松下勘左衛門は、小牧長久手の戦いで本多忠勝の下で奮戦したと伝えられており話もあり、おそらく浜松近辺の松下連昌ー清景につながる一族であったろうと推察されます。

 

その後松下勘左衛門は、松下常慶が関ケ原後に井伊谷近辺に領地を与えられた際、その3人の代官の一人となり、井伊家伝記にもその旨が出ているそうです(未確認)。

 

その担当範囲は井伊谷のみならず、松下助左衛門範久の後任として範久の出した書面を城東郡近辺で追認しています。南紀徳川史の1616年徳川頼宜が紀州に行った際に紀州に行った人のリストに入っており、紀州にいったものとおもいますが、名臣傳にはその後の記録はありません。

 

一方、松下勘左衛門は1624年に新潟県の天領に着任しています。ここは井伊直政の子孫のいる与板藩の近くで、良寛さんが近辺にいたことから現在でもその代官所が観光マップにのっています。

さらに、1931年に信濃の国の天領で代官の仕事をしています。

 

・・・・・・・って、紀州に行った人が 新潟や信濃の天領の代官になっているはずないですよね。

たぶん少なくとも2人同じ名前の人がいたのだと思うのですが、何が何だか。

(いまのところ寛政重修諸家譜でもどちらも見つけられていません/断家譜のほうでしょうか)

 

井伊谷の方は「戦国未来」さんが詳しそうなので、直接関係ありませんが、本を宣伝しておきます(中身もコメントしませんが)