前回鷲山伝八郎の子孫の話を書きましたが、いくつか書き忘れたので補足です。

 

 

1.榛原の鷲山氏

相良の大澤寺は、徳川家康により下内田(現在の菊川市下内田)から5つの有力商家とともに相良に異封されたそうです。下内田であれば、平川、奈良野とはごく近隣ですのでもともとこちらにいた鷲山氏が榛原に行ったとみるのが自然かと思います。

 

2.奈良野村の鷲山氏

相良の大澤寺さんの奈良野村(現在の菊川市奈良野)の鷲山氏墓石の記事はこちらです。長く繁栄を続けるのは、やはり大変なことだと実感します。

 

池田縫平について

また、先日の小和田先生の講演の質疑応答で、池田縫平の話がでていました。このときの質問者の説明によると、近隣の開拓や毛森村の溜池の建設を行った地元の偉人と語り伝えられているとのことですが、実はその時期が武田勝頼の高天神城攻略の数年前で、しかも勝頼はこのごく近隣の惣勢山に布陣した、とのことです。

 

残念ながらその場での質疑はそこで終わってしまいましたが、調べるとちゃんと高天神城戦記の高天神衆のうち御前曲輪に詰めた旨の記載があります。御前曲輪は同じく毛森村を知行したとされる斎藤宗林が大将ですので、御前曲輪は高天神城近辺の人が多かったのかもしれません。

 

藤田鶴南氏の「高天神城の跡を訪ねて」によるとその後毛森村を知行したとなっているので、勝頼に攻められて開城した後は帰農したのかもしれません。開拓エピソードが今に伝えられていることをみると地元への貢献は大で、そのままこの地に帰農したように見えます。 

 

*なお、奈良野ー嶺田の用水は、功労者である右近太夫の名前は残っていますが、知行していたXX氏とかXX氏(あえて伏せ字)とかの印象はあまり良くなさそうです。

 

 

 p.s. 写真がなくて寂しい(いつも?)ので、近隣にあったメダカの直売コーナーの写真を貼っておきます。



 

 

 

 

 
 
 

 

出不精の私ですが、東京女子医大の創立者である吉岡彌生記念館の開館20周年でに小和田先生が記念講演すると聞いて 行ってきました。

 

吉岡彌生さんは、高天神城の至近の土方の庄屋であった鷲山家の分家の出身です。

鷲山家といえば高天神衆 鷲山伝八郎ですので、講演の内容は高天神城の攻防と鷲山伝八郎などの地侍、名字百姓についてになり、非常に分かりやすく説明をいただきました。そして吉岡彌生の伝記に見える歴史とのつながりで話が締められました。

 

 

高天神城戦記と静岡県姓氏家系大辞典での記載から鷲山伝八郎の一族について要約すると

  • 高天神小笠原氏(国衆レベル)の下の地侍だった
  • 武田勝頼が高天神城を攻めて落城したあと、鷲山伝八郎は大須賀康高の下で働いた(すなわち横須賀衆だった)
  • 奈良野の子孫の伝八郎の供養碑によると天正9年11月逝去とされている。
  • 子孫の鷲山武右衛門が菊川市上平川に住んで、県(あがた)と鷲山を代ごとに交互に名乗った。一時期菊川市奈良野も支配していたらしい
  • 番生寺村(金谷)、榛原の五和村(牧之原市)、土方村(掛川市土方)の鷲山氏・県氏はこの鷲山氏の後裔らしい。
  • 県氏については、合戦を富士郡に避けたとの記載があり、どうも横須賀組の他に帰農組があるらしい。
吉岡彌生記念館には土方家の家系図やその母親の説明があるのですが、母親は榛原の土方氏の出身で、平川の黒田代官屋敷(前回記事のところ)に奉公にでたあと土方に嫁いだ、とのことです。
 
余談ですが、吉岡彌生の伝記には、高天神城でお姫様が身投げした井戸をお金を探して掘り返す人の話がでてきます。これは榛原の鷲山氏から聞いた勝間田氏滅亡の時の話といつの間にかごっちゃになったのではないかと疑っています。

 

さて、これだけだと付加価値がないので、他のことも書いておきます。

 

 
  • 奈良野の鷲山家は、どうも没落したようで、 鷲山伝八郎の供養碑も無縁仏になっています。
  • 結城秀康家臣団の論文(中ノ馬場における武家屋敷地の 変遷)に、鷲山伝八の名前が出てきますので、武士を続けた家系があったようです。電話帳検索すると出てくる富山の鷲山氏がこの末裔でしょうか。
  • 関東移封についていったかどうか、徳川頼宣について紀州についていったかどうかは不明ですが、電話帳検索すると和歌山県でも出てくるので移動した一族もいたのかもしれません。
 

 

台風で大変な目に合われている方々に、心からお見舞い申し上げます。


さて武田勝頼が高天神城を攻めて落としたときに、高天神城の御前曲輪には地元の土豪が入っていました。

大澤寺さんのページのリストではこちら
以前にもご紹介した かさぶた日録のきのさんの遠州高天神城記の翻刻はこちら


このうち黒田氏については遠州高天神城記で「黒田九郎太夫義則、同玄忠入道義得(この黒田は、足利下野守義次、越前国黒田に有りて、黒田と名乗り、その子日向守は紀州に住す。三男式部少輔義理は遠州城飼郡を前代に領す。義理が四男黒田監物義重、同郡平川村を領す。その子今の九郎太夫義則まで八代なり)」とされています。

このときの記述から更に現代に至るまで、その代官屋敷は今も残っていおり(というか、御子孫のかたが今もお住まいです)。長屋門が現存しており、往時の代官屋敷の雰囲気を伺えます。資料館も併設されていて代官の業務についてよく理解できます。(酒の上の失態の詫び状の下書き等微妙な文書も展示されていますが)

さて、写真で見てもわかるとおり、屋敷の周りは堀があります。この堀は現代ではどこにも水路ではつながっていませんが、家に船着き場があり、昔は菊川につながっていたであろうことが伺えます。

黒田氏のこの屋敷は永禄年間とされていますが、上記にある通り、平川村に来る前に周辺に来ていたことが伺えます。

黒田氏以外の平川村の土豪としては、遠州三十六人衆の赤堀氏と、朝比奈八郎次郎の名前が残っています。
黒田姓の分布がどちらかというと旧小笠町と旧菊川町であることを考えると、おそらくもう少し北側に黒田氏の本拠があって、朝比奈氏が退いた後に下平川に南下したのではないかと思っています。

朝比奈八郎次郎については、有光 友學氏の「戦国前期遠駿地方における水運」によると、浜松の馬込川沿いの宇間郷とこの下平川の両方に領地があったようです。その後都筑家につかえていますので、この地を離れたとみてよいでしょう。なお、松下保綱の家系図では松下為雲の弟です。

さて、黒田氏は高天神城落城後もこの地にとどまっていたので、事実上武田方についていて、その後武田が諏訪原城を失う等劣勢になったのをみて武田方から離れ、徳川方についたものと推察します。この地で帰農したほとんどの土豪もおそらく同じでしょう。

特徴的な名字である「漢人」(かんど)の「漢人十右衛門」もおそらくその一人でしょう。現代までのこるレア名字の中心は明治維新まで掛川市と菊川市にとどまっていたようです。(関東に行ったり紀州にいったりしていれば、もう少し拡散していたと思います。)

 

 

当ブログで一番アクセスの多い記事は、実は↓の記事なのですが、その後の考察やタグが入っていなかったのでちょっとだけ手を入れました。なぜアクセスが多いのかは、謎です。

 

上田家/新野家の家系図や大石家の墓碑に名指しで恨み言が書かれている話や子孫が上杉氏に仕えた話もどこかでまとめておかなくては。

 

ちなみに、次に多いのが 鳥居強右衛門の旗の人こと 落合左平次 関係です。


福島織部為基は、徳川方と武田方が高天神城を巡って争っていた頃に徳川方にいた武将です。
寛政重修諸家譜や干城録等では「ふくしま」と読みがふられており、福島十郎左衛門等とは違う一族のように見えます。

(ファイルを保存した際に何故か福島十郎左衛門のファイルと勘違いして、福島氏の別資料と思って「今川氏滅亡」の書評に書いた、この福島氏の勘違いでした。お詫びして訂正します。)

 

一方でこの福島織部は、岡部氏と親戚だった、とされておりひょっとしたら福島(くしま)一族で後で読みを変えたのかもしれません。

さてこの福島織部為基の系図にはその「岡部氏の親戚」の話が書いてあるのですが、これがなんと「高天神城から 岡部太郎兵衛正綱とその弟を脱出させた」話です。

寛政重修諸家譜第2集の福島氏のところから引用すると、結果としてうまく行った旨の記述になっています。

「天正九年遠江国高天神の役に、為基が一族岡部太郎左衛門正綱某その弟掃部某城中にあり。東照宮これをきこしめし為基に命じて彼ら兄弟が死をすくはしめらる。よりて為基矢文を城中に射いれ、落城のとき小旗の印に従いて遁れ去るべしと告ぐ。これによる岡部兄弟死をまぬかるることを得たり」



一方、この岡部正綱は、「太郎兵衛」となっていて、「次郎右衛門」ではありません。どうも同じ時期に二人の岡部正綱がいたらしいのですが、太郎兵衛の方は、「南紀徳川史」に記述があり紀州に行ったようです。

武将で有名なのはもうひとりの「次郎右衛門」の方で、高天神城落城後武田軍から徳川方について、旧武田方への工作に活躍しています。
福島織部為基の家譜は、小牧の陣の際、次郎右衛門の息子の岡部内膳正長盛に同族であったので合力したとの話が続くので、どちらの岡部正綱も同族で岡部元信も同族であったのであろうとの推察できるかと思います。

岡部次郎右衛門正綱の家譜では、徳川家康が駿府にいた時代からの友人で、武田軍侵攻・征服後も家康と文通していた、とされており、この関係は高天神城落城時の家康の判断には大きく影響したものと思われます。
実は次郎右衛門が家康に投降した時期は記載がないため、ひょっとしたら次郎右衛門も一緒だったのかもしれませんが。