「武田氏滅亡」によると、高天神城に武田方で詰めた武将には遠州の者はほとんどいなかったようです。あえてあげると掛川の原のー族の孕石氏ぐらいでしょうか。孕石氏も家康が今川の人質で駿府にいた時にはすでに駿府在住だったようですが。


さて、徳川家康の側室だった雲光院(阿茶の局)は、武田家臣の娘で、当初は神尾氏に嫁ぎ、神尾を名乗る子孫がいます。

神尾といえば、菊川市(の旧菊川町)には神尾の地名が残っており、また 榛原・島田にも同様に神尾との地名の場所があります。


そのことがが頭にあったので、武田氏滅亡での高天神城籠城の武田軍の中に神尾氏の名前を見つけたときに、興味をひかれました。

まず雲光院(阿茶の局)の前夫 神尾忠重は武田方のはずなので、このー族 を寛政重修諸家譜 第6集で見ると、、、
「もとは加納と称す。代々加茂の神職なり」となっており、一度何かあって駿河国清見関に流されたあと永亨4年(1432年)にゆるされ、神職に復帰し神尾をなのることとなった、とされています。雲光院の義理の娘の嫁ぎ先も神尾を名乗りましたが、こちらは元は松木氏だったとのことです。

・・・・遠州 関係ないやん(なぜか関西弁)。

今度はwebで調べてみると、遠州出身の神尾淡路守が信州で真田昌幸から書面をもらっているとの記載がありました。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100040?hid=ht096160


ということで、今ひとつ横地・勝間田 近隣の神尾とのつながりは不明ですが、遠州から信濃の国に行ったー族から、高天神城に戻った者がいたのはたしかなようです。