迷った。
「ううん、貰ったの」
「誰に?」
「勤め先のイラン人」
「あーそういえば絨毯売ってる店なんだって?」
「うん」
「胡散臭いお店じゃないの?」
 彼は白いワイシャツを着ながら言った。
「まさか、真面目な人たちよ。やりたいことのために一生懸命に頑張っている人たちよ」
「ふうん。儲かっているのかな、給料もらってるの?」
「まだよ。始めたばかりだし。でもこんなに良いキリムを頂いたのよ」
「ふうん」
 コウスケはキリムを触ってまじまじと眺めた。裏についているタグに産地と取引業者の店の名前がペルシャ語で書いてあった。
「ま、いいっか。好きにすれば。明日も朝早いし、早く寝るかな」
 彼らはテーブルの上の鍋やコンロや食器類を片付け始めた。折り畳み式のテーブルも片付けて布団を敷いた。シズナはコウスケの布団から少し離れたところに自分のそれを敷いた。彼らは洗面所で歯を磨いた後、Tシャツとスウェットパンツに着替えて布団に潜り込んだ。シズナは頭まですっぽりと毛布を被り、コウスケに背を向けて海老のように丸まった。彼は立ち上がって電気を消し寝床についた。しんとした夜の空気が降りてきた。遠くから、時折車の走る音がかすかに聞こえてくる。彼女は身動きせず、じっとしていた。コウスケが言った。
「うちのお袋がな、早く実家に帰って来たら、って言うんだよな」
 シズナは黙っていた。
「酒屋を継いで結婚したらって」
 彼女はうずくまった姿勢のまま沈黙している。
「おい、聞いてるのか」
「あ、うん」
「結婚したらさ、頑張って働いて新しいマンションでも買いたいな。実家から遠くない所で、子供を作って育てたいよ」
 コウスケが言い終わると静寂が訪れた。
「なあ、シズナ、俺と結婚しないかい?」
「嫌よ」
 シズナは毛布の中でくぐもった声で言った。
「嫌だって? 俺たち恋人だろ?」
 彼女は黙った。
「俺を嫌いか?」
「別に」
「そうか。もしまた失業したら、俺が家賃と食費出してもいいんだぜ。ここに引っ越したいなあ。俺のとこ、高級マンションだけど狭いし高いし、もっと広くて安いところに住みたいよ。ここならいいよ、二人で住めば助け合えるし」
 シズナは寝息を立てて眠り込んだふりをした。
「どうしたんだよ」
 彼は彼女の毛布の中に手を入れてきた。シズナの腹部に手を回し、引き寄せようとする。
「好きだよ」
 コウスケは彼女の身体の上に覆い被さるように乗ってきた。
「嫌だってばあ」
 シズナは彼を押しのけた。彼はキスをしようとシズナの唇を追う。コウスケは横に反らした彼女の頬にぶちゅぶちゅとキスをした。
「嫌だあ、べとべとするう」
 シズナは頬を手の甲で拭う。コウスケはため息をついた。
「つまんねえの」
 彼は自分の布団の上に横になった。
「もう眠たいの」
 シズナはTシャツのしわを直し、少し下にずれていたスウェットパンツを引き上げた。毛布にくるまり、目を閉じてじっとしていたが、眠れなかった。コウスケも何度も寝返りを打っていた。彼の布団の擦れる音が、毛布の中のシズナの耳に届いた。いつの間にか、彼女は眠りこんでしまった。
 翌朝、シズナが目覚めるとコウスケはもう出社して部屋にいなかった。いつもなら、風呂場でシャワーを浴びたり洗面所で歯を磨く音やテレビの音がするはずだった。この日は、テレビもついていないし風呂場も洗面所も使われた形跡はなかった。置き手紙もなく、ただ彼の布団が畳んで置いてあるだけだった。彼はもうこの部屋に来ないかもしれない、と漠然と思った。冷蔵庫を開けてみたが彼は何にも手をつけていない。果物もヨーグルトもジュースも昨夜のままだった。
 パンを買うため部屋を出てコンクリート階段を降りていった。イラン人の住んでいる部屋の扉が目に入る。前に氷嚢を借りにきたアリと病人はどうしただろう。病人はどんな状態なのだろう。アリはまだ看病にあたっているのだろうか。氷嚢をまだ返しに来ないから、病状は良くないのかもしれない。シズナは表通りに出てコンビニエンスストアでパンを買って戻ってきた。コンクリート階段を上っていると、ふいにドアが開いてアリが姿を現した。目が充血していて顔色が悪い。彼はシズナに気づいて日本語で言った。
「この間、ありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。アリさん、大丈夫ですか。顔色悪いみたい」
 アリは戸惑って生返事をした。
「え、ええ。寝てないです」
「病気の人は、大丈夫なんですか?」
「ううん」
 アリは暗い目をして曖昧な返事をした。
「病院に行ったんですか?」
「う、ううん」 
 彼は隈のある窪んだ目を瞬いた。
「大丈夫かしら」
「僕、こおり買ってきますから」
 アリは、靴をつっかけて歩いて行った。氷を買いに行くというのだから、まだ熱が下がっていないのだ。重病なのではないか、という不安がよぎった。部屋の前に来て扉を小さくノックしてみた。返答がないので引き返そうとしたが、気になってノブを回してみた。扉は簡単に開いた。
 シズナは用心深く部屋の中を覗いた。汗や台所の洗剤や玉葱が混じった匂いがする。床には、日本語の新聞や雑誌が積んであった。日本人と暮らしている様子はなかった。アリの日本語が流暢なのを考えると、彼らは日本語が読めるのだろう。
 絨毯が敷いてある奥の部屋に一人のイラン人の男がイスラム教の数珠を手に持って座っていて、シズナを怯えた目で見ていた。前にアリと一緒に病人を抱えていた男だった。男は彼女を探るような目で一挙一動を見つめている。彼女は彼を安心させようと、サラーム、アレイコム、とペルシャ語で挨拶をして微笑した。男はちょっと驚いた顔をして、脂の浮いた肉付きの良い顔を紅潮させた。眼窩の奥の大きな鳶色の瞳に、恥じらいとも卑屈さとも取れる色が浮かぶ。
「ねえ、病気の人は大丈夫なんでしょうか?」
 彼女は日本語で尋ねた。男は黙って下を向いた。男の前に、寝床があり病人が寝ているようだった。
「ちょっと失礼します」
 シズナは靴を脱ぎ、静かに部屋に入っていった。
 奥の六畳の部屋の壁際に、頭に氷嚢を置いた男が布団の中で寝ていた。ぐったりと横たわっていて、彼女に気づく様子はない。
「どうしたの?」
 シズナが、数珠を持って座っている男に日本語で囁くと、彼はたどたどしい日本語で答えた。
「あたまにシュヨウができました」
「シュヨウ? お医者さんが言ったの?」
「はい」
「大変じゃないの。入院しなくっちゃ」
 シズナは寝床の中の男の方に身を乗り出した。男は寝ているのではなかった。瞼は薄く開いていて、瞳は薄い膜がかかっているようにぼんやりしている。彼女が覗き込んでいるというのに、何も見えていないように天井の方を見ている。唇をわずかに開けて乱れた呼吸をしていた。赤く火照った顔は汗でてかてかしていて、こめかみから汗の滴が垂れている。
「病院に電話をして来てもらいましょうよ」
 彼女は布団のそばに置いてあった充電器から携帯を取ろうとした。
「いいんです」
 男は手を伸ばし、シズナの手を押さえる仕草をした。
「ここより病院の方がいいわよ」
「はい。まえ、びょういんにいきました。ねるとなおるといわれました」
 彼は病床に伏している男を見た。病床の男の呼吸は急に早くなり、布団の胸の辺りが上下している。
「寝ると治るなんて本当かしら」
 男は切なそうに病人を見つめている。男の頭上の壁には、「FREE BIJAN」という文字とイラン人と思われる男の似顔絵が載っているチラシが画鋲で留めてあった。古びたテレビの横にも、「FREE BIJAN」という文字と日本語で<イラン人政治難民に自由を!>と書いてあるチラシの束が積んである。チラシの下には「Worker-Communist Party of Iran」と書かれた英語の冊子が覗いていた。シズナは冊子を手にとってパラパラとめくってみた。ホジャという名前で、イラン政府を批判する論文調の文章が載っていた。部屋の隅の本箱には、ペルシャ語や英語や日本語の本が並んでいて、すべて共産主義関係の本だった。シズナは不吉な予感を感じて尋ねた。
「ねえ、あなたたちはイランの反体制の政治活動に関わっているの?」
 ペルシャ語で聞くと、男は怯えた顔をしてペルシャ語で答えた。
「ホジャはいろいろやっていますけど、私はやっていません。私はホジャを看病するために、ここに来ただけなんです」
 男はしきりに首を振って頭を垂れた。イランでは、政府を非難する政治活動を行うことは、迫害と受難に身をさらすことであり、死刑になってしまうことを覚悟しておかねばならないことだ。
「ホジャさんは活動家なの?」
 男はうなずいた。
「日本でも雑誌に投稿したり、集会で話をしたりしていました。ビジャンは難民申請に行った時に捕まって収容所に入れられたんですけど、ビジャンのためにも、ホジャはチラシを作って助ける運動をしていたんです」
 ホジャがイランに強制送還されると危険な目に遭うだろうこと、不法滞在は自費扱いになるため治療費を支払う金がないことなど、シズナにも推測できた。
 俯いて口をくいしばっている男の顔を見ると、八方塞がりの状況下で苦しんでいるのが推測できる。
「とにかく、このままではホジャの身体が心配よ。腫瘍が悪性ならはやく処置をした方が良いわ」
 玄関のドアが開いてアリが帰ってきた。アリはシズナを見て少し驚いた顔をしたが、ビニール袋から氷やパンなどを取り出しながら日本語で言った。
「いっしょに食べませんか?」
「ありがとう。でももう仕事に行かなくっちゃ」
 シズナは重い空気から逃れるように部屋を出て、静かにコンクリート階段を昇り自分の部屋に戻った。
 パンと牛乳で朝食をとり、鏡の前で髪をといた。鏡には、化粧気のないソバカスのある顔が映っていた。茶色の瞳がこちらを見ている。
 アリは本当にホジャを病院に連れて行くのだろうか。腫瘍だと言っていたが悪性だと早く処置をした方が良い。このままあの部屋で死んでしまうことがあったら、見殺しになってしまう。
 シズナはキリムの手提げバッグを持って部屋から出た。階下に降りてホジャの部屋の扉をノックした。
「キエ?」
 彼らはペルシャ語で誰かと聞く。彼女が名前を言うと、アリが部屋から出てきた。
「病院まで遠くないから、車で送っていくわ」
「でも……」
 アリは困惑する。
「今日の診療代は私が払いますよ。早く先生に相談して」
「う、うん」
 奥にいる病床のホジャが急に呻き声を上げ始めた。アリは急いで部屋に戻り、片方の男に話をした。ホセインと呼ばれるその男は、病人の上半身を起こした。アリは顔の横に洗面器を置き、背中をさすり始めた。ホジャは呻き声とともに嘔吐した。
「車取ってくるから」
 シズナは部屋を出ていった。古アパートのある駐車場から車を運転してきてマンションの前に駐車した。アリの部屋に行くと扉の鍵はかかっていなかった。扉を開けて中を覗くと、アリとホセインがホジャを抱えて歩いてくるのが見えた。ホジャは相変わらず熱のために赤い顔をして汗をかき、虚ろな顔をアリの肩にもたせて千鳥足で歩いている。シズナは玄関を塞がないように廊下に出た。彼らはゆっくりとした動作でホジャに靴を履かせて立ち上がらせる。アリたちはホジャの両手をそれぞれの肩に回して、彼の歩調に合わせて歩いた。彼女は車に戻ってドアを開けた。
 アリたちは後部座席のシートにホジャを担ぎ入れた。ホジャを真ん中にして彼らが座り、シズナは運転席に座った。
「大久保の菅山病院がいいです。お願いします」
 とアリが菅山病院への道順を説明した。
 ホジャはぐったりとシートにもたれている。ゆっくりと発進して、古アパートや倉庫や木造家屋の並びを抜けて表通りに出た。誰もが沈黙を保ったまま、車の走る振動に身を任せていた。
 裏通りに入り、細い道を紆余曲折して、ようやく菅山病院に着いた。古びてはいるが大きな病院だった。黒ずんだ灰色の石造りの建物で、木々は排気ガスや埃で汚れていた。玄関の二、三段の階段を上がったところにポーチがあり両側に石柱があった。すりガラスの戸には「菅山病院」と毛筆の書体で書いてある。アリが戸をスライドさせようとしたが、レールに引っ掛かり手間取った。力任せに押すときしみを立てて戸が開き、彼らは病人を担ぎ込んだ。辺りを不安げに見回し、長椅子にホジャを横たわらせた。
 シズナは日本人として事を速やかに運ばせようと思い、受付に行った。医者に呼ばれて、アリとホジャが診療室に入っていった。シズナは待合室にある公衆電話でスィヤに電話をして、事情を話した。政治活動をしているホジャというイラン人が日本にいる事はスィアも噂で知っていた。
「ホジャは正直で嘘つかない男だって聞いたことあるよ。ホジャはイランでもデモをして捕まったんだ。イランに強制送還されるとまずいよ。菅山病院なら外国人に良心的だから大丈夫だと思うけど。終わったら、早くお店に来てね」
 わかったわ、とシズナは安堵して受話器を置いた。
 アリが待合室に戻ってきて言った。
「にゅういんしろっていわれました」
「えっ」
 病態と費用のことが気になった。シズナが受け付けで尋ねると、看護婦は診療室に入って医者と話をした後、戻ってきて言った。
「脳に膿瘍があって化膿してます。手術が必要です。すぐに入院してください」
 自費扱いのために費用は高額だった。診察代をシズナはアリに貸した。アリは金を支払いながら受け付けの看護婦に入院費や手術代のことを尋ねる。その金額を聞いて二人は呆然となった。だが、手術をしないとホジャの命が危険だった。
「よろしくお願いします」
 アリは看護婦に言ったものの、下を向いて険しい顔をしている。シズナは憂鬱になった。今日の診察代だけでかなりの紙幣を払ったのに、明日から彼らはどうするのだろう。どうするつもりなの? と聞きたかったが、シズナにはどうしようもない。彼女は逃げるように言った。
「仕事に行ってくるわ」
 アリは脂汗の滲んだ髭面の顔を上げた。
「ありがとうございます」
 彼はシズナの顔を見てか弱い声で言った。疲弊した顔だった。彼女はその顔を見ないようにして立ち去った。
 車に戻って、エンジンをかけた。カセットデッキからペルシャ音楽が聞こえてくる。幾種類もの撥弦楽器が一斉に鳴り響く。女の甲高い歌声が聞こえてくると、停止ボタンを押して音楽を止めた。
 高熱で苦しそうにしていたホジャの顔が思い浮かぶ。汗でてかてかとした火照った顔をして、瞼を薄く開き膜のかかったような瞳で天井を見つめていた。手術はうまくいくだろうか、政治・思想的理由から日本に逃亡してきたと思われる政治難民のホジャにとっては、このまま日本にいても、体が回復してイランに帰国したとしても、未来は険しいものだろう。自分にはどうしようもできない、とシズナは思う。きっと手術はうまくいく、その先もなんとかなるわよ、そう思って、これ以上ホジャの未来について考えないことにした。シズナは前方を凄むようにしてハンドルをしっかりと握った。

 スィヤの店は開店した。イランから輸入した商品を成田空港や支店の品川の店から運ぶ時は、アルバイトの若者が手伝いにきた。シズナは店のレジスター係を担当した。経理は、ユキコが一括してやっていた。前にも中近東雑貨キリム店の店員をしていたので要領はわかっていた。しかし扱うものがイランの商品なので、なるべくお客に付いて説明した方が良いのかどうか、シズナは迷った。このような狭い店内では、店員がそばに寄ってくるのを鬱陶しく感じる客もいるからだ。スィヤも店員をしたが、絨毯の取引のために外出していることが多かったので、モジダバから客への接し方を教わった。
 モジダバはスィヤがいかに絨毯の目利きが良いかをしばしばシズナに語った。スィヤはいい男、旦那になったら家族を大事にするよ。シズナは言う。スィヤは彼女がいるみたいよ。そうなの? 見たことないよ、スィヤは嫌いかい? 好きよ。どうして恋人じゃない? だって……。スィヤはよく働くし絨毯のいい悪いはすぐわかる、きっとお金持ちになるよ。モジダバとはそんな会話をしながら働いた。スィヤは夕方には店に戻り、閉店まで一緒に売り場で働いた。仕事が終わると、スィヤとシズナは彼女の車で帰宅した。
 ある日の深夜、二人はいつものように軽自動車に乗って古アパートのある駐車場に戻ると、街宣車が駐車してあるそばの樹木の暗い茂みに、肥満ともグラマラスともとれる女が立っていた。細かなカールのある金髪、ピンクがかった白い肌、少し上を向いている鼻が軽自動車のヘッドライトに照らされた。シズナは直感的にスィヤの恋人だとわかった。彼女は、軽自動車が徐行しながら入ってくるのを目で追い、助手席に乗っているシズナをじっくりと見た。スィヤは車を停止させて駐車ブレーキを上げながら低い声で言った。
「モニカだよ」
 モニカは暗がりの中の軽自動車とシズナをじっと見ている。スィヤがドアを開けて外に出たので、シズナも車から出た。
「あんただれ?」
 唐突にモニカが険のある目つきで訛の強い日本語で言った。シズナはスィヤを見た。彼はスペイン語でモニカに話しかけた。彼とモニカはスペイン語で言い合っていたが、彼女は気を取り直したらしく日本語で静かに言った。
「あたしモニカ、スィヤのこいびと」
「私はシズナ、スィヤの仕事を手伝ってる」
「OH、しごとだけ?」
 シズナは黙った。
「あんた、スィヤすき?」
 シズナは黙ってモニカを見ていた。
「あたしスィヤとけっこんする」
「そう、ご自由に」
「先に帰ってくれる? 僕たちはちょっとここにいるから」
 スィヤはシズナに言った。
「わかった」
 シズナはほっとして、車から離れていった。古アパートを横切り駐車場を出ていく途中で後を振り向いた。暗がりの奥に、モニカとスィヤが距離を置いて立っていた。スィヤはこちらに背を向けて、モニカに手振りで懸命に話をしている。モニカはずっとこちらを見ている。シズナは視線を無視して古アパートと倉庫に挟まれた出入り口に向かった。角を曲がって路地に出る時、ちらりとまたモニカを見る。しきりに手振りをしながら話しているスィヤの向こうから、モニカはシズナを窺っていた。
 シズナは急ぎ足で駐車場を出ていった。後を振り返ると、駐車場の出入り口にも路地にも人通りはない。角を曲がり、脇道に逸れ、回り道をしてマンションに帰った。

数日後の深夜、シズナの部屋の電話がけたまましく鳴った。受話器をとると、音楽や街の騒音が聞こえる。電波の雑音の中で、独特なアクセントのある外国人の下手な日本語が耳に入ってきた。
「OH、シズナさん。げんき? あたしモニカ」
「元気よ」
「ちょっとはなしある。これからあおう」
「何の話?」
「いま、はなしダメ。いいみせある。きて。スィヤにないしょ。だいじ、はなしある」
「何の話よ?」
「いま、はなしダメ。あたしシンジュクコマゲキジョウ、いる。シズナさん、まってる。おねがい、きて」
「どうかしたの?」
「いま、はなしダメ。あたしまってる。おねがい、きて。あたしおごる」
 モニカは自分の携帯の番号をシズナに教えると、あたしまってる、と言い残して切った。シズナは不安を感じたが、大事な話だと言うので、会うことにした。スィヤに関することだろうから、聞いておきたい。いつものキリムの手提げバッグを持ったが、財布からクレジットや金融機関のカード類や余分な現金を引き抜いて机にしまった。真夜中の新宿で変な店に連れ込まれ法外な金額を請求されたり危険な目にあっては困る。必要以上の金を持って行かない方が良い。モニカはスィヤの恋人だし、先ほどの口調から激しい憎しみや攻撃心は感じられなかったから、暴力的なことに巻き込まれることはないと思う。むしろ、シズナに願い求めているような口調だった。スィヤには内緒だと言っていたが、一体どうしたのだろうか。
 真夜中になると電車がなくなるので、自転車で行くことにした。深夜でほとんどの店は閉まっていたが、歌舞伎町の近くまで走らせると車や人通りが多く昼間のようにざわめいていた。クラブやバーの前では、バニーガールたちがサラリーマンを誘っていた。看板に<のぞき部屋>と書いてあり女の裸の写真があちこちに貼ってある店やSMプレイという蛍光色の看板を掲げた店が並んでいた。クラクションや音楽やゲームセンターなどの騒音の中、ホステスやゲイたちの嬌声、やくざ風の男の無骨な声などが聞こえる。白昼よりも賑やかだ。
 新宿コマ劇場の前に行くと、天然カールの金髪の太った女と、栗色のストレートの髪をした細身ではあるが乳房と尻の大きな女が立っていた。二人ともはち切れんばかりのタンクトップとジーンズを着け、腹を覗かせていた。金髪の方は、モニカだった。彼女は少し上を向いた鼻と下向きの歪んだ唇をしていたが、シズナを認めると、まるでずっと前からの友達であるかのように手を上げて笑った。シズナは困惑した。笑顔を返そうと思ったが、苦笑のようにしかならない。モニカは走り寄り大袈裟な笑顔を向けてシズナを抱いた。
「OH、シズナ、げんき?」
 シズナが戸惑っていると、栗色の髪の女も日本語で言った。
「あたし、ケリー。よろしく」
 ケリーはモニカと交代して、シズナの背中を抱いて頬にキスをした。シズナは少しびっくりしたが、そのままにしておいた。モニカは自分の腕をシズナの腕に回して言った。
「あたしたちおごる。あそこいこ」
 斜め前にある、通行人が気軽に立ち寄っているガラス張りのカウンター式バーを指差す。シズナはやけに馴れ馴れしいモニカに首を傾げながら、彼女たちに従いバーに入った。狭い店で、椅子は中央のカウンターにしかなく、ガラス窓に沿う長いテーブルでは男女が混み合って立ったままアルコールを飲んでいた。待ち合わせをしているのか、一人で飲んでいる人もあちこちにいる。
 ケリーは一人で飲んでいる若いスーツ姿のサラリーマンの男の隣に身体をねじ込むようにして入り、隣のカップルとの間を開けてモニカたちを呼んだ。モニカとシズナはその隙間に入った。モニカはケリーとスペイン語で喋った後、バーテンダーにコロナビールを三つ注文した。モニカはシズナに言った。
「だいじょうぶ。あたしおかねもってる。あたしおごる」
「話ってなあに? スィヤのこと?」
 シズナは単刀直入に言った。
「はなし、ない。いっしょにあそぶ」
 モニカは言う。
「話があるって言ったじゃないの」
「あとで」
 モニカは言った。後方からバーテンダーがやってきて、コロナビールを三つ持ってきた。
「きょう、あたしシズナとあそび、する。あなた、スィヤてつだう、やさしいひと」
 モニカはシズナのグラスにコロナビールを注ぎ自分のそれと乾杯をした。シズナは少し居心地が良くなった。まだ気は許せなかったものの、モニカの笑顔を見ていると、信用しても良い気持ちになってくる。ケリーは隣の若い男と顔を近づけて声を低めて話をしている。ケリーがモニカに小声でスペイン語で何か話すと、モニカは言った。
「ダンスすき?」
「ええ」
「コロンビアりょうり、あたしおごる」
 シズナは戸惑ったが、モニカはシズナの手を取って、いこう、と言う。モニカがケリーに耳打ちすると、ケリーは男にウィンクして何か言った。いつの間にかケリーと親しくなった彼が三人分のコロナビールの料金を払った。四人でバーを出ていった。日本人のサラリーマンの彼もケリーの後を従うように付いてくる。ケリーが、コロンビアりょうりのディスコ、いい? と聞くと、男は何でも良いらしく、ナイス、ナイス、レッツゴウ、と舐めるような視線をケリーの身体に走らせた。
 人々のざわめきや車の騒音や音楽などで賑やかな通りを歩いた。パチンコ店、ゲームセンター、飲食店、バー、クラブ、カジノ、性風俗の店などが並び、電気で発光する無数の看板が路上やビルの壁面に連なっている。
 ピンク色の長細い電灯に縁取られた店の入り口には、裸の女の写真が何枚も貼ってあり、呼び込みの男が性感マッサージと書いてある看板を手に持って通行人を誘っている。店やビルを飾る照明や街灯で街は明るく、幾種類もの音楽や人々の声や車の騒音が入り乱れ賑やかだ。スーツを着て黒い鞄を持った会社員たちやバービー人形の衣装を着けたホステスたちが路上で群れて高笑している。
 人混みの中を四人は歩いていった。脇道に入ると薄暗いホテル街があり、雑居ビルの地下への階段をモニカが指差した。
「ここラテンディスコ、コロンビアりょうりある」
 確かに、軽快なリズムのラテン音楽が聞こえてくる。階段の入り口には、ラティーノと書かれた小さな看板があり、色とりどりの電球が散りばめられ点滅していた。モニカとケリーはコンクリート階段を降りていき、男も後に従った。シズナも、クリスマスツリーに使われるような安価な豆電球が這わせてある壁や天井を見回しながら降りていった。
 木製の扉を開けると、サルサ音楽が大音量で聞こえた。入り口近くのバーカウンターにたむろしている外国人たちや、奥で酒をシェイクしている目つきの悪い日本人のバーテンダーやスタッフたちが、一斉にこちらを見た。ケリーは、岩のようにでこぼこした赤黒い肌をした太った中年男と、甲高い声を上げて声を掛け合った。男の顔には無数の小さな傷があり、小指を詰めていた。彼は連れの男とシズナをいぶかしげに見ながら、グラスに氷を入れ始める。連れのサラリーマンがシズナに話しかけた。
「彼女たちとどういう関係ですか?」
「男友達の彼女よ。こんな風に話すのは初めてよ。あなたは?」
「さっき知り合ったんですよ」
「ふうん」
「こっち」
 モニカが手招き、フロアの隅にあるテーブルに行こうと促した。店内は空いていて、テーブルは半分しか埋まっていなかった。フロアでも数人ぐらいしか踊っていない。そのほとんどはコロンビア人やイラン人などの外国人だった。コロンビア人のほとんどの女たちは、申し合わせたかのように、腹を出した短いタンクトップ、肌にぴったりと張り付いたジーンズ、厚底のサンダルという格好をして、前後に尻を激しく振りながら胴をくねらせて踊っている。
 幾種類もの打楽器とピアノが素早いリズムを刻む中、彼女たちは肉厚の尻を空気に打ち付けるように振り、うっとりとした顔をする。まるでセックスのような動きと仕草で踊る。先ほどコロナをおごってくれた連れの男は、彼女たちの揺れる豊満な乳房や分厚く盛り上がった尻に見とれていた。
「Hi、ケンジ」
 テーブルを陣取ったケリーが、サルサのリズムに合わせ胸を突き出して乳房を揺すった。ケンジはにやけてサルサとは似ても似つかないステップで、ケリーの隣に座った。テーブルを挟んでモニカとシズナが座った。すぐに日本人のフロア係がやってきて注文を取った。ケリーは慣れた口調でテキーラ、コロナ、コロンビアーナ、ピカダ、パタコンなどと、酒やコロンビア料理を次々と注文した。フロア係の男はすぐに酒を持ってきた。
 ケンジは、どの辺に住んでいるのか、電話番号を教えてくれと、ケリーに拙い英語で尋ねている。ケリーはモニカと顔を見合わせながら、あとで、とウィンクをして、彼に酒を勧めた。ケンジがテキーラをロックで飲み干すと、すぐにケリーが注いだ。ケンジは一人で何杯も飲んだ。モニカはグラスに氷を入れテキーラを注いでシズナの前に置いて言った。
「あたしぜんぶおごる。のんで」
 シズナは、モニカがなぜ自分をもてなすのかわからなかったので、落ち着いて飲む気にはなれなかった。モニカは言う。
「おさけきらい?」
「別に」
 後方から、コロンビア料理が運ばれてきた。フライドポテト、アボガド、トマト、カッテージチーズ、ジャガイモ、ソーセージ、肉などが炒めてある料理が大皿に盛ってある。
「おいしいよ、たべて」
 モニカはフォークにソーセージを刺して、シズナの口に持ってくる。シズナは口で受け止めるのが嫌だったのでフォークを手で受け取った。モニカはシズナの様子をじっと窺っている。シズナはソーセージを口に入れた。モニカは微笑んだ。ケリーもケンジと話をしながら、シズナが食べるのを見ていた。ケリーは彼との会話を中断して尋ねた。
「おいしい?」
「う、うん」
 ただのソーセージだったが、彼女たちの気遣いを感じて少しうなずいた。モニカは、もっとたべて、と次々とアボガドやチキンなどをフォークに刺してはシズナに持たせようとする。モニカはフロア係の男を呼んでエンパナーダスとかアロスサルタドなどとスペイン語で追加注文する。モニカはシズナに言った
「コロンビアりょうり、おいしい、いっぱいたべて」
 ケリーは目の周りが真っ赤になったケンジのグラスにテキーラを注いだ。
「あんたもいっぱいたべて」
 ケンジは細かくうなずいてバナナのフライやジャガイモを頬張った。
「ケンジ、おねがい」
ケリーは言い始めた。
「あたしのおねえさん、コロンビアいる。おねえさん、ニホンにきたい。おねえさんとけっこんして」
 ケンジはきょとんとした。彼は拙い英語で話していたが、日本語で話し始めた。
「おねえさんがどんな人か知らないのに、結婚できないよ」
「ひゃくまんえん、だす」
 とケリーは言う。
「あたし、ひゃくまんえんだす、あなた、かみおくる」
 ケンジは偽装結婚のことだと悟って、シズナをちらりと見た。シズナは視線を落とした。ケンジは話題を変えて言った。
「踊ろうよ。遊びに来たんだぜ」
 ケリーは肩を落として、モニカを見た。彼女たちは真剣な顔をしてスペイン語で何やら話し合っていた。ケリーはため息をついた後、こちらに笑顔を向けて上半身を左右に動かし谷間の見える大きな乳房を揺らして言った。
「おどろう、ケンジ」
 ケンジは口笛をふいた。彼らは中央のダンスフロアに行って踊り始めた。ケリーは腰をぐるぐる回しながら片手を上げてステップを踏む。リズミカルなコンガやボンゴの音に、ティンバレスのリムショットが入る。ケンジはケリーの腰を眺めながら小刻みにスキップするような踊りをした。ケリーはグルーブを効かせて体幹を動かし、両手でリズムをとり尻を打ち付けるように前後に弾ませる。
 ケンジはにやにやしながら、プリンのように揺れ動く乳房や尻を眺めた。ケリーはぴっちりと身体に張り付いたタンクトップとジーンズを着ているので裸を簡単に想像させる。彼女は裸のウエストをくねらせ尻を激しく振り、唇を半開きしてエクスタシーを感じているかのような表情をした。彼も腰を動かしながらケリーの手を取る。
 ケリーが一回転すると、ケンジは彼女を支えるかのように両手で裸のウエストを抱えた。二人は両手をつないで踊りケリーは何度も回転する。その度にケンジは、彼女のウエストや乳房をしきりに触った。
 シズナはモニカの薦めるテキーラには口をつけないで、コロンビアーナという清涼飲料水を飲んだ。サルサのリズムが鳴っている中、モニカはシズナを見つめて尋ねた。
「スィヤすき?」
 シズナはコロンビアーナをうまく飲み込めないで目を瞬いた。
「スィヤと、こいびとなりたい?」
 モニカはシズナの目を覗く。
「どうして?」
 シズナは問い返した。
「あたし、スィヤとけっこんする」
 モニカがこちらをまっすぐに見てはっきりとした口調で言ったので、シズナは狼狽えた。シズナ、とモニカが呼びかける。
「だから、スィヤとこいびとなる、だめ」
 彼女は頭を振ってシズナを睨んだ。青い大きな瞳がシズナを食い入るように見つめている。フロアで、ケンジと踊っているケリーもこちらを見ている。
「あなた、しごとてつだう、それだけ、いいね」
 モニカが念を押した。はい、わかりました、と彼女たちに従うのがシズナには癪だった。
「そんなこと、わからないわ」
 シズナは言った。モニカの頬がすぐに引きつった。
「あたし、スィヤのこいびと。だから、ニホンいる。もしスィヤ、あたしいらない、あたしコロンビアかえる」
 シズナは黙った。
「あたし、スィヤのため、ニホンいる」
 モニカはテキーラの入っているグラスにコロンビアーナを注いで飲んだ。腑に落ちないシズナは言った。
「スィヤはあんたと結婚したいって?」
 モニカはグラスから口を離して言った。
「もちろん。スィヤ、あたしをすき」
 シズナは横目でモニカを見て言った。
「スィヤはずっと日本で仕事をしたいのよ」
「しってる」
「あんた、日本にずっといるつもり?」
「たぶん……わかんない」
 モニカはコロンビアーナの瓶口に挿してあるレモンを取ってグラスに絞った。いくつもの太鼓やパーカッションの音が賑やかに鳴る。トランペットやトロンボーンの音が伸びやかに音域を行き来する。
 ケリーとケンジがテーブルに戻ってきた。ケンジは上気した顔でソファにふんぞり、ワイシャツの胸の辺りのボタンを外し両端を持ってぱたぱたと靡かせ風を入れた。テーブルに置いてあった、グラスに入っている氷の溶けたテキーラを一気に飲み干してケリーに聞く。
「どこに住んでるの?」
「オオクボ」
「オオクボのどこ?」
 ケリーは鼻の両脇に微笑の皺を寄せて、ケンジにウィンクをした。テーブルの端に置いてある請求書を手に取ってケンジに見せた。ケリーは先ほどのフロア係の男に目で合図をした。彼はテーブルにやってきて、ケンジに三万円だと言った。目の周りを赤くして上機嫌に酔っ払っていたケンジだったが、一瞬生真面目な目つきになった。シズナは自分の飲み代をケンジに支払ってもらうのも変だと思ったので、私のはいくら? と尋ねてバッグを持った。モニカはシズナを差し止めて言った。
「シズナ、あたしたち、おごる」
 ケリーも真面目な顔でシズナを見てうなずく。ケリーはケンジに向かって請求書を手渡し、くびれたウエストをよじって笑いかけた。ケンジはにやりとして、財布の中から紙幣を取り出してフロア係の男につかませた。モニカはシズナに念を押した。
「スィヤのこいびと、あたし。OK?」
「わかったわよ。私はスィヤの仕事を手伝ってるだけよ」
「そう。あなた、やさしい」
 モニカはシズナに笑いかけた。
「いっしょ、おどろう」
 モニカは立ち上がってシズナの手を引っ張った。モニカは厚底のサンダルの重みで不自然な歩き方をしながらフロアに入った。彼女は太ってはいたが、慣れた足取りでステップを踏み、腰を左右に動かしながら両手を滑らかに回す。シズナも両足を交互に踏みながら腰を動かした。後からケリーが呼ぶ。
「シズナ、もっと、むね、はって」
 と胸を突きだし上半身を左右に揺する。
「こうなの?」
 シズナも胸を張って両手と肩を柔らかく動かした。コンガ、ティンバレス、ボンガの複雑に重なった打楽器の音、鍵盤を素早く行き来するピアノの高音、パーカッションの小気味よい音、陽気な男女のスペイン語のコーラスが聞こえる。
 ♪サルサに国境なんてない。踊って、楽しんで。一緒に踊ると気分が晴れる。私たちは愛し合っている。代償のない愛。サルサのリズムが響くと心が燃える♪
 シズナは踊り疲れて、ソファに戻った。ケリーはケンジと下手な日本語と英語が入り交じった冗談を言い合っていたが、シズナを見るとこちらに顔を向けて、ダンスじょうず、と大袈裟に目を大きくした。モニカもシズナの隣に座った。シズナは黙ってコロンビアーナを飲んた。モニカは言う。
「シズナ、もっとあかるいかおして」
「コロンビア人、あかるい、すき。ポジティヴすき。もっとむね、はって」
 ケリーは背筋を伸ばし大きくて柔らかそうな乳房を前に押し出す。シズナは黙って水を飲んだ。もっと陽気になりたかったしダンスも好きだったが、明け方まで彼らと飲んだり踊ったりするつもりはなかったので言った。
「そろそろ帰るわ、ごちそうさま。スィヤはあなたのもの」
 モニカは微笑んだ。シズナはバッグを手に持った。
「いっしょ、かえる」
 モニカは言う。ケンジと話をしている最中のケリーも、モニカを見て、あたしも、と言った。
「ゆっくりしていけばいいじゃない」
 シズナは言うと、モニカはシズナに耳打ちをした。
「おそくなったらスィヤおこる。ケリーもイラン人のこいびといる」
「そうなの。でもケリーは楽しそう」
「あかるい、たのしいがいいよ。」
 ケリーはサルサの音楽に合わせ、指を二、三本立てた両手をスイングさせ、両肩を交互に上げる。
「でも、ともだち、だけ」
 とケリーは、ソファにぐったりと横たわっているケンジをちらりと見て、シズナに顔を寄せて耳打ちをする。酔っ払っているケンジはソファの背にもたれて目を閉じたままリズムに合わせて唸っていた。
「私は帰るから、ゆっくり楽しんで」
 シズナはキリムの手提げバッグを持って、席を立った。モニカが立ち上がるとケリーも立った。ケンジは顔の筋肉を緩ませて寝そべっていたが、ケリーたちが去っていく気配を感じ取って目を覚ました。シズナがフロアから出口の階段に向かって歩いていくと、モニカとケリーが後を追ってきた。ケンジも鞄を持って身を起こし、よろよろとケリーの後を付いていく。
 店の外に出て、繁華街の通りに入ると相変わらず賑やかだった。発光する色とりどりの看板や電球が無数にあり、チラシを配る呼び込みの男や、女の裸のポスターを貼った看板を首に下げた男が立っていた。道行く女を物色する男たちやカップルが行き来している。
 舞台衣装を着たゲイたちが店から出て、客のサラリーマン風の男やOLたちをあしらっていた。ゲームセンターの前でシズナは立ち止まり、モニカとケリーを振り返った。彼女たちはシズナに寄ってきた。後からケンジが怠そうに歩いてくる。シズナは言った。
「私は自転車で帰るわ。モニカたちはどうする?」
「スィヤむかえ、くる。スィヤ、あたしをすき」
「あ、そう」
 気分を害したシズナは、早く帰ろうと自転車の鍵を解いた。モニカは携帯を取り出してプッシュする。しばらく呼び出し音が鳴った後にスィヤが出て、モニカはスペイン語で話し始めた。カブキチョウ、と彼女は辺りのビルを見回しながら場所を説明している。ケリーはケンジに手を振った。
「バイバイ」
「なんだと」
 怒ったケンジは、ケリーのウエストに手を回して抱き寄せた。ケリーは背中を弓のように反らして、もうおわり、と言う。彼は舌打ちをして、口をタコの吸盤のようにすぼめてケリーの顔を追った。
 彼女は顔をしかめて横に向けたが、ケンジの唇は彼女の頬に命中し、吸い込む音が鳴った。ケリーが頬を手で拭っていると、スィヤと話しているモニカの口調が急に刺々しくなり、声を張り上げて争い始めた。モニカは携帯を離し、険しい顔でケリーにスペイン語で耳打ちした。ケリーは、ケンジの唇が頬に押しつけられるままにして、モニカと小声で囁き合った。モニカは通話を切ると、シズナに言った。
「シズナ、イエどこ?」
「どうして?」
「スィヤおこってる」
「知らないわよ」
「かえるオカネない」
 シズナは黙った。モニカは俯き加減でシズナに寄ってくる。ケリーも、加勢の良くなったケンジの吸着攻撃を受けながら、シズナを見ている。シズナはしぶしぶ、自分が飲食した酒と料理のおよその小銭をモニカに手渡した。
「ありがとう」
 モニカは受け取った。
「こんどウチきて、コロンビアピラフつくる、いっぱいたべて、スィヤ、ピラフすき」
「ああそう」
 モニカとスィヤが仲良くピラフを食べている姿を想像して不快になった。
「さよなら」
 シズナは自転車に乗った。電話番号は、と聞くケンジの声やスペイン語訛のある英語で番号を発音するケリーの声を後に、シズナは自転車をこいで帰路を急いだ。
 両側にラブホテルが建ち並ぶ暗い通りを走って自転車のスピードを落とした。地面に両足を着けて後を振り返った。バーやクラブやゲームセンターを彩る電気の光と喧噪が入り乱れる中、モニカが紙切れに何かを書いてケンジに手渡しているのが見えた。片腕にケリーを抱いているケンジはにやにやしながら紙切れを胸ポケットに収め、モニカも引き寄せ肉付きの良いピンクの頬にブチュと吸いついた。
 モニカがこちらを振り向いてシズナを認めると、すぐにケンジから身体を離した。彼女はケリーに耳打ちする。ケンジは相変わらずケリーのうなじを舐めようと舌を出して追いかけていたが、ケリーも振り返りシズナを見た。彼女たちはケンジを促すようにして、通りの角の雑居ビルの向こうに隠れてしまった。
シズナは自転車をこいで、ラブホテル街を走った。城を模した白亜の洋館を、下品なピンク色のライトが下方から照らし出していた。LOVEという字形の青い蛍光灯が屋上で光っている。武家屋敷を模した木造家屋の玄関の石碑には、ご休憩、ご宿泊、という値段表が刻み込まれている。地味なスーツに黒い鞄を持った真面目そうなサラリーマンの男とジーンズのミニスカートにTシャツを着た女子高生と思われる若い女が入っていく。生ぬるい風が頬を切った。見上げると、竜宮城のような建物が夜空を塞いでいて、看板の楽園ホテルという文字が紫色の光を放っていた。
 自転車を走らせていると、コールタールのような夜空が見えてきたが、星はなかった。月はどちらの方角に出ているのかわからなかったが、この界隈を抜けるべく懸命に自転車をこいだ。月は出ているのだろうか、もしかしたら消滅してしまったかもしれないと不安になった。シズナは夜空を見ながらペダルを踏んだ。煉瓦作り風のホテルと、エクセレントラブという文字が光る看板を掲げたホテルとの隙間に、やっと月が見えた。
赤い月だった。シズナは目を落とした。極彩色の電光がちかちかする迷路のような路地を早く抜け出したかった。両足に力を込め急いでペダルを回転させた。

 スィヤは人手が足りない分、よく働いた。彼は深夜まで<ペルシャ絨毯・シラーズ>の事務室でコウカブやユキコと打ち合わせをしたり日本語で書類を書いたりしていた。シズナは先に仕事を終えて一人で電車で帰ることがしばしばだった。夜、<グリスターン>を閉じて店内を掃除した後、シズナは言った。
「まだ、帰らないの?」
「うん。これからコウカブに税金のこと、教えてもらうから」
「いろいろ勉強しているのね」
「シズナはもう帰って良いよ。遅いんだから」
「うん」
 シズナはスィヤに近寄って頬にキスした。彼女がスィアの髪を撫でると彼は言った。
「ガラスの向こうから人が見てるよ」
 絨毯が飾ってある窓ガラスの間から、夜の暗い道と向かいのビルが見えた。
「じゃ、あっちに行こう」
 シズナはレジスターの奥の部屋を指差した。
「ダメだよ」
「どうして?」
「モニカを裏切ったら可哀想」
 彼は両手を垂らしたままじっとしている。
「そう」
 シズナは俯いた。
「じゃね」
 彼女は身体を離してバッグを持った。緑の扉を押しながら、彼を振り返った。
「モニカを好き?」
「たぶん」
「そう」
彼女は力なく緑の扉を開けて出ていった。生暖かい夜風が頬を撫でる。また明日も、元気に働くスィヤと会える、そう思うと胸が暖かくなってくる感じがした。夕食は何にしようか、シズナは夜道を急ぎながら考えた。冷蔵庫に入っている食材で、肉野菜炒めを作ろう。コウスケが部屋に来なくなってから、夕食はいつも炒め物だった。このところ、すぐにできる料理ばかりが続いていた。

 この日も仕事が終わってシズナは早々と電車で帰宅した。休日の前日だったが、スィヤは深夜まで<ペルシャ絨毯・シラーズ>の事務室でユキコやコウカブと打ち合わせをする予定だったので、シズナは一人で帰った。いつものように食事や入浴を済まし、テレビを観る。コウスケが部屋に来ることはなくなり、最近は休日も一人で過ごすことが多かった。
 十二時頃、布団を敷いていると電話の呼び出し音が鳴った。受話器を取ると、朝霞警察署からだった。シズナの自動車が川越街道で事故を起こしたと言う。彼女は驚いて声を上げた。
「お宅の車が横からぶつかってきて相手方の車が壊れたんですよ、今のところ怪我人は出てないんだが、相手方が話し合いをしようと車から出たとたんに、ドライバーがお宅の車に乗ったまま逃げたらしいんですよ。どうやら外国人でね、色黒で背が高くて中東の人間らしいんですよ。それで事情を聞きたいんだけどね……」
 質問責めにあったが、シズナは丁重に答えた。スィヤというイラン人に車を貸したと言うと、明日の昼までにスィヤと一緒に朝霞警察署に来てくれと言う。ドライバーがスィヤだったのかどうかまだわからないが、車を貸した自分に責任がある。相手が悪質な人間なら、不当な額の医療費を脅し取ったり、車の修繕費を法外に見積もって請求してくる可能性もある。それでもなくても車の修繕費は高くつく。ドライバーが確定しないと、自動車保険も降りないだろう。シズナの車の運転に落ち度があって事故が起きたのが事実ならば、相手に修理代を払わねばならない。後日、修理代の請求書がシズナの住所に届くという。警察に聞かれるまま、スィヤの店の住所や電話番号も言った。警察は、明日の昼までにスィヤと警察署に来るようにとシズナに念を押した。
 受話器を置くと、背中が寒くなり心臓が鳴ってくるのを感じた。スィヤの携帯に電話をすると、電源が切れているか、電波の届かないところにいます、という人工の女の声がした。店に電話をしてみたが真夜中なので誰もいない。明日は定休日だから、明後日まで店には誰もいない。
 もしドライバーがスィヤだとしたら、どうして逃げたのだろう、どうして携帯がつながらないのだろうか、という考えが起きてきた。それとも、スィヤは誰か別のイラン人に車を貸したのだろうか、あるいは何か事件に巻き込まれたのかもしれない。このままスィヤが行方をくらましたら、と考えると身震いがした。どこかへ逃げてモニカといちゃついていることを想像すると腹が立ってくる。だが、そんなことをする人ではないと思う。
 モジダバの電話番号は知らなかったが、コウカブの名刺を持っていたので、すぐに自宅に電話をした。もう就寝している時刻だと思ったが、緊急の出来事なのでやむを得ない。意外にもコウカブは起きていて、はっきりとした口調で電話口に出た。シズナが事情を話すと、自分もスィヤに連絡を取ってみると彼は言った。しばらく待っていたが、コウカブからの電話はなかった。彼女は気になって、自分からコウカブに電話をした。コウカブは言う。
「何回もスィヤに電話をしてるけど、電波が切れてるよ、大変なことになったね。人に聞いて探しているところだけど、どこに行ったのかわからないよ」
 シズナは落ち着かずに、布団の上を踏んで歩き回った。スィヤの携帯にまた電話をしたが、電源は切れていた。仕方なしに、電気を消して布団の中に入った。目を閉じていても、眠れない。瞼を開けると、暗闇がのしかかってきた。目が慣れてくると、木目の天井がうっすらと見えた。大きな黒い染みが、巨大な甲殻類の生き物に見えて怖くなる。毛布を頭まで被り、硬く目を閉じて眠りが訪れるのを待った。
 いつの間にか眠っていたが、ふと目が覚めて置き時計を見るとまだ三時だった。カーテンの隙間から、闇夜の中にそびえ立つ黒い高層ビルが見えた。建物に付着した赤い電灯が点滅している。ビルは洞窟のように真っ暗で、マンボウがじっとしていた。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。この街のどこかにスィヤがいる、と思った。シズナは起き上がって受話器を取り、彼の携帯の番号をプッシュした。電波がつながった。呼び出し音が鳴っているのに、彼は出ない。二十回ぐらい鳴らして電話を切った。寝ているのだろうか、そうだとしてもあれだけ鳴らせば起きるはずだ。電波が急に通じたのを考えると彼に何かの変化があったはずで、寝入ったとしてもそれほど時間は経っていないだろう。それとも、わざと電話に出ないのだろうか。
 シズナはまた寝床に入った。一人で朝霞警察署に行って事情聴取を受けるのは嫌だった。事故の相手はどんな人だろうか。今後支払わねばならない金額のことを考えると、頭が重くなる。ドライバーが逃げたというのだから、事故の真相を掴めないだけでなく、車の管理責任もシズナに問われ非常に不利な状況になってしまう。
 深いため息をついて目を瞬いた。毛布を頭まで被って、寝入ろうとした。意識は冴えていたが、目を閉じてじっとしていた。鼻の頭やこめかみから汗が出てきた。蒸し暑いのに寒気を感じて毛布にくるまり、海老のように丸くなっていた。

 翌朝、けたたましい電話の呼び出し音で目が覚めた。朝霞警察署ですが、という男の低く太い声がまどろみの被膜を突き破った。
「ドライバーが見つからないんですけどね、車はありますか?」
「駐車場に行ってみないとわかりません」
「行って見てきてくださいよ。また事故が起きたら大変なことになりますよ」
「わかりました」
 シズナは寝ぼけた顔でジーンズとシャツを着て部屋を出た。木造家屋や倉庫の並ぶ路地を急いで歩き駐車場に行った。ブロック塀と雑草や木に囲まれたひっそりとした空き地の真ん中に、シズナの軽自動車が駐車してあった。座席には誰もいない。近寄って見ると、車体前部のバンパーの角の部分が潰れ、方向指示灯が割れて、その周囲に掠ったと思われる小さな傷が沢山あった。事故は大きなものではなかった。ドライバーはここまで運転してきたのだから身体は大丈夫なのだろう。
 ドライバーはスィヤなのだろうか、駐車場に戻ってきて車を停めているのだから、悪意はないはずだ。シズナは携帯を取り出して、スィヤに電話をした。電波がつながったので、何度も呼び出し音を鳴らした。すると、伝言メッセージの人工の女の声が聞こえた。シズナは捲し立てた。
「スィヤ、どうして電話に出ないの。事故のために、今日のお昼までに警察に行かなきゃいけないのよ、何考えてるの? 電話に出て」
 そこまで言うと、伝言メッセージの時間制限がきた。電話を切ると、すぐに着信音が鳴った。電話に出ると、朝霞警察署だった。
「車はありますか?」
「はい」
「スィヤと一緒にあなたが車を運転して来てください。スィヤの免許証とパスポートを忘れないように」
「あ、はい」
 通話を終えると、またスィヤに電話をした。また伝言メッセージにつながった。同じことを繰り返し言って、時間制限がくると切った。また着信音が鳴る。電話に出ると、また朝霞警察署だった。
「スィヤと連絡とれましたか?」
「いいえ」
「もしスィヤが来れないなら、事故はあなたの責任ですよ」
「なんですって」
「仕方ないでしょう。あなたの車の管理が悪いんだから」
「スィヤを連れてきます」
「そうしてください」
 シズナは再びスィヤに電話をした。何回か呼び出し音が鳴った後、電話口に誰かが出た。相手が黙っているので、声を張り上げてスィヤに怒りをぶつけると、モニカの大きな声が耳に飛び込んできた。
「あんた、バカ、かわいそう。あたしスィヤといっしょ。いっしょコロンビアかえる。あんた、バカ」
「なんだって。スィヤに替わってよ。事故をおこして、大変なんだから」
 突然、ガチャと電話が切れた。シズナはすぐに電話をかけ直した。今度は、伝言メッセージになっていた。
「スィヤ、どうして電話に出ないの? アサカ警察に、これからスィヤと一緒に車で来いって言われたのよ。ドライバーがいなかったら、私のせいになってとても困るのよ」
 ここまで言うと、伝言メッセージの時間制限で録音が切れた。シズナは舌打ちをして、自分の車の周囲を歩き回った。相手に支払う修理代を考えると不安になり、自動車の保険会社に電話をした。やはり、ドライバーが確定しないと保険金が下りない、と言う。相手の車の修理代を自分が払うのかと思うと、怒りが募ってきた。携帯の着信音が鳴る。何よ、と電話を受けると、また朝霞警察署からだった。
「スィヤは見つかりましたか?」
「スィヤに電話をしても電波がつながらないんですよ」
「あなた一人でも早く来てくださいよ」
 舌打ちをして通話を切り、再びスィヤの携帯にかけると、また伝言メッセージだった。
「何考えてんの! あんたのせいで私が警察に行かなきゃいけないじゃないの! 相手の車の修理代も私が払わなきゃいけないし、私の車も壊れたし、どうしてくれるのよ!」
 そう吹き込むと、シズナは檻の中の虎のように、車の周囲を行ったり来たりした。また携帯が鳴った。通話ボタンを押して耳に当てると、スィヤの小さな声がした。
「ごめんなさいね」
「ごめんなさいね、じゃないよ。どうして電話に出ないの?」
「さっき起きたんだ。俺じゃないよ」
「じゃ誰なの? あんた人に貸したの? 仕事のために車を貸してたのよ。大変なことになったじゃない!」
「すみません。ゆうべ友達の家に行って眠っていたら、友達が俺のバッグから車のキーを取り出して夜中にドライブに行ったみたいで、そいつが事故を起こしたんだ」
「その友達は何て言うの?」
「ハジ・レザイー」
「そいつを連れてきて。これからスィヤと来いって、警察が言ってるよ」
「さっきハジに電話したけど、電源が切れてるからつながらないんだよ。他の友達にも電話してるけど、ハジはどこかに逃げたみたい」
「なんですって! 困るじゃないの。どうしてくれるのよ」
「これから、僕がそっちに行くから」
「あんた、モニカと一緒にいるんでしょう?」
「うん」
 電話の向こうから、モニカがスペイン語で何か喋っているのがくぐもって聞こえる。モニカと一緒にいることが不愉快だったが、事故とは関係なさそうだった。
「早く来て」
「わかったよ」
 ひとまず安心して、通話を切った。駐車場の入り口がよく見渡せる街宣車の近くの木陰の丸太に座った。太陽が昇り気温が上がって日差しも強さを増してきたが、高い塀や倉庫や雑木に囲まれて日陰になっているので、暑さを感じない。風も通らず、空気は停滞している。
 古アパートの扉のない薄暗い玄関から、ネグリジェにガウンを羽織っただけの、ピンクのカーラーを髪に沢山つけた中年女性があくびをしながら出てきた。この駐車場の管理人だった。手には財布のようなものを持っているから、コンビニエンスストアにでも行くのだろう。シズナはお辞儀をしたが、おばさんは少し顎を引いただけで出ていった。
 本当にスィヤは来るのだろうか。シズナはため息をついてまたスィヤに電話をした。相手が無言なのでシズナは言った。
「もしもし、スィヤ」
「バーカ、あたしモニカ、スィヤといっしょ、これからともだちイエいく。あんたじゃま」
 シズナは乱暴に通話のOFFボタンを押した。スィヤの携帯にモニカが出るということは、まだ彼は家を出ていないのだろうか。まだモニカと一緒にいるのだろうか。
 立ち上がって丸太を蹴った。鈍い小さな音と共に丸太の底が少し地面から離れたが、また元に戻った。辺りはまたしんとした。古アパートも、駐車場の管理人以外の住民がいないような寂れた様相をしている。柱が傾いている玄関の暗い空間にコンクリートの流し台が見える。水気がなく、蛇口の上方に取り付けてある鏡も割れて塵埃がこびりついている。
 遠くから、バイクの音が聞こえてきたような気がした。古アパートを通り過ぎ駐車場を出て、路地に出た。バイクもバイクの音もない。人通りもなかった。ため息をついて、駐車場に戻った。
 太陽が昇り明るい日差しが古アパートをじりじりと射していた。樹木の方にも陽光が届いてくるが、木陰になっているので涼しい。ピンクのカーラーおばさんがビニール袋を提げて戻ってきた。訝しげにシズナを見ながら古アパートの暗い空間の奥へ入っていく。
 またバイクの音がどこかでしたような気がした。駐車場を走って路地に出た。向かいの木造家屋の玄関の戸が軋みながら開き、短パン姿の男がゴミ袋を持って出てきた。男は路地を歩いて古アパートの前にゴミ袋を捨てると、すぐに木造家屋に戻っていった。ふいに、バイクの走る音がして、路地の先を横切る表通りからスィヤの乗ったバイクが姿を現した。彼はドラム缶のそばにバイクを停め、ヘルメットを脱いで言った。
「ごめんね」
 シズナのスィヤへの怒りが少し鎮まった。だが、見知らぬイラン人が事故を起こしたために自分が責任を取る羽目になることを考えると、無性に腹が立つ。
「事故を起こしたイラン人はどうしたの?」
と詰問した。
「捜してるけど、電話がつながらないんだ。ハジのアパート行ったら、ハジがいないんだ。ハジの荷物もなくなってるんだ。ハジと一緒に住んでいる友達が言った。ハジはどっかに逃げたって」
「ハジの電話番号とアパート教えて」
 スィヤは素直に教えた。シズナはすぐにハジに電話をした。電源が切れているか電波の届かないところにいます、という人工の女声のメッセージが流れている。
「じゃ、一緒にアサカ警察署に行こう。警察に事情を話して」
「そうだね。ねえ、シズナ、お願いだけど」
「なあに」
「僕は今、ビザを更新してるところなんだ。警察に行っていろいろ書類書くのは嫌なんだよ。それに、これから絨毯の大事な契約があるんだ。相手は知り合いのサンキュウ商事という絨毯業者なんだ。たくさん買ってくれるんだよ。うまくいったらこれからずっと安心だよ。お店も儲かるよ。シズナが一人で行ってくれないかな」
「なんですって」
「お願いします。向こうの車の修理代、僕が全部払うから」
 スィヤはお札の束が入った封筒を取り出した。
「ここに三十万円あります。もし足りなかったら言ってください」
 彼はシズナに差し出した。彼女はゆっくりと受け取った。
「私の車の修理代は誰が払うのよ」
「後で僕が直すよ」
「ドライバーが来れば保険が下りるのに」
「僕はドライバーじゃないんだよ。僕が行っても行かなくても、保険は下りないんだ」
 シズナは黙った。
「契約がうまくいってお店が儲かったら新車を買ってあげるよ。とりあえず三十万円払うから、今日はシズナが警察に行って話して。警察がどうしても来いと言ったら、僕も後で行くから」
 スィヤは肩と両手をだらりと落とし、眉を寄せてシズナを見つめた。彼女も肩を落として彼を見た。札の入った封筒を掴みながらも、下を向いて雑草を踏んで物思いに沈んだ。
 遠くから、スィヤ、と呼ぶ女の声がする。シズナとスィヤが振り返ると、駐車場にモニカが入ってきた。モニカは口を歪ませて、二人を睨みつけている。シズナに近づいて太い声で言った。
「あんた、うるさいよ。これ、あんたのくるま、スィヤかんけいない」
 スィヤはモニカに向かってスペイン語で事情を話す。モニカはヒステリックになって言い立てた。二人は争い始めたが、スィヤが一喝すると急にモニカは大人しくなった。シズナの携帯が鳴った。朝霞警察署からだった。
「早く来てくださいよ、何時頃になるんですか」
 シズナは答えながら、スィヤがここに居ることを言おうかと迷ったが、彼が激しく手を左右に振るので黙った。通話を切った後、シズナはモニカをちらりと見て言った。
「スィヤ、やっぱり一緒に来てくれる?」
「……そうか。わかったよ。これから絨毯の契約の仕事、断るよ。僕のお店が儲かるチャンスだったのに」
 彼はうなだれた。シズナも契約が破綻するのは本意ではなかった。だがモニカのふてぶてしい顔を見ると、腹が立つ。取りあえずスィヤと一緒に車に乗ってここを離れ、二人きりになりたかった。
「スィヤ、一緒に行きましょうよ」
「わかったよ」
 彼は弱々しく言った。二人は車に向かおうとした。するとモニカが叫んだ。
「あたしもいく!」
 彼女は駆け寄ってきた。スィヤはモニカをスペイン語でここに留まっているように説得したが、無駄だった。モニカはスィヤの横に付いて一緒に行こうとする。シズナは舌打ちをした。
「もう、いいよ。私一人で行く。あんたたちにもう関わってらんない」
 シズナは踵を返し、車に向かった。
「待って」
 後からスィヤの声がした。シズナが少し振り返ると、彼が近づいて言った。
「僕も行くよ。契約はあきらめるよ」
「もういいよ。私が一人で行ってくる。スィヤには夢があるんだし」
「でも、僕が悪かったんだから」
「あたしもいく!」
 モニカが甲高い声で言いながら大股で近づいてきた。スィヤがスペイン語でモニカに話しかけると、彼女は激しい剣幕で言い返した。彼らは言い合いになっが、スィヤが大声で叱った。
 モニカは一瞬黙ると、シズナを睨みつけ、急に躍りかかってきた。モニカは彼女の髪の毛を掴み引っ張った。シズナは悲鳴を上げた。モニカはシズナの長い髪を持って引きずり回す。スィヤは慌てて、モニカを引き離した。
「モニカ、やめろ!」
 スィヤに両手を掴まれたモニカは、潤んだ目で彼を見つめた。
「何すんのよ、痛いじゃないの」
 シズナは頭を抱えた。
「謝れよ、モニカ、シズナに謝れよ」
 モニカは今にも泣き出しそうな顔をしてスィヤを見つめた。
「謝れよ!」
 スィヤが大きな声で言うと、モニカは顔を横に振った。
「バカじゃないのこの女。警察に言うよ、どうせオーバーステイの売春女でしょう」
 シズナは髪を庇いながら言った。モニカはふてくされて横を向いている。スィヤは言う。
「ごめんな、シズナ、ごめんな。こいつ何にも知らないから」
 この時またシズナの携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、朝霞警察署だった。シズナはこの一件とスィヤの事情を話そうとして、喉まで言葉が出かかった。しかしスィヤの悲しげな瞳にぶつかってためらった。もしも、自分がスィヤとつき合う延長で結婚があるとしたら、彼の店が儲かって仕事が安定した時だとシズナは瞬間的に思った。スィヤの横で鼻水をすすっているモニカが急に愚かな女に見えて、シズナは落ち着いた声で言った。
「これから行くところです」
 三人の感情的な興奮がおさまって、静かになった。シズナは通話を切って、彼らを振り返った。
「行ってくるよ」
 スィヤは頼りなげに突っ立っている。
「ごめんね、シズナの車、後で修理するから」
 シズナは返事をせずに車に乗り込んだ。スィヤが後方に回って両腕を上げ、オーライ、オーライ、と言う。その横でモニカが恨めしげに車とシズナを見ていた。シズナは車をバックさせて、前部を駐車場の出入り口に向けた。スィヤは運転席に近づいてきた。
「気をつけてね」
「うん」
 シズナを乗せた車は徐行して、大きな石やコンクリートの破片を踏みつけながら古アパートを横切っていった。路地を前にしてウィンカーを出し、ルームミラーで彼らを見た。スィヤは猫背になって両手をだらりと下げこちらを見つめている。筋肉質とはいえ痩せた身体が、いかにも弱々しげに見えた。その背後でモニカが、暗い目をしてこちらを睨んでいた。
 シズナは右折して路地に出た。車の行き来が激しい片側二車線の表通りに突き当たり、ウィンカーを出した。ちらりとルームミラーを見ると、駐車場を出たところの路地に、スィヤが心配げな面持ちでこちらを見て立っていた。シズナの車は車間距離を空けてくれた車の前方に入った。交通の流れの一部になって、朝霞警察署に向かった。

 朝霞警察署の、交通事故課という札がかかっている部屋のドアを開けた。スチールデスクが中央の空間を囲むように壁際に並び、真向かいの窓の前にある重厚な木質の机が厳粛な雰囲気を漂わせてこちらを向いていた。課長が座る机らしいが、誰も座っていなかった。部屋は閑散としていて、数人の私服の警察官たちがスチールデスクで書類を見たり電話をしたりしている。そのうちの一人がシズナを見ると、名前を尋ねた。彼女が名乗ると、彼はすぐに机の前の空間に呼んだ。
「ずっと待っていましたよ。こちらに座ってください」
 刑事と机を挟んで座った。
「スィヤはどうしました?」
「仕事が忙しくて……」
 シズナは俯いた。
「店は休みでしょう?」
「ええ、スィヤは休日でも個人で絨毯の仕事の注文を受けていますから」
「あ、そう。相手の人はすごく怒ってるよ」
「すみません」
「あなたどうして彼をかばうの?」
 シズナは一瞬黙った。
「彼は仕事熱心ですから……」
「そうなの?」
 刑事は訝しげな目でシズナを見た。ノートに会話の内容を書き付けながら、スィヤとの出会い、関係、店の所在地、スィヤの電話番号、どのような経緯で車を貸したか、などを問うてくる。彼女は正直に答えた。
「結局あなたの車の管理責任に問題があったということですね」
 刑事は調書を書きながら、シズナを見た。
「え、ええ」
 シズナは目をしばたたいて言った。
「あぶないなあ、もし人身事故だったら、大変なことになっていますよ。もしドライバーが無免許で飲酒運転でもしていたら、どうします?」
 彼女は黙って俯いた。
「気をつけてくださいよ。後で相手の方からお宅に修理の請求書がいきます」
 シズナは唇を結んで何も言わなかった。
 私服の警察官たちがシズナの車の事故の証拠写真を何枚も撮った後、やっと彼女は車と共に解放された。
 大きな事故ではなかったことと一段落終わったことに胸を撫で下ろし、運転席に戻った。背もたれに頭をもたせてため息をついた。夕方近くになっていたが、昼食を食べていないのに胃が詰まっているような感じがして食欲がなかった。外はまだ明るかったが、雲で覆われ白い平面的な空が遠くまで続いていた。
 シズナはエンジンをかけて、粉塵で汚れた木造家屋の商店や学校のある道路に出た。遠くには住宅や畑が見える。川越街道を都心に向けて走りながら、スィヤは今頃モニカと一緒にいるのだろうか、と考えた。高速道路を使って帰りたかったが、給料が安かったので金を節約したかった。多くの人々が来店してくれるが、買ってくれる人は少なかった。<ペルシャ絨毯・シラーズ>と<グリスターン>を合わせると、売り上げはあるようだったが経営状況や収支の踏み込んだところまでは知らない。スィヤが<グリスターン>の店長とはいえ、コウカブが代表取締役であるし、その他に出資して経営に関わっている日本人がいるらしい。
 スィヤはあの三十万をどのようにして調達したのだろうか。店から借りたのかもしれない。
 シズナは店の内部事情や経営状態についてはよく知らなかった。だが、スィヤやコウカブやモジダバの、イランから絨毯や雑貨を輸入して売りたいという熱意は理解できたし共感していた。日本人が気軽に買える安い絨毯を輸入して、沢山の人に使って貰いたい、というスィヤの考えにも共感する。
 左右のウインドウの向こうに、雑木林や住宅や商店が続く。街灯やガソリンスタンドには照明が点いていた。白濁とした空に向かって林立している高層ビル街が遠くに見え始めた。だが走っても走っても高層ビル街との距離が縮まらない。排気ガスで汚れた背の低いビルやファミリーレストランが目の前を通り過ぎていく。同じ所をいつまでも走り続けているような気がした。

 黒い夜気が街に降り始めた頃、ようやく都心に入った。もうすでに街は色鮮やかなビーズやガラス片を散りばめたような人工照明に溢れている。極彩色に発光する看板や店の照明で明るい繁華街の、片側三車線の大通りを走った。前方には高層ビルがそびえ立っていた。雑多な騒音がフロントガラスの向こうに渦巻いている。助手席のシートに置いてあるバッグの中の携帯が鳴った。きっとスィヤだろう。前方の信号機が赤になり停車したが、携帯を取らなかった。
 信号機が青になった。発進して左折する。着信音は鳴り続けていたが、止んだ。大通りから逸れて駐車場に向かった。地上げをされて、空洞化してしまった安普請の住宅が密集する地域に入り、路地を徐行し、駐車場に戻っていった。
樹木の下の丸太の前に、人影が見えた。シズナの車のライトで周囲が明るくなりスィヤが照らされた。車を停めるとスィヤが近寄ってきた。シズナが運転席のパワーウィンドウを下げると彼は言った。
「どうだった?」
「大丈夫だったよ」
 彼女は素っ気なく言い前照灯に照らされたブロック塀を見た。
「ありがとう。おかげで契約もうまくいったよ」
「本当?」
 シズナは彼を見上げた。
「うん。とりあえず三十枚納品したんだ。お金はもうすぐ銀行に振り込むって。しばらく売れ行きの様子をみて、今度は年間契約してくれるって」
「それは良かったわ。うまくいくといいね」
 スィヤは笑ってうなずいた。彼は助手席のドアの外に回り、ウィンドウガラスを叩いた。シズナがドアロックを解除すると彼は助手席に座った。彼女は前照灯はつけたままエンジンを切った。
「ごめんね。俺がいけなかったから」
「ううん、いいのよ。お仕事はうまくいったんだし」
 スィヤの活動的な様子を見ていると、シズナは自分の犠牲的な苦労が小さなことのように思えた。
「モニカは?」
「知らないよ」
「さっきまで一緒にいたじゃないの」
「あんな女、もういらないよ」
「そうなの?」
 急にスィヤの携帯が鳴った。はい、と彼が日本語で電話に出ると、スペイン語で話し始めた。シズナは黙ってブロック塀を見つめた。彼はスペイン語で言い争っている。
 高い塀が押し迫ってくるようだ。雑草や苔が黒々しく生えていて、どこかにグロテスクな昆虫が隠れていそうだった。塀の向こうには倉庫の壁に巻き付いている波状鉄板とトタン屋根があり、枯れた雑木の影が夜空に突き出ていた。空一面厚い雲がかかっていて、風で早いスピードで流れていた。流れる雲の間におぼろげな月が出ている。彼は荒々しいスペイン語で話していたが、途中で通話を切った。すぐに彼の携帯の着信音が鳴った。だが彼は通話ボタンを押さないで電源を切って言った。
「もう、モニカとは別れたよ」
 シズナはスィヤの顔を見た。月の薄明かりで、顎や頬骨の隆起が褐色の肌に影を落としている。彫りの深い眼窩の奥で、睫の長い大きな瞳がシズナを見つめていた。
スィヤは彼女の肩を引き寄せて、口づけをした。二人はずっと唇を合わせていた。彼らの息が荒くなってきた。スィヤはシズナの身体を持ち上げるようにして助手席に移動させ、自分の身体の上に乗せた。シズナは彼の身体に重心をかけるように重なり口づけをすると、彼は舌を入れてきた。彼女の身体が火照って下半身の輪郭がぼんやりしてきた。彼は起き上がって、車のウィンドウを見回した。
「誰か来ないかな」
「こんな夜中に誰も来ないよ」
 シズナはスィヤを引き寄せるように首に両手を回して、はだけた胸にキスをした。スィヤは運転席のシートを前方に倒して駐車ブレーキを跨ぎ後部座席に行った。スポーツバッグの中からTシャツを取り出して衣紋掛けに掛け、両側のウィンドウを塞いだ。クッションやスポーツバッグをトランクカバーの上に乗せ後方のウィンドウを遮蔽する。
 スィヤは振り向いて、シズナの手を取った。彼女も駐車ブレーキを跨ぐようにして通り抜け、彼の身体にしなだれかかった。二人は抱き合って口づけをした。スィヤは上になって彼女の項から首筋へと唇と舌を這わせていった。彼が彼女のブラジャーを外してTシャツをたくし上げ乳房を触ると、シズナの全身が脈打った。お腹の下の方が熱くなり融けていった。粘膜がぬるぬるしてきて、スィヤに早く入ってきて欲しかった。彼がシズナの下着に手をかけると、彼女は腰を浮かせて脱いだ。スィヤもジーンズと下着を脱いだ。二人は裸同然の姿で抱き合い、互いの肉体を受け入れた。

真っ暗な車内で、二人は衣服を裸の身体にかけて抱き合っていた。真夜中の静けさの中、冷房のモーターと風の音だけがしていた。
「暑いな」
 スィヤは身を起こした。彼はフロントガラスや遮蔽されたウィンドウの隙間から見える外界を見回しながら、パンツやズボンを穿いた。シズナも起き上がって言った。
「どこ行くの?」
「どこも行かないよ。ねえ、ここは暑いし狭いから、シズナの部屋に行こうよ」
彼は左右前後のウィンドウを見回して外を気にしながら言う。
「わかった」
 シズナは下着をつけてジーンズを穿き始めた。二人は車の外に出た。横にはクレーン車がクレーンを高く上げてひっそりと駐まっていた。向かい側の樹木のそばでは黒い街宣車が枝葉の下でうずくまっている。古アパートは真っ暗で、長年放置されている朽ちた空き家に見えた。ブロック塀に沿って生えている苔や雑草が色々な形になる。周囲は様々なものの黒い影に囲まれていた。
 二人は駐車場を歩いて路地に出た。人通りのない夜道を手をつないで歩いて、彼女のマンションに向かう。建設中止になり骨組みだけが長い間放置されている空き地や駄菓子屋を通り過ぎていく。
 モルタル塗りの木造家屋とブロック塀に挟まれた路地を歩き、突き当たりのシズナのマンションの前に来た。マンションの裏には雑木や藪が茂っている。古いけれども、階段や廊下が開放的で、建物に蔦が這っているのがシズナは気に入っていた。廊下には壁はなくコンクリートの手摺りがあるだけで、それぞれの部屋の扉と小さな窓が見えた。
 一階のアリとホジャの部屋の窓は真っ暗で誰もいないようだった。
「一階にホジャが住んでいたのよ」
「体の具合はどうなったのかな」
「わかんない……」
「今度、お見舞いに行ってみようか」
「ええ。行ってみましょう。気になるもの」
 彼女の部屋は二階の奥で扉は路地からは見えない。シズナを先頭に、裸電球が弱々しく灯っているマンションの階段を上がっていく。踊り場を通ってまた階段を上ると、二階の廊下に出た。廊下を見通した時、シズナの部屋の扉の前に誰かが立っているのが見えた。
 シズナとスィヤは立ち止まった。天井に吊されている裸電球の明かりで、コウスケの太った顔がぼんやりと浮いている。
「シズナ……、誰、こいつ」
 コウスケが不審な顔をして言った。シズナは黙った。彼女が口ごもっていると、スィヤも彼女に言った。
「誰?」
 シズナはスィヤに言った。
「友達よ」
「こんな夜遅くに?」
 シズナが頷くと、ふうん、とスィヤは後を向いて階段を降りていった。コンクリートの階段を降りる足音が響く。シズナも後を追って階段を降りた。マンションの外に出ると、彼はブロック塀と家屋に挟まれた路地を歩いていた。
「スィヤ!」
 彼女は呼びかけた。彼は振り向きもせず角を曲がり、姿を消した。シズナは走って角まで来たが、スィヤの姿はどこにもない。暗い道があるだけだった。道の両側に並ぶ木造家屋も真っ暗で静まりかえっている。シズナは引き返した。マンションの階段を上がり、コウスケが立っている廊下まで来た。
「どうしたの? こんな夜に」
「どうしたのって……いつもの事じゃないか」
 コウスケは目を瞬いた。彼は言った。
「あの男は誰だい?」
「誰だっていいじゃないの」
「あっそう」
「もう遅いから帰って。私はもう寝るだけ」
 彼女は鍵をといて部屋に入り、扉の内側から鍵をかけようとしたがコウスケのことが気になってまた扉を開けた。
「何か用?」
「何か用って……恋人じゃないか」
「そうだっけ」
「エッチしたじゃないか」
「コウスケがやりたいって言ったから……」
「じゃお前、男がやりたいって言ったら誰とでもやるのかい?」
「そんなことないよ。コウスケには良い感じを持ってたの」
「じゃ俺はただの友達かい?」
「そうみたい」
「まあいいや。じゃまた助けてくれるかな。やりたくってさ。俺だって誰でも良いってわけじゃないんだよ。シズナはマグロだけど、好きだって気持ちがあるから来たんだ」
「私はコウスケに、もうそんな気持ちないの。コウスケの事は好きじゃなかったみたい」
「どうしたんだよ、急に冷たくなって」
「だって、コウスケったらつまんないだもん。毎日好きでもない仕事のために仕方なく会社に行って、楽しみは食べることと飲むことだけ。太る一方で、一緒にいると憂鬱になっちゃう。前はもっと夢があったじゃないの」
「生活のために一生懸命に頑張ってるんだよ。夢だとか好きな仕事だとか言ってられないよ。現実は厳しいんだぜ。つまらなくても毎日働いていれば多少なりともお金は貯まるし、世の中の役に立つんだよ」
 彼女は扉を閉めた。
「おい、開けろよ」
 コウスケはノブを回して引っ張り、扉を開けようとした。シズナは内側から鍵を掛けた。耳を澄ませていると、コウスケの足音は次第に遠ざかっていった。
 冷房を入れて、テレビをつけニュース番組を聞きながらTシャツと短パンに着替えた。ブラウン管では、オウム真理教が名前を変えて活動し、不審な新興宗教団体に入信する人々が増加している、という話をしていた。風呂場に行って湯を入れる。歯ブラシを持って部屋に戻り、ブラッシングをしながらニュース番組を観た。コマーシャルの後は、ニュースキャスターが、凶悪化する少年犯罪や学校での集団による虐めについて、景気の低迷で株価が最安値を更新したことを伝えていた。
 洗面所に行って口をゆすぎ、風呂場で身体を洗った。乳房やお腹や膣などのあちこちにスィヤの身体の感触が残っていた。スィヤともっと一緒にいたい。だが他の男性との出会いやつき合いを全て断ってまで、二人で暮らすことには不安がある。仕事がうまくいくのかどうか、スィヤとの将来は明るいものなのかどうかを考えると、人生の他の可能性を閉め出してスィヤの人生に深入りしていくのは怖かった。かといって、コウスケの生き方や生活にも深入りしたくない。彼の漠然とした生き方を尊敬することができなかったし、一緒にいても退屈で、素肌に触れたりセックスをすることにも違和感があった。
風呂場から出て寝間着用のTシャツと短パンを穿き、テレビを見た。ニュース番組では麻薬密輸組織の不法滞在の中国人ボス、売春斡旋を行っていた日本人ブローカー、売春をしていたコロンビア人やフィリピン人が逮捕されたと報道していた。
 画面の上方に、<不法就労外国人対策キャンペーン>という横断幕が掲げられた。ニュースキャスターが「不法就労が増えています。外国人の不法就労防止にご協力ください。不法就労と思われる外国人や、働くことを認められていない外国人を雇った事業主や、不法入国を援助した人を見つけた場合は、こちらにご連絡ください」と電話番号やメールアドレスが書いてあるボードが大写しになる。
 部屋の電話が鳴った。自宅の電話番号は家族とコウスケとスィヤと店の人しか知らない。夜中の電話だから、緊急の用事だろうかとシズナは受話器を取った。聞き憶えのある女の声が飛び込んできた。
「あんた、さっき、どこいた?」
 モニカだった。
「どこだっていいじゃないの」
「バアカ! スィヤになにした?」
「うるさいね、もう」
 ガチャリと受話器を置いた。シズナはテレビの音量を上げた。画面の中では日本経済をどう立て直すかという議論がなされていた。また電話がかかってきた。無視してテレビを見続けていると、呼び出し音が際限なく鳴り続ける。また受話器を取った。
「あんたスィヤになにした?」
「あんたに関係ないよ」
「カンケイ、ナイ? バアカ!」
 シズナは受話器を置いた。テレビを消して布団を敷いていると、また電話が鳴った。シズナは受話器を取って言った。
「何だよ」
「バアッカ! バアッカ! トンタ! プゥタ!」
彼女は甲高い声で叫ぶ。シズナはガチャリと受話器を置いた。また呼び出し音がけたたましく鳴る。シズナは電話機のジャックから電話線を引き抜いた。電灯を消して毛布の中にもぐる。毛布を被ってじっとしていると、今度は携帯の呼び出し音が突然鳴り始めた。モニカは携帯の番号も知っているのだろうか、自宅の電話番号もどうして知ったのだろう。シズナは憂鬱になった。携帯を取って耳に当てる。相手は無言だった。彼女は通話ボタンをOFFにした。携帯を見つめていると、また鳴り始めた。相手の電話番号が表示されたが、知らない番号だった。通話ボタンを押して、シズナは言った。
「誰?」
「ころしてやるうう!」
 モニカの低い声が、携帯の奥で地鳴りのように響いた。シズナは通話ボタンをOFFにした。また、携帯が甲高く鳴り響く。彼女は電源を切った。音はぴたりと止んだ。
 ため息をついて、携帯を充電器に戻し、毛布の中にもぐった。夜は習慣として窓ガラスを閉めていたので、暑苦しかった。シズナは起き上がって窓ガラスの所に行き、鍵がかかっているかどうかを確かめた。布団に戻って横たわり、タオルで額を拭った。目が冴えていたが、天井の黒い染みを見ると怖くなるので、目を閉じた。数を数えていると、いくつかわからなくなって考えた。ますます意識が冴えてくる。無理に瞼を閉じてじっとしていたが、眠れない。星一つない真っ暗な空が、カーテンの隙間から覗いていた。
 目覚めて時計を見ると、針はいつもの起床時間を示していた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から漠とした明るさが入っているが、朝陽の輝きは感じられない。起き上がってカーテンを開けた。霧のような小雨が降っていて家々のトタン屋根や路地が濡れていた。空一面のっぺりとした白い雲で覆われている。窓ガラスを開けると、湿った涼しい風が入ってきた。
 新しいTシャツと膝丈のジーンズに穿き替えて、朝食のためのパンを買いに部屋を出て行った。
 一階のアリとホジャの部屋から、テレビの音と小さな話し声が聞こえる。ホジャは退院したのだろうか。部屋をノックしてみると、テレビの音も話し声もぴたりと止んだ。しばらく静寂していたが、ペルシャ語で返事が返ってきた。
 シズナが名乗ると、すぐに扉が開いて、アリが笑顔で迎えた。
「先日は、ありがとうございました。朝ご飯、一緒にどうですか」
「ありがとう。でも遠慮しときます。ホジャさんはどうしたのかしら」
「手術は成功しました。今病院にいます」
「良かったわ。でもこれからが大変ね」
「私とホジャは、難民申請をすることにしました」
「難民申請?」
「はい。私とホジャはイランに住みたくないんです」
「難民になるのも難しいかも……」
 アリの穏やかな表情から意気が消えたが、気を取り直したように言った。
「ダメだったらカナダに行きます」
「そうね。それが良いと思うわ。きっとなんらかの道があると思う。何かあったら連絡してくださいね」
「はい。いろいろありがとうございます。お金は必ず返します」
 シズナは微笑んだ。傘をさして、雨や湿気を吸い込んで柔らかくなった土の道をいく。舗装された路地に出て、駐車場の入り口まで来た。
 古アパートの横を通り駐車場に入ると、シズナの軽自動車が昨夜と同じように停めてある。昨夜狭い車内で裸同然の姿でスィヤと抱き合ったことを思い出して、身体が熱くなった。今度は自分の部屋に彼を呼ぼうと思う。
 駐車場から出ようとした時、見慣れない様子に気づいて立ち止まった。車体の前部から後部まで太い傷がずるずると何本も走っている。近寄ってみると、尖ったもので打たれたような小さな深い傷も沢山ついていた。運転席のウィンドウから、フロントガラスの一面に蜘蛛の巣のような大きなひび割れがあるのが見えた。左右のドアミラーも壊れて地面に向いてぶら下がっている。モニカだろうか、真夜中にかかってきた電話のモニカの剣幕から、彼女だと直感した。シズナは走って路地に出て、表通りにある公衆電話ボックスに入った。急いでスィヤに電話をする。呼び出し音を何十回も鳴らした後、スィヤが日本語で出た。
「もしもし」
「スィヤ、大変よ。車が壊されたの」
「ええっ」
 彼はすっとんきょうな声を上げた。
「モニカがやったんでしょう」
「まさか」
「まさかって、本当にモニカを信じてるの?」
 一瞬の沈黙があってスィヤは言った。
「だって俺の彼女じゃないか」
 今度はシズナが沈黙した。
「あっそ。でもきっとモニカよ。モニカが壊したのよ」
「俺の彼女なんだから、そんなことしないよ」
「後で警察に来てもらって調べるよ。とにかくもう車は使えなくなっちゃった」
「困ったね」
「早く来てよ」
「わかった」
 電話を切って、表通りから路地に戻り駐車場に行った。車に目を近づけて車体やタイヤを点検した。傷の他にも窪みが何カ所もある。タイヤもサイド部分にナイフのようなもので何度も切られたり突かれたりしていてパンクしていた。事故でバンパーが外れかけ方向指示灯のガラスも破損していたので、廃車のようにみすぼらしい。安い中古車とはいえ気に入っていた車だった。修理するよりは、他の中古車を買った方が安い。車検が切れるまで半年は残っていた。スィヤはまだ来ない。シズナは腹が立ってきた。もっと早く来て心配してくれれば良いのに。そうすると、腹の虫もおさまるような気がした。
 スィヤは来なかった。シズナは落胆して淋しくなった。がすぐに、怒りで煮え返ってきた。大股で路地を歩き表通りに出て公衆電話の前に来ると、乱暴にスィヤの携帯の番号をプッシュした。シズナを待っていたかのようにすぐに相手が出たが、こちらを窺うように黙っている。
「もしもし」
 シズナが苛々した調子で言うと、いきなりモニカの感情的な声が耳をつんざいた。
「OHH! バアッカ、シズナ。スィヤ、パーキングいかない。あんたバアッカ」
「スィヤを出してよ」
「スィヤ、あたしをすき。あんたをきらい、バアッカ」
 と叫ぶとガチャリと電話を切った。シズナは血が頭に上るのを感じながら、またスィヤの携帯に電話をした。すぐに相手は出たが沈黙している。シズナは言った。
「スィヤはどこ」
「バアッカ、あんたしつこい、スィヤ、あんたみたくない」
 ガチャリと電話が切れた。舌打ちをしてまた電話をすると、今度はスィヤが出た。
「もしもし」
 スィヤの声を聞くと、憤りが頂点に達して叫んだ。
「あんた、車をどうしてくれんのよ。もう使えないじゃないの。あんたたちが壊したんでしょう!」
「どうして俺たちのせいにするんだい。シズナの彼氏かもしれないよ」
「なんですって、あの人は車がある場所も知らないの。それに彼氏じゃないよ」
「彼氏じゃないの?」
「そうよ」
「誰?」
「ただの友達よ」
「ふうん、泊まったの?」
「すぐに帰ったよ」
「そう?」
「そうよ。車を壊したのはモニカでしょう?」
「そうかもしれない、聞いてみる」
 電話口の向こうで、スィヤのモニカを呼ぶ声が聞こえた。モニカとスペイン語で何かを言い争っている。彼がシズナに言う。
「真夜中にモニカはいなかったんだ。ずっといなかったんだから変だよ。これから叱ってやる」
 シズナの胸は少しはおさまった。
「ねえ、それより、車がひどいの、どうしよう」
「大丈夫だよ。僕がたくさん仕事して、新車を買ってあげるよ」
「明日から仕事に使えないじゃない」
「僕が修理するよ」
 電話の向こうから、スペイン語でまくし立てるヒステリックなモニカの声が聞こえた。
「じゃ、今から行くよ」
「うん」
 怒りのテンションが下がり、受話器を静かに置いた。駐車場に戻り、樹木の下で出入り口の方を見ながらスィヤを待った。いつの間にか小雨は止んでいて、空全体に広がる分厚い白い雲がぼんやりと地上を明るくしていた。
 錆び付いたドラム缶の壁面が小さくくりぬかれていて、内部は黒く煤けていて灰が積もっている。その横では壊れた自転車が横倒しになっていた。周りには焦げた草木、タイヤ、新聞紙や雑誌の束などが積み上げて捨ててあり、幾らかが周囲に散らばっている。どれもが濡れていて、紙や朽ちた枝葉が地面に張りついていた。
 シズナの車も廃車のようになってしゃがんでいた。街宣車はずっと同じ位置に駐まっていて、動いた形跡はない。後部座席や助手席のウィンドウには鉄格子があり、黒い車体には日の丸が描いてあった。
 シズナは樹木の下の丸太に座り、駐車場の出入り口を見つめた。路地を行き来する人もなく、車もバイクも通らない。もうすぐスィヤが来るはずだ。彼女は遠くに耳を澄ました。バイクの音は聞こえなかった。また、モニカと言い争っているのだろうか。シズナはスィヤの携帯に電話をしたかった。携帯を持ってこなかったのを後悔していると、出入り口に人が現れた。モニカだった。モニカは深刻な顔をして、一人でこちらに向かって歩いてくる。瞼が赤く腫れていて充血していた。シズナは言った。
「あんたでしょう、私の車を壊したのは」
「シズナ。あんたわるい。あたしのコイビトとった」
「別に取ってないわよ。スィヤを好きなら一緒に暮らしてればいいじゃないの」
「あたし、スィヤのためニホンいる」
「あっそう、あんたが日本にいる理由なんて私とは関係ないわ」
 モニカは詰め寄った。
「カンケイ、ない?」
「そうよ」
 モニカは鼻で笑った。
「あんたのクルマこわれる、スィヤとあたしカンケイない」
「なんですって。真夜中に電話かけてきて脅したくせに。一緒に警察に行こう。どうせオーバーステイでしょう。売春してたんでしょう。早くコロンビアに帰れば」
「あたしちがう」
「嘘つき! あんたが壊したくせに!」
 シズナは怒鳴った。モニカは赤く腫れた瞼を瞬いた。
「あたし、コロンビアにかえるかどうか、いまきめる」
 モニカは充血した目でシズナを見つめた。
「早くコロンビアに帰ればいいじゃないの。私には関係ないよ」
「カンケイある、あたしスィヤのため、ニホンいる。あたしニンシンした。あかちゃんオナカいる。スィヤとシズナ、いっしょになるだったら、あたしコロンビアかえる」
「あんたらの間に子供ができるんだったら、スィヤと結婚なんてしないわ、あんたやあんたの子供と関わりたくないもん」
 モニカは黙った。彼女は充血した目を瞬いて呟いた。
「コロンビアかえって、ファミリーつくりたい」
「警察に行こう、早くコロンビアに帰れるわよ」
「でも、スィヤすき」
「あっそ。あんた、警察に行かないなら車弁償してよ」
「スィヤする」
「ふうん、お幸せに」
 シズナはそっぽを向いて言った。モニカは泣き腫らしたかのような赤くむくれた顔をしていた。鼻をすすり下を向いて、地面の土や石ころを小さく蹴っている。
 遠くからバイクの音が聞こえてきた。スィヤがエンジンを鳴らして駐車場に乗り込んできた。バイクをドラム缶の近くに停め、エンジンを切る。ヘルメットを脱いでシズナとモニカを交互に見た。彼はバイクから降りて二人に近づいて言った。
「モニカ、謝れよ」
 彼が日本語で言うと、モニカはスペイン語で言った。
「ノ!」
「お前が悪いよ」
「スィヤ、あんたわるい。あんたさっきシズナだいきらい、いった」
 スィヤはシズナに向かって申し訳なさそうな顔をして言った。
「こいつが嫉妬して暴力ふるうからさ」
「あたし、しっとしない。シズナとスィヤ、わるい」
 モニカはスィヤを蹴り始めた。
「モニカ、謝れよ、まだわからないのか」
 彼はモニカの太い足を素早く除けて、両腕を取り組み押さえつけた。 モニカの赤く腫れた瞼から涙が出てきた。
「あたし、コロンビアかえる」
 スィヤは急に力を緩めて腕の間からモニカを見た。モニカは下を向いて、しゃっくりを上げた。彼は手を離した。
「いっしょ、コロンビアかえろう」
 彼女はスィヤを見て言った。彼はモニカを見つめた。
「それはできないんだ」
「どうして?」
「コロンビアは俺の国じゃない」
「ニホンだってスィヤのくに、ちがう」
「俺は日本で仕事をしたいんだ」
 モニカは肩を落として下を向いた。手で涙を拭いながらぼんやりと地面を見つめる。急に薄ら笑いを浮かべて、天然カールの前髪の隙間からシズナを睨んだ。と、モニカはシズナに突進した。シズナが後に引き下がろうとした瞬間、モニカは飛びかかり彼女の首を両手で掴んだ。シズナは悲鳴を上げてモニカを振り切ろうとした。
「ころしてやるうう! ぜんぶあんたわるい! あんたのせい!」
昨夜聞いた男のような太い声で怒鳴り、怪力でシズナの髪を引っ張り首を締め上げた。息のできなくなったシズナは掠れた悲鳴を上げた。モニカから離れようとしても、指が肉に食い込んでくる。
「やめろよ」
 スィヤが中に割って入り、モニカの両腕を掴んだ。モニカはスィヤを突き飛ばそうとして取っ組み合いになった。頭皮と首を痛めたシズナは、荒々しい息をして言った。
「何よ、この女。スィヤもバカな女とつき合ってるのね、がっかりよ」
「こら、謝れよ。こら」
 スィヤはモニカを取り押さえて揺さぶった。
「もうあんたたちとつき合いたくない! スィヤ、あんたの店にはもう行かない。車を弁償してくれるまで、あんたの店で働かない!」
「モニカ、謝れって言ってるだろ」
 スィヤはモニカを叱った。モニカは黙っている。
「あんたたちと関わりたくない。この車は二十五万で買ったんだから、二十五万円払ってちょうだい。あんたのせいで警察まで行って怒られて書類まで書いて来たんだからこれでも安いよ」
 スィヤはシズナを見つめた。
「わかったよ」
 彼は肩を落として呟いた。
「できるだけ早く払うよ」
「必ずよ。どうやってお金を用意するつもり?」
「この間納品したサンキュウ商事にお金を催促するよ」
「念のため、あんたのパスポートをコピーさせて」
「ここにはないよ」
「免許証でいいよ」
 スィヤはため息をついた。彼はバイクに戻り、シートの下の小物入れからバッグを出した。中から小冊紙のような証書を取り出す。いつか、スィヤと公園で初めて会った時に見たイランの免許証だった。彼はシズナに差し出して言った。
「僕のイランの免許証を預けますよ。僕の実家の住所が書いてあるから。もし僕がイランに帰ることあったら、連絡してください。イランの免許証は誰にも渡したくないんだけど、シズナには特別だよ」
 彼女はそれを受け取った。彼は日本の免許証も見せて言った。
「コピーする?」
 シズナは黙っていた。
「必ず弁償するから」
 彼は言う。モニカは黙って二人のやり取りを見ていた。シズナは言った。
「イランに帰るの?」
「帰りたくないけど、お店が失敗したら日本には住めないよ」
 彼は濡れた地面を見つめていたが、顔を上げて言った。
「でもシズナに車を弁償するまで、日本にいるから安心してください」
「そう、じゃひとまず車のキーを返して。廃車にして処分するから。明日コウカブに事情を話して、お仕事を休ませてもらうわ」
「そうですか」
「さあ、キーを返して」
 シズナは手の平を差し出した。スィヤは下を向いたまま、ゆっくりとズボンのポケットからキーを取り出した。シズナはキーを受け取ってモニカに振り向いた。
「スィヤはあんたのもの。もう私の前に現れないでちょうだい。お幸せにね」
 シズナは車のキーとスィヤのイランの免許証を手に持ち踵を返した。駐車場の出入り口に向かって歩き始めると、後からスィヤの弱々しい声がした。
「ねえ、シズナ……」
 シズナは振り返らずに早足で歩く。スィヤがこちらに歩いてくる気配がした。彼女が横目で少し後を見ると、スィヤと後に続くモニカがシズナを追いかけてくる。シズナは駆けて古アパートを横切り路地に出た。二人が小走りでやってくる靴音がしたので、彼女は速度を上げて走った。古い倉庫や木造家屋、雑草の生い茂る空き地を通り過ぎる。後を振り返って彼らが追ってこないことを確認すると、走るのをやめた。モルタル塗りの家屋とブロック塀がある小道を歩きながら後を振り向いたが、誰もいなかった。蔦の這うマンションの前に来て、階段を昇り自分の部屋の前まで来た。手摺りから下を見下ろしたが、追ってくる人間はいない。
 部屋に戻り、戸締まりをした。風呂場や部屋の窓ガラスも閉めて鍵をかける。急に眠くなった。昼間だというのに疲れて、カーペットの上に寝転がった。身体の下にあるのはスィヤから貰った花文様のキリムだった。しっかりと織った天然の布地の肌触りがした。指でそっと撫でてみた。汗を吸い取るような草木の乾いた匂いがする。
 この場所でずっと寝ていたい。花文様に織っていくのは随分と時間がかかったことだろう。緑や赤や黄色などの華やかな色彩でも落ち着くのは、草木染めのためだ。
 イラン製の草木染めのキリム……。品質が高くて値段の高いものだ。ゆっくりと目を閉じた。目の奥から滲んでくるものがあった。眠いのでそのままにしておくと涙が出てきた。何も考えまいとして瞼を硬く閉じた。目尻から涙がこぼれてきて、こめかみを伝いキリムの上に落ちた。茜色の花びらが濡れて、染みができた。