自分の父親との確執など、真面目に考えるほどの意味はないと思っていた。
 私の父親は年収1000万円を超えるサラリーマンで、仕事人間だった。私と弟は私立高校、私と姉は私立大学に進学し、学費はすべて親が出した。子どもの免許代は親が出すという考えがあり、大学1年の夏休みに取得した免許の費用も全額出してくれた。経済的な不安はまったく感じずに就職することができたのは、間違いなく父親が高収入だったからだ。
 しかし、思春期の息子が父親に感じていた気持ちは、必ずしも経済的な豊かさに比例しない。子どもの世界など実に狭小で、自分と関わる世界がすべてだ。中学生の頃の日記には、仕事人間の父親を一丁前に批判した内容が書かれているが、父親との時間の少なさが、父親への批判の始まりだったと思う。要するに寂しかったのだ。
 仕事人間とはいえ、私の父親はまったく家にいないわけではなかった。家族全員でトランプをしたり、食卓テーブルで卓球をしたりした記憶がある。結構な頻度だったと思う。休日にキャッチボールをしたり、部活の試合を観に来たり、早朝マラソンの練習に付き合ってくれたり、多忙な中時間は作ってもらっていた方なのではないか。それでも、ほとんどが仕事ばかりという印象はやはりあった。
 私が高校生になった時、両親の関係はより複雑になっていた。当時は知らなかったが、父親は同僚と不倫しており、母親は何度も不倫を止めるよう懇願したという。父親はその度不倫の解消を約束し、数年後に同じ相手との不倫を母親が咎める、ということが何回かあったと後に知る。私の高校進学、姉の大学進学が重なった年、父親以外の家族は札幌に転居し、父親は東京で単身赴任をすることになった。表向きはただの単身赴任だが、夫婦の間で子どもたちも知らない何かがあったのだろう。母親は不安定になっていた。高校生の私は自分の生活にも精一杯だったので、母親が精神的に不調を来しているいることを感じていたものの、とにかく自分が母親の不安材料にならないようにと取り繕うので精一杯だった。母親は更年期障害も重なり、些細なことで怒鳴ることも増えた。帰宅した母親が玄関の靴を見て、靴がそろってないと怒鳴ったこともある。何をそんなに怒鳴る必要があるのかと思ってはいたが、母親の情緒が安定するならと、自身の行動を改める程度の良心は私にもあった。
 大学進学をきっかけに、実家の札幌を離れて東京で単身赴任中の父親と同居することになった。そして大学3年の頃、「あなたも二十歳になったから。」と言って母親が父親の不貞について語りだした。私は母親と一緒になって父親を責めたて、殴って肋骨を負傷させた。父親は母親と関係修復する目的で、私が就職する年に札幌に戻った。私は念願の一人暮らし、両親は関係修復の生活が始まった。
 しかし、結局1年経たずに両親は離婚した。熟年離婚だ。決定打になったのは母親が父親の不倫相手を相手取り、裁判を行ったことだ。しかも敗訴した。その後の母親の情緒不安定はもはや想像を絶する。カウンセリングも受けていたし、電話で話せば父親に対する恨み辛みが漏れた。いつしか母親の不幸が自身の不幸のように私の心を巣食い、もともと少なかった父親に対する尊敬は瞬く間に失われていった。
 そもそもが経済力以外に特に尊敬する部分が少ない父親だったという事実は否めない。トラブルが起きると場当たり的な対処しかせず、問題の根本的解決は先送りする人だった。自分に自信がなく、断ることや議論することができない人だった。社会性が高かったから仕事はうまくいったのだろうか。今でもプライベートで信頼できる友人はあまりいない生活を送っている父親を見て、私は冷ややかな対応を取っていた。自分が子どもを授かり、家族最優先の人生観で生きていることも、父親への軽蔑に拍車をかけた。経済的な豊かさより共に家族と過ごす幸福を優先しているという思いが、私の偏った父親批判には良い刺激になっていた。
 私が父親への憤怒と蔑みに支配されている中、私と小学生になった息子との関係に悪い循環が生じ始めていた。息子の言動にイライラし、息子に過剰に叱咤している自分を自覚していた。息子は私に怯え、私の前では良い子に振舞うようになった。そのおどおどした態度にもイライラし、更に息子に厳しく当たるという悪循環だ。私自身自分の感情をコントロールすることができず、自己嫌悪するようになった。
 私は、たくさんの人に自分の問題について話し合う時間をもらった。元上司や職場の同僚、そして妻だ。誰よりも身近に私の言動を見ている妻は、私にたくさんの気付きを与えてくれた。もっとも、素直に妻の言うことを聞いていたならば、私はもっと早くに自分の問題に気付いていただろうが。次第に、私は私の父親に対する過剰な負の感情を自覚せざるを得なくなった。なぜこんなにも父親を恨んでいるのか。理由は挙げればきりがない。母親を苦しめたことは言わずもがな、人として尊敬できるところを探す方が難しい。しかしだからといって、私が恨む理由になるかといえば、いささか疑問が残る。本当にどうでも良い存在なのであれば、無関心で済む話だ。しかし私は、父親への説明しようのない怒りを抱えている。この根源はなんなのか。その答えが、私と息子の関係修復に絶対必要なものだという考えが日に日に確信に変わった。
 そしてその日が来た。私は、「父親を愛しているんだ。」という答えを出した。自分でも苦しさを抱えながら出した結論だった。認めたくない思いがずっと心に残っていて、認めようとしていなかった。父親を愛しているからこそ、その反動での恨みも大きくなっている。しかし言葉として出てくるのは、恨みばかり。見てみぬふりをしていた慕情が、私のイライラの原因だった。
 自分の心にしまっていた感情に気付いた時、いや、気付いてはいただ言語化していなかった気持ちを言語化した時、私は、私の心が晴れていく感覚を自覚した。それから、父親から授かった言葉を家族に話すことや、父親からの愛情に素直に応じることが自然にできるようになった。話した後に、以前の自分なら今の言葉は出なかっただろうと気付くことが何度もあった。
 息子との関係は、この時期から変わり始めた。私は、息子と過ごす時間を楽しむようになった。もちろん、急激な関係の変化は望めない。それだけ、私が息子に与えた理不尽な恐怖や威圧は相当なものだったに違いない。息子は今でも私の顔色を見ているし、私のいる時といない時、はやり態度が違うと妻の話からわかる。しかし、それも息子が原因ではない。私がそうさせていると今は思えている。私は、これから長い時間をかけて、息子に与えた負の影響を取り戻さなくてはならない。簡単なことではない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。それは今までもこれからもまったく変わらず、私は息子を心底愛しているということだ。私の問題で息子が問題を抱える未来は望んでいない。もちろん、未熟な私も含めて私にとっては最善を尽くしてきたつもりだし、それはこれからも変わらない。出来ないこともある。しかし、出来ることもある。私はこれからも、出来ることを出来るだけやろうと決めている。
 そして、きっと父親も同じように考えていたのではないかと今は思う。確かに未熟な人間だ。私も父親も、未熟だ。未熟故、混乱が生じた。その混乱も、私たちの人生の一部なのだと、今は思える。息子の幸せを、心から願っている。