実感がないけれど今年ももうすぐ暮れていく
今日も東京は快晴でこの時期にしては気温も高く、あれ?もう春になるんだっけ?と錯覚を起こすほど季節感がない。もう歳末なのであるが。それにしても今年はリーマンショック以来の大不況という社会的病が膏肓に入るのを目の当たりにして不景気な話題に追い立てられた一年だった。
世間では恐慌という言い回しはまだこの先の底にとってあるようだが、いつまで経っても持ち直さない景況とあまり危機感の無い世間の空気を見ていると、よけい漠然とした不安にとらわれることもある。だから何かやっているかというとそうでもないのだけれど、この先は日本も世界の大部分も「生き残り」が私たちの最大の目標になることもあるかもしれない。そんな漠とした不安を抱えた年の瀬でもある。
その恐慌と云えば有名なあの1929年の大恐慌だが、そのあと歴史の教科書などではよく経済社会の立て直しとしてアメリカがニューディール政策などを行ったことなを目にしたことと思うが、その成否についてどうなったのか、教科書の記述に何かあったようにも何か習ったような記憶もない。
実際のところ、大恐慌の後、ニューディール政策などの積極公共事業てこ入れもむなしく、さらに恐ろしい「二番底」がやってきて、結局は第二次大戦へとつながって経済立て直しは戦争による決着と解消を待たなければならなかったのである。
現在の世界を覆う不況もまた二番底がやってこないとは言えない。リーマンショックは実需を上回る大規模な投機によるバブルの自爆だったが、この自爆を招いた環境はさして解消されていないからである。
アメリカもどこもゼロ金利で過剰な金が投機口を求めてうごめいているうえ、GMの破産の顛末に見るように合法的な保険金殺人のような投機筋に倫理はない一方で投機に対する規制は遅々として進まない。
日本は借金の上に借金を重ねて金をばらまこうとしているが、借財がかさんで国家財政が弱ったらそれこそギリシャやアイスランドのように投機マネーに売り浴びせられてとことん毟られる。
歴史的には短期的な借金の解消はハイパーインフレが戦争だが、かたや、戦争のネタには事欠かず、北朝鮮もアフガンも恐ろしければ、核開発を進めるイランに対するイスラエルの先制攻撃(実際前科がある)も大規模な戦争の引き金にならないとは言えない。
世界経済や地球がほんの少し身震いしただけで吹き飛ばされてしまう零細市民にできることは限られているが、「身の丈にあった堅実な生活」をして日々の身近な暮らしを守り、どんな逆境にも耐え生き延びる知恵こそがこの先まず初めに必要になることだろう。
穏やかな冬晴れの空のむこうに見える黒点に、そんな展望とも妄想ともつかぬ思いが見え隠れして今年ももうすぐ暮れていく。
危うくトイレの仏様
先日新聞の記事を見ていたら、独り暮らしの女性が
トイレに閉じ込められて8日目にして奇跡的な救出を
されたという事件があった。
なんでも、トイレのドアの前の壁に立てかけていた
荷物の箱が倒れて外開きのトイレのドアをふさぐ格好になり
マンションのトイレなので窓もなく、どうしようもなくなったのだが、
たまたま入院中の高齢の母親が連絡のないのを不審に思い
警察に見に行ってもらったところ異変に気づいたと
いうことらしい。
2010年12月16日付け朝日新聞より
チリの鉱山事故とはちょっと性格が違うがまさに奇跡の生還である。
チリの事故当事者は先に救出の希望が見えていたが、
トイレの当事者は人知れず衰弱死する恐怖もあったことだろう。
8日間ものあいだ狭い密閉空間で先の見えない今後と向き合い
いったい何を考えて過ごしたのか。
恐ろしい話である。何が恐ろしいといって、なんでもない日常に
ぽっかりとあいた陥穽に、いつなんどき私たちもはまりこんで
しまうことがあるかもしれないという、その恐怖に思いが及ぶ
ことが恐ろしいのである。
わたしたちも当たり前のつもりで過ごしている身の回りの空間や
行動をよく見直して、行動は常に慎重にありたいものだ。
いや、それにしてもトイレの神様ならぬ、トイレのホトケ様にならず
本当に良かった。
死ぬという務めを遂行する努力
『ガン日記』 中野孝次 / 文藝春秋
中野氏はその晩年、人生や死に対して様々な先賢の言葉を紹介し、人々を励ますメッセージを発信し続けた文学者である。中野氏自らのガン宣告--余命一年--に際し、何を思い、何を考え、いかに行動したのか、読者としては興味を持たずにはおれないところだった。
それでもやはり、常々、ローマの哲人セネカや唐代禅僧の言葉に親しんで死に対する心構えをしてきたと言っていた中野氏でさえも、様々な迷いや動揺に直面したことがこの本で明らかにされている。
なにより、いたずらに苦痛をもたらして終末を非人間的な環境の中で死を迎える現代医学に嫌悪を抱き、長く生きるよりも善く生きることを大方針として、入院して現代医療の中で死を迎えるという道に組み込まれることを拒絶することを考える。
しかし結局は周囲の負担や迷惑を考えつつ、「我一人生きるにあらず、人々のなかに生きる人間の、それが務めか」と思い至るところが、読者にもたらす意味は大きい。
中野氏は数々の著作の中で、巧みに先賢の言葉を紹介しながらまるで達観したように生と死の問題を説いていて、読者の私も分かったような気になっていたものだが、実際の死に際することとは、そんな知識を基礎としつつも結局個人的な努力をもって乗り越えていく問題である事をまた示してくれた書であるともいえそうだ。
よろずもめ事・悩み相談の持ち込みは受付を停止しました
私は会社で仕事のことは当然のことながら、なぜか個人的な悩み相談を受けることもまた多い。何か解決策を示してくれると思われているのか単に話しやすいからなのか、いずれにせよ頼られるうちが花であると思い、なるべく話を聞いてあげるようにしていたのだが・・。
先日も新婚のE君がやってきた。E君の奥さんは同じ会社で才色兼備の誉れ高い、どこかアナウンサーの滝○クリ●テル似の大変な美人である。ところが相談というのがこの新婚間もない夫婦間のことなのだという。話はこうだ。
「彼女は大変な酒豪なんですけれど、家に帰るといつも僕のことなど関係なく一人で酔っ払って寝てしまうんです。そのうえ寝相が悪くて、とても隣になど寝ていられません。昨夜だって夜中に変な音がするので何だろうと思って見てみたら、寝ながら尻を出してボリボリかいている音だったんです。尻出してよだれを垂らして寝ているさまを見たら情けなくなってしまって・・。」
「酒豪なのは君も初めから知っていただろう。寝相が悪いのは君のそばで安心してリラックスしているせいじゃないのかな。」
「それだけじゃないんです。彼女は少々便秘気味なのか、トイレが長いんです。」
「女のトイレがちょっと長いくらい、普通だろう。」
「ただ長いんじゃないんです。やっとなんとか通じがあると、歌を歌うんです。」
「歌?トイレでか?」
「はい、本人が言うには勝利の歌だそうで、近所にも聞こえると悪いと注意したら、硬い便をやっつけて気持ちよく一日を始めるのに勝利の凱歌をあげてどこが悪い、と反対に怒られました。だって、こんな歌ですよ、
♪ひとつ出たホイのホイのホイのホイ、ひい~とりむすめと・・・」
「わかった、わかった、歌はいい、歌わなくてもいいから。まあ、快眠に続いて快便というわけだから、健康で何よりじゃないか。家族の健康が家庭円満の第一だよ。」
「それがまだあるんですよ。彼女は風呂で屁をこくんです。それも湯船の中で。こないだだって彼女が風呂に入っているとき僕はバスルームの隣の洗面所で歯を磨いていたんですけれど、バスから『ブキャッ!』という魚雷の発射音のような鈍い音がするじゃないですか、何事か?とおもった矢先にま『ブワン!』と大きな音がして、彼女が『あ゛あ゛~っ、すっとした、ガハハハ』と、こうです。次に僕がバスに入ったんですけれど、なんだかお湯が黄ばんでいたみたいな・・・。」
E君の滝●クリス○ル似の奥さんもまた同じ会社である。あの人当たりの良い美人がねえ、人は意外な面もあるものだと思ったがその日はあまり時間もなく、夫婦というものは情け無い面や負の面をさらけ出して、互いに受け入れあうものだよ、というような一般的な話をしてE君と別れたのだった。
だが、E君はこの相談の顛末を夫人にも話したらしい。後日、会社の廊下でE夫人である当の女史がなにやらこちらを睨み付けており、声をかけようと思ったら、プイと眼きりされて無視された。私的な秘密を知った私もまた悪者にされたに違いない。聞けばE君夫妻は冷戦状態だそうである。一方、会社での女性の間の評判は侮りがたいものがあるから、私もまた巻き添えを食って微妙を心配しなければならなくなってしまったのかもしれない。
【教訓】人の身の上相談や打ち明け話などは、つまらないものでも軽い気持ちで聞いてはならないものである。
厄介な他人を避けて暮らす
持ち回りの町内会の役員だの世話役だのをやってみると世の中の様々な局面が見える。
たとえばうちの町内会では老人が多いのに老人会への参加者は数えるほどで、
このままでは消滅してしまうと、老人会の推進派が勧誘にやっきになっている。
そもそも老人などと言うものは全体、卑屈で狡猾でわがままなものだから
そんなものを寄せ集めたところで楽しくはありますまいと、
思わず口から出そうになったがすんでのところで押しとどめた。
まあ、それでも老人会を毛嫌いする当の老人たちもおそらくそんなことを考えているのではなかろうか。
人は一人では生きていけないだのというのはまあ間違いではないが、会社以外にも人の輪を作りましょうだの、地域への参加を積極的にだのといかにも「あなたのためだから」と言う調子でいらぬおせっかいの口をはさんでくる者がいるとほとほとうんざりするのは確かだろう。
日本では「孤独」というのはネガティブなイメージ一辺倒であるけれど、ひとりでいることはそんなに悪いことばかりではないし、孤独の中にあってこそ全面的に自分と対峙することもできれば、全宇宙と交感することも可能だからこそ、思索を深めることも可能になることもある。
だいたい他人と言うものは厄介なものだ。どんなに仲が良くて波長が合うように見えても、行動をともにすれば必ずどこかでずれが生じて一方が他方に押し付けたり譲歩したりという葛藤が出てくる。
二人以上の集合を社会というのなら、これは社会的都合で生きることに伴うストレスの誕生である。 孤立も人間嫌いも積極的に肯定することは、社会的都合に人生資源を奪われることを防ぎ、自由な個人として自分を生きることの意思表明でもある。
最低限の社会生活を営む以上に無理して他人と合わせて生きることはないというのは皆わかっているのだろう。
冬を暖かく過ごす方法
ツイッター などで遠くの人たちと交感的会話とでもいうべき
なんでもない日常の景色のやり取りをしていると、
このところあちこちから初雪の便りも聞こえてくる。
晩秋から冬へと季節が駆け足で各地を駆け下りてくるようだ。
もっとも私は寒いのが苦手で、冬場はいつもなんとなく具合が悪いような気分で過ごすことが多い。もちろん暑いのも苦手で、夏場はいつも明らかに具合の悪さを抱えて暮らしているのだけれど。
ところが日本では暑くもなく寒くもない時期は極めて限られるので、
私はいつも不平不満と不調を抱えて過ごしていると言うわけだ。
厄介なことである。
一々不満を上げだしたらきりがないが、
とりあえず十一月の今目先の厄介は冬の寒さである。
寒さは歳とともにことさらこたえる。冗談が寒いのも懐が寒いのも家族が冷たいのも、みんな厄介だが、冬の空気の冷たい中を如何に快適に過ごすのかは毎年悩ましい問題だ。
部屋を暖めても廊下や隣の部屋は寒い。外はもっと寒い。全館暖房も可能だが、ケチな私は光熱費がかさんで懐が寒くなるのをもっと恐れる。着込めばいいが着膨れするのもまたうっとうしい。(こんなじぶんが一番厄介だ)
とはいえ結局手っ取り早い解決は着込むのが一番いいわけで、
毎年インチキ臭いとは思いつつ、暖かい下着だの、新素材の防寒ジャージだの
いろいろ愚かしく手を出してはたいした冬生活の改善には至ることなく
また不満を垂れることになるのである。
こんな歯切れ悪くうっとうしいのも、東京あたりの冬が中途半端なぬるい寒さだからということもあるだろう。もっと寒ければ徹底した暖房対策と寒さに対する凛とした覚悟というものが出来上がるだろうか。
ここいらでは暖房なしでも何とかなってしまうような気がするが、でもやっぱり寒い、
というような切れの悪い寒さにさらされていると、人間も踏ん切り悪く毛穴も開いて性根もまたなまってくるのかもしれぬ。
しかたがない、ナマクラついでに今日のところはアルコール燃料を補給して、内側から暖めることとしよう。
最近公共マナーを守れない年寄りの増加が社会問題化しつつあるが、マナーは自分を守るためにもある
N氏が自身の見合いの席から救急車で搬送された。
病気ならともかく、なぜか見合いの席でちょっとした傷を追った上、深い失意により、再起が、というより社会復帰すら危ぶまれている。
もともとN氏はいい年して独身である以外、普段は柔和な笑顔の印象的な紳士であるのだが、酒が入ると少々行動がメリハリがなくだらしなくなることがある。いつだったかも、料理屋で飲んで酔っぱらい手洗いに行くのが面倒になったN氏は縁側の先に行って暗い庭にめがけてチョイと用を足し、以降出入り禁止となった。またあるときは居酒屋で大用に使う個室の順番待ちが出来ず、手近にあったコンビニ袋にチョイとくるんでおいたはいいが、そのままそれが何か忘れてしまい、二次会、三次会とレジ袋を大事に持ち歩き、最終的には電車にカバンと一緒に忘れて帰ってしまった。そういう性向の持ち主であったのだ。
だがしかし、今回は事情が異なる。いくらN氏でも見合いの席でそんなことを進んでやるはずはないのだが、やるはずはないとわかってはいても、基調にそういう行動性向の持ち主であったことが災いしていたのは確かだろう。
見合い自体は料亭でごく普通に進んでいた。もういい加減年のN氏のこともあって、あまり堅苦しい次第はなく、酒も入り和やかなものだった。場の雰囲気もよくある程度時間も経ったところで、例にもれず、仲介役と親たちが「あとは若い二人で」と席を外したのだけれど、N氏は実は意外に緊張していたらしい。
トイレに行きたかったのだが、初対面の女性の前で用を足しに席を外すのがどうしてもできなかった。そうこうしているうちに女性の方が、ちょと化粧を直しにとそそくさと席を外してしまったのだが、N君もいっしょに席を立てばいいものを緊張のあまり、地が出てしまったのだった。
N君はこの隙にと、傍らの空になったとっくりというか銚子に出してしまおうと試みた。立派な大振りのとっくりであったから、口も大きく装着に問題はなく、これならあたりにこぼす心配もない。だが問題はなんとか出し終えたところにあった。
異常な事態が刺激となったのか、なんととっくりに突っ込んだモノが充血を始めたのである。このためとっくりから引き抜こうにも抜けず、N氏は深呼吸などを試みるのだが、今度は時間とともにとっくり内の温度が下がりだしたため、中の空気が収縮を始めたのだった。つまり外より中の空気圧が低いため、とっくりがN氏のモノをバキュウム吸引することとなり、充血が収まったのちもとっくりは腹の下に吸い付いて離れなくなってしまったのであった。
引けどもひねれども取れないとっくりに大いに慌てたN氏は、結局とっくりを床の間の置物でたたき割った。
グシャという鈍い音ととともにモノと小便が外界に戻ってきた。
「取れた・・・」
そこに相手の女性と関係者が襖を開けて入ってきたのだった。
その刹那、きっとN氏も緊張が一気に緩んでいたのだろう、皆が見たのは小便にまみれた下を露出させて呆けるN氏の大股開きだった。
その後、N氏は場を収集するためにかすり傷ではあったが大変な事態でケガをしたと言うことで救急車で搬送され、今は社会人としても男としても再起が危ぶまれているのである。
お見合いの結果は? はて、それはまだ聞いていない。
悟りとは、またなぜ悟りは免許や資格のように一度取得したら終わりでないのか
あ、今、「ぶーってのが、ドカンと出るからでしょう」、と思ったあなた、
発想が貧困であるよ。
当家は長く剣禅一如が家訓であったが、明治維新後の廃刀令に際し
もはや武家が刃物を振り回すご時世ではないことを悟り、
かといって、竹刀やたんぽ槍を振り回す板の間剣法をよしとせず、
剣や槍を捨てて新たな武禅一如を家訓としたのである。
なに、刃物や飛び道具を使わなかったら武道とはいえまいって?
武芸百般と言うように武術はなにも棒を振り回したり弓を引くばかりではない。
実際、小笠原流武芸修養書によれば、武芸百般の99番目が早飯の術、
100番目が早糞の術なのである。
(早メシ早グソ武家の習いというのはだてではないのだ)
そして当家では剣法を捨て早糞の術をもって武の道の習いとしたのである。
そんなわけであるから、朝一番に円滑にして充分量のナニを神速の技をもって
武道館の壷(これを便器とは言わず武道槽と称する)に納める事には真剣である。
そして武道槽の底に放出されたナニが見事な円相を描くことを至上の境地とする。
いわずと知れた円相は禅における悟りの境地をあらわすから、
早便をもって円相が成ったとき、そこに武と禅の合一を見ることになるのである。
もちろん、日々心身の状態は変わるから、
武と禅の合一は免許や資格試験のように結果的に至った状態ではなく、
日々の節制と心がけの持続への取組と工夫が要ることになる。
だから悟りとは「到達した状態」ではなく、
「日々取り組むべき課題」であるということは
この例をもってご理解いただけたことと思う。
【過去記事再掲】 聖老人の教え
前記事につけてもらったコメントで、老後の暴走についての話が出たので、
過去記事から憧れの老境に関する考察の分をここに再掲示して
そのコメントの話の返答としたい。
ま、誰しもたまには早いうちから老境の見通しについて考え、老後の展開に思いをはせてみるのも必要なことだろうと思う。
***
「老人になると、人は何もわからない子供に返ると言うけれど、実はそうではなくて、
より神様に近い子供に育つと言うことなんですよ。。。」
と、言うようなことをゲーテがファウストの冒頭の方でいってたような気がするが、
一方で夏目漱石などは吾輩は猫であるのなかで、「狡猾になるのも卑劣になるのも皆知ることの結果であって、事を知るのは年を取ることの罪であり、老人にろくな者がいないことの理である」、と言うようなことを述べていた。
実際見方によってどちらも真実であるけれど(ボケ老人になるか偏屈老人になるかという事かもしれないが)、どういう年寄りになるのかはある程度何年も前の生活習慣として人は選択可能なのかもしれない。
実はA君が最近体調を崩し、将来のことを考えることがあったらしく、「将来年取ったらオレは何をして暮らそうか」、などと真剣に悩んでいた。
まあ、若いうちから将来のことを考えておくのはいいことなのだろう。
会社のロジックですべての生活が左右され、定年と同時に役立たずの非社会適合者、やたら威張り散らすわりには何もできない世間の厄介老人になるという例もあることだし、まあ若いうちから社会的・会社的でない本来の自分を取り戻す準備はしておくのに越したことはないだろう。
「どうするよ?」
A君は真剣であるが、私もまたとくに明確な将来ビジョンはないものの、根が楽天家で、きっと面白いことになるかも、と根拠のない自信があるので、A君の真剣な悩みも面白い見物である、悪いけど。
そこでたまたま目についたのが駅前のベンチにたむろして、ワンカップ酒片手に
明るいうちからくだを巻く老人の集団である。
それは半分都市ジプシーのような住所も定かでないような老人達が酔っぱらって
口から泡を飛ばし、雑巾を引き裂くような声で互いにののしり合いながら昼間の
酒盛りをやっているのだった。
そこで私はA君に言った。
「ほれ、ああいうのがいいんじゃないか?老後の計画としては。
明るいうちから飲んだくれて、なにやっても大概のことは、
『嗚呼、あの連中じゃなあ』、とみんな見て見ぬふりをしてくれるし、
いったい人はいかに生きるかなんてロクでもない悩みにもきっと無縁で、明日の酒をどう手にいれようかと考えているうちに道ばたで行き倒れてつまらない俗世におさらばできるなんて、ある意味達観や悟りの上を行く覚者、聖人の域にあるのかもしれない。」
A君は真面目でないと思ったのか私をじろりとにらみつけたが、かまわずに私は続けた。
「だって考えても見ろよ、あの世には財産も持って行けない。あくせく働いた結果立派な葬式を出して大きなお墓を建てていったい何になる?
年取ってからだな、学問にせよ芸事にせよ、極めるには何をやるにももう体力も気力もない、アタマもぼうっとしている、食ってもたくさん食べれないから面白くない、その上長年働いた老人を見る目は、世間も家族も厄介者のお迎え待ちだときた。
そんなおまえがいかに生きるか悩みを抱えて残り少ない老いぼれ人生を過ごすくらいなら、すべてのしがらみや悩みを超越して目の前の酒と陶仙峡に遊んで暮らすっていうのは賢い選択でないとどうして言える?
そう思えば、彼らは野鳥のように天真爛漫で率直な生をおくってると言えるじゃあないか」
そのうちに赤ら顔の小汚い聖老人達は、酒のつまみの配分を巡って「天真爛漫」なケンカを始めたが、A君は呆れたように半分口を開けて、聖老人の群れを眺めていたのだった。
さてA君にはいいアドバイスになったのだろうかな?
ブログ友のaoriさんが編集した本が出たと言うので、見ました。で、買いました。
年金生活の便利帖 ひとりあたり月8万円で暮らしを楽しむ / 角川SSCムック |
この日曜日の朝日新聞読書ページで、歌手の一青窈が、良い本は見た目に内容が現れると思うが自分はこれを信じる、というようなことを書いていた。私もまた経験的に本に限らず機械や道具についてもその機能性能はデザインに現れると漠然と思っているところがある。
そこでこの本(aoriさんの編集によるもの )であるが、書店で手に取ってすぐにこれはいい本だなと感じるものがあった。
このムック本をたとえるなら、凄みのある絶世の美女ではないかも知れないが、黄色い親しみやすい表紙が安心感をともなってそっと寄り添ってくれる器量良しの看護婦さんのような印象がある。
そして実際に中身は外見の印象を裏切らず、知っておくべきあれやこれやの情報が一冊にコンパクトにまとまって、とても読みやすく構成されているのである。この手の本は知りたい情報が、読みやすく、お手ごろ価格で提供されていると云う点で、すでに成功だろう。
本書では限られたページ分量ながら、きっと誰しも抱える退職後の生活でのそれぞれの不安に対する情報がやさしく述べられているのである。 お金のこと、健康のこと、世の中との付き合いのこと、詐欺のことなど、一つ一つは控えめな情報量ながら的確にポイントは抑えられてある。
実は本書の内容は私にはまだ少々先のことかもしれないが、乱読家の私はここ数年様々な先賢の文書に触れては、社会的生活から個人的生活に移行する老後の暮らしと精神生活には期待することもあった。
もちろん老熟した精神生活だけでは暮らしは成り立たないから、精神生活と対をなす実務生活実践編ともいうべき本書には耳学問の間隙を埋めてくれる期待があったのである。 (そういえば、老境こそはわが憧れと言った女友達もいた。彼女は当時まだ20代だったはずだ。)
実際のところ私が該当年齢に達する頃には日本国はまだあるのか、あるいは人類が生存しているのか、それより何より年金制度が果たして存続しているのかは非常に心もとないのではあるが、誰にも老後は確実にやってくる。
誰しも、物心の両面で老熟した先の境地のことは早くから考えておくべきだろう。そしてこの本は年齢に関らず現代の大人全般に、現実的な生活取組の豊かなヒントを与えてくれる。




