舞台沼だとどうしても頭によぎる二択の問題がある。

『席』と『両隣・近隣のマナー』どちらが重要かだ。

 

 

まだコロナ禍のマスク着用が義務の時代、私は細心の注意を払い会場に向かい、自分の用意された座席に座った。

いつも開演まで持参した文庫本で時間を潰しているのが、今回はやけに会場が喧しく本が読んでいられないほどだった。

 

会場スタッフさんが「劇場内では私語厳禁」のパネルを持って声掛けをしているのに一向に静まらない。

見ていてスタッフさんがかわいそうな位だった。

 

そんな中、お隣の方が着席した。

私は異変を察知した。

 

お隣の席のお姉さん息が臭い。

 

お互いマスクをしているのに臭ってくる。

来場前に匂いのキツイ食べ物を食べた後とかではない。

お姉さんの健康状態を心配する口臭がする。

前の席の人も異変を察知したのかキョロキョロしだした。

この臭いの発生源が私だと思われても困るので私もキョロキョロしたり、発生源のお姉さんを横目で見たりした。

 

お隣のお姉さんはお友達と並んで着席したのだが、お友達は臭いに気にせず会話を楽しんでいて驚いた。

構わずに会話をしているのでお姉さんの会話のターン中ずっと臭ってくるので二重で迷惑だった。

 

開演さえすれば黙るしかないので開演までの辛抱だとその時の私は呑気に思っていました。

確かに黙るしかなくなったので臭いは無くなりました。

が、物語の節々で笑いが起こる度に隣人の口臭が再来するので私は絶望しました。

 

このままではいけない!

幕間になったとたんに私は隣人から離脱した。

何か対策を講じなければ...と思ったが何をどうすればいいのか分からない。

本人に直接「息が臭いんで息しないで」とも言えないしトラブルを起こしたくない。

スタッフさんに「隣の人の口臭がひどい」って伝えても、伝えられたスタッフさんが流石にかわいそうになり、私はただただロビーに避難する事しかできなかった。

 

絶望のまま席に戻り、私は鞄を漁った。

予備のマスクを取り出した。

本当は前半で取り出したかったのだが、開演中に鞄を漁ると近隣の人に迷惑かと思いじっとするしか出来なかった。

熱いし息苦しくなるのでしたくはなかったが背に腹は代えられないと思い、私はマスクを二重にした。

 

なんとこれが効果を発揮したのだ。

心の中で盛大にガッツポーズをきめた。

 

後半は問題なく集中できてとても楽しかった。

帰り際、目的地に着くまで電車で揺られながらふと疑問が生まれた。

もし私の友人の口臭が酷かったら本人に直接言えるかな...

私は言えないなぁと思ったら、同席していたお姉さんのご友人がちょっとだけ気の毒に思えた。

 

逆にもし私の口臭が酷くて気付いていない場合。

友人だけが迷惑してるわけではないと今回の件で知ったので、友人と一緒に観劇する時に必ず「今日私くさくない?」と聞くようになった。

 

そもそもソロ活動の方が多いので、一人の時は聞く相手がいないので制汗剤や香水に頼るしかない。

逆にそっちの方が匂っていたらどうしようとまた別の問題が生まれてしまった。

あれはまだ暑い夏、空がオレンジに染まり終えて薄暗くなってきた時だった。

 

私は、発券したての可もなく不可でもない席の舞台チケットを恨めしく見つめた後、サコッシュにしまいコンビニを立ち去った。

「席がご用意されただけでラッキー」と自分に言い聞かせながら足早で自宅へ向かった。

交通量が多い道とはいえ、街灯が無いので陽が完全に落ちると少々怖いのだ。

 

いそいそ歩いていると、薄暗い住宅の物陰から白いポロシャツとスラックスをはいた男性が立ち上がった。

手には包丁が握りしめられ、車道を走り去る車のライトがそれに反射していた。

 

夕暮れとはいえまだ危険な外気温が一気に冷えたのを感じた。

同時に私の心臓は以上な速さで振動していてる。

 

どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう

 

異常な緊張で頭がうまく回らない。

そもそも武器を持った男性と対峙した時の対処法なんて判らない。

こんな危機的状況なのに、私のどうしようもなく舞台に染まった頭は『刺されて入院したら観劇予定日までに退院できるのか』を議論していた。

 

雑念にまみれた頭で思考を巡らせ、あまり刺激を与えてはいけないと思い、このまま歩く速度を変えず、でも視線だけは男性を捉えながら通り過ぎて様子をみようと決心した。

これが最善なのか分からないがやるしかない。

バクバクと脈打つ心臓が痛い。

緊張しすぎて速足になっていないだろうか...逆に刺激したらどうしよう...

多分絶対微妙な座席だと思うけど行けなかったらどうしよう...

通り過ぎながら眼球をこれでもかという程寄せて男性を凝視した。

 

男性の視線は私の方を向いていなかった。

 

薄暗くて分からなかったが、そこには家庭菜園があった。

男性は庭で野菜の収穫を包丁でしていただけだった。

私の勘違いだった。

 

冷え切ったと思った外気温が一瞬にして元の猛暑に戻った。

同時に頭がどんどん冷静になっていく。

 

そういえばここは○○さん家だ...

よくみたら○○さんのお父さんだ...

前に母が伺った時にも、包丁で野菜を収穫していてちょっと怖かったと話していたのを思い出した。

 

疑ってしまった後ろめたさと恥ずかしさでいっぱいになりながら帰宅し、事のあらましを母に伝えたら大笑いされた。

でも外で包丁を持った人と遭遇したら普通に怖いので笑いごとにしてほしくない。

部屋に戻り、発券したチケットに表示してある座席を劇場の公式サイトの座席表と照らし合わせ場所を確認した。

やっぱり最速先行でこの位置は微妙だと思うし、こっちの方がホラーな気がした。

―好きなものを観て休日をはじめたい。

 

そう思っただけなのに目の前に広がる惨状はいったいどういう事なのだろうか...

私は休日の午前中から頭を真っ白にしていた。

 

 

今日は録画を貯めておいたアニメを観ようと思い、部屋の掃除を終わらせ、風呂の掃除もして、昨日の作り置きの料理をレンチンしていた。

レンチンしている間はほんの数分なのだが、その時間すらも惜しくて私はリモコンでアニメを再生した。

OPになった時にレンチンが終わったので、料理をテーブルに運ぶ。そのはずだった。

いつもなら火傷しないように料理用ミトンを使用するのだが、その時の私は横着して素手で運ぼうとした。

目の前にはスローモーションで私の手から滑り落ちる昨日作り置きした牛肉の塩コショウ炒めが宙を舞っていた。

床は先ほど急いで掃除したばかりだ。絶対に汚してなるものか!

だが素手で熱々の食器に触れたせいで、落ちる食器を受け止める事が出来ずにただ割れる様を眺める事しかできなかった。

 

以前も似たような事がおきた。

その時はギリギリで落下防止できた成功体験が今回の失敗を引き起こしたのかもしれない。

私の心情とは裏腹に軽快な音楽のOPが流れるリビングで私は静かに立ち尽くしていた。

 

「やっちまった...」

 

何故いけると思ったのか。どう考えても無謀だった。

後悔ばかり出てきて体が動かない。

私は床にぶちまけた朝食になるはずだったものを眺めながらしばらく動けなかった。

だが急いで後始末をしないと汚れが落としにくくなるかもしれない、と思ったら速やかに動く事が出来た。

 

まず、太陽光に照らされたフローリングの床の反射を確認しながら汚れを踏まないように安全地帯に移動した。

そしてリモコンを手に取り、楽しく進むストーリーを一時停止した。

ティッシュを箱ごと持ってきて「食べてやれなくてごめん...」「もったいない事をしてごめん」と語りかけながら処理をした。

 

 

処理をし終わってから、私はまた新たな問題に直面した。

私はレンチンする順番を、ご飯→汁物→メインの順にチンしていた。

先ほど私がうっかり落下させてしまったものはメインだ。

 

「何食べよう...」

 

メインディッシュを失ってしまったので振り出しに戻ってしまった。

私は昨日の作り置きをあてにして朝食の献立を考えていたので、また頭を真っ白にした。

冷蔵庫を開けると、失ったメインを張れるような食材は無かった。

しかし作り置きは二つに分けて保存しておいたので一応予備がある。

しかしこれは兄のだ。後でバレるとヤバいと思い、手を伸ばすのをやめた。

 

冷蔵庫を漁りながら、パンを焼こうか...パスタを茹でようか...と思ったが、テーブルには既にチンしたご飯と汁物がある。

こいつらは何としても私の胃に納めなくてはならない。

私はフライパンを手にとり目玉焼きを焼いた。

もしかしたら私は楽しい休日にしようと頑張っていたのかもしれない。

普段通りにしていればあのような失敗はしなかったのかもしれない。

そう思っていたら、好みの半熟を超えていた。

こういう所だぞ。自分。と思いながら皿に盛り、今度こそテーブルに並べて休日をはじめた。