最近読んでいるのがアマルティア・センの「アイデンティティと暴力」です。
読みながら、中東やイスラームについての自分の立場の変化を
思い出しました。


「X: 中東って怖い! イスラーム教徒は怖い!」と言われがちなこの世の中に対し、

「A: 中東やイスラームって怖いものなの?」と思ったのが浪人1年目。
「B: 中東は優しい! イスラームは寛容だ!」と主張し始めたのが大学1年目。
「C: 中東にも、イスラーム教徒にも、いろんなのがいるよね。(遠い目)」と言い始めたのが
留学から帰ってきた後、大学4年目のことでした。


中東やイスラームを「危ないもの」として塗り潰す主張Xに対し、
私の過去の主張Bは浅はかだったと思いました。とりあえず熱いけどバカだった。
どうしてかって?
物事を白か黒かで塗り潰す視点において、
XもBも大して変わらないからです。
色が違うだけです。
同じことしてるんだから、BはXのやり方や視点を根本的には否定出来ない訳です。
乗り越えられないんです。


中東に行って、素晴らしいイスラーム教徒やどうしようもないイスラーム教徒を見ました。
日本に暮らす彼らを見ても、やっぱり素晴らしい人もどうしようもない人もいました。
しかし、どうしようもない人はどうしようもない人なりにチャーミングであり、
例えば父であり、息子であり、例えば日本における”ガイジン”として苦労をし、苦悩し、
一生懸命生きていました。輝く瞬間もありました。


そういうのを見たら、
「◎◎は悪い奴だ!」とかいう言葉と同様、
「イスラームは寛容だ!」とか、
「パレスチナ人はいい人だ!」とか、
批判の言葉をまるっきりひっくり返したような言葉は
口が裂けても言えなくなりました。
そんな私の今の立場が、C。
人は、物事は白黒では語れない。色鮮やかでディープで、その時々で色味が変わる。
もちろんその中には、白も黒も含まれているけれども。


思えば、Aの問いを投げかけてからCにたどり着くまで4、5年はかかった訳ですが、
抜本的な変化は現場の1年でもたらされています。
また、これから変わるかもしれません。希望をもったり絶望したりしながら。
しかし現時点の私は、良い言葉でも悪い言葉でも「◯◯は××だ」と言い切る人を見ると、
ちょっと現場に1年いってきなさい、悪いこたぁいわないから、
と説得してあげたくなります。


横浜の駅前でたまに大きな声で演説してる黒服の人達も、
そんなに危機感があるんだったら1年くらい敵情視察に行けばいいじゃないですか。
その勇気と根本を見る問題意識がないから、
酔っぱらって吠え続けているだけなんでしょうけどね、安全なところから。

それと同じことを、
「パレスチナ人はみんな良い人達だ!」と主張する人に対して
思います。昔の私も含めて。


「障害者」も、「パレスチナ人」も、「イスラーム教徒」も、「イスラエル人」も、
100%悪い奴らでも100%すごい人達でもない。
ひとです。不安定で不完全でチャーミングで可能性を秘めている、ひとです。
どうしてそれを、私たちは忘れてしまうんだろう。ね。


@湘南新宿ライン