武家松下氏の家系で謎なのは、

(1) 松下高長が本当に始祖であれば「松下を名乗って松下村に住んだ」と書けば住む話を、なぜ「西條氏から出家した僧だったが城東郡平川で還俗した」ことがわざわざ家系図に書いてあるのか。
(2) 松下高長は清景・之綱に至るまで明らかに遠州在住だが、之綱の家系は三河国碧海郡松下郷と関係がある旨をきっぱり断言できたのか。
(3) 松下高長は、清景・之綱の世代から5代前とされているにもかかわらず、松下をなのる家が多すぎるのではないか。


(1)の記述をみるに、おそらく平川の松下氏から嫁をとった松下高長が、浅羽の松下村に移住したと見てよいでしょう。そして、平川の松下氏、浅羽の松下村、三河国碧海郡松下郷は、もともとどこかの一族が移住してきた同族であった、と見ると(2)(3)が説明できることになります。



さて、国会図書館デジタルコレクションの信陽家系類聚. 下246pに、信州伊那の松下氏の家系図がでています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780450/72






これによると、源経基の子孫の「松下義長」が伊勢山田郷で松下を名乗ったのが初代で、新田義貞について湊川の戦いで当主が討ち死にしたのをきっかけに信州に子孫が行った、と記載されています。初代の時に「松下郷」と称しているので、血縁にかかわらずここ出身の人がみんな「松下」をなのりえたように思います。


一方、遠州の松下氏に関する最も古い記録は、1465(寛正6)年 12月29日に足利幕府の役人であった伊勢貞親が、遠州の「御被官人、遠州者也」の松下源右衛門尉に宛てた手紙(戦国遺文今川氏編0024)のようです。


伊勢貞親は、伊勢宗瑞(伊勢盛時・北条早雲とも)の親族ですが、伊勢氏というからには、伊勢山田に勢力があったのと思うのが自然です。(伊勢宗瑞は備前ですが) また伊勢貞親は、遠州の横地氏・勝間田氏とも連絡をとっています。


これらのことから、下記のような仮説を立ててみました。

(a)伊勢山田の松下氏が あちこち(三河国碧海郡、遠州国浅羽の松下郷、城飼郡平川(菊川市上・下平川))や城飼郡中(掛川市中)に移り住んでいた。
(b)この中でも平川や中の松下氏は、伊勢氏が横地・勝間田との連携も狙って伊勢山田から送り込んだ人々で、伊勢氏や他の松下郷出身者とも関わりを保っていた。

(c) 浅羽の松下氏(武家松下氏)は駿河今川氏・伊勢宗瑞について斯波氏・大河内攻めに参加し、浜松荘やその周辺に進出した。

(d)三津浜の松下氏は、伊勢宗瑞についていって伊豆に定住した。

(e) 三河国碧海郡の松下家は伊勢山田にルーツをもつ同族なので、家系図を作るにあたり「三河出身」の口裏合わせに協力した。

(f) 松下高長を松下家の祖とするにあたり、(b)への配慮が必要だったので、家系に「この地で還俗」を記載した。また、中の一族についても「中郷衆」としてかかわりを記載した。


上記はあくまで仮説です。鴨神社関係も「近江商人」としてでてくる松下氏も説明できませんが、他は結構いい線なのではないかと思っています。


・・・・近江商人の話を書くのを忘れたので、これは次回に。