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small planet

日々の散文。
もしくは 独り言。

先日とあることで新聞記者の方にちょっとした取材を受けた。
特に多くの事を聴かれたわけではないのだが、内容が自分の関わった事であったので仲間たちと写真を撮影してもらうことになった。

実を言うと私は写真をとられるのが心底大嫌いだ!!
しかし、その場でそんなことを言いだして断るのも大人げないのでじっと我慢して写真に写った。

ただ、今でも悔やんでいる。
やっぱり言うんだったと。
そして、中でも記念撮影やスナップが嫌いなのだ。
勇気を出して言わなかったのでしばらくはその写真が他人の手元に残るであろう。
それがまた嫌な感じだ。
写真撮影をするのは好きだ。
楽しげにしている人の自然な姿を写したものは大好きだ。

記念撮影をする瞬間のあのインスタントの笑顔を作ることが大の苦手である。
全然楽しくないのに笑えない。たとえ嫌な気分ではなくても急には笑えん。
昔、街を歩いていてファッション雑誌のスナップ写真に掲載されたことがあったが、やはりその時にも「笑ってください!」
なんて言われて「笑えません!」と言い放ったことがある。
そんなのだから「どうせ載らないだろう・・」と思っていたら、まんまと翌月に掲載されて妹に「乗ってるよ(笑)」と笑われたのであった。


その昔、信友の絵里ちゃんが「良いことをすると新聞に載るんだよ」と祖母に言われて、翌日から親の手伝いを進んでしたり
庭の草むしりを必死でやりつつ、毎日、新聞をチェックしたのだが待てど暮らせど新聞に自分が掲載されない事に嫌気がさして
「あほらしい」とやめてしまった話をよく聞いた。

そのお婆ちゃんの説によると、自分は「良いこと」をしたということになるのだろうが、そんな良いことをしたのに
「写真」にまで載るなんて自分はどうかしてる。と自分に言いたい。行いを褒めてもらっただけで自分を露出する必要はなかろう。
私は「へそ曲がりの天邪鬼」だ。で、あるからこその行動を起こしたのに、当たり前の手法に満足したみたいに断りもせずに写真に
写った自分がクソだと思う。
やはりその「良い行い」自体がフィーチャーされただけで良いのだから写真なんて必要ないのだ。

無論、もっと写真に写るべき人たちが居たのだから断っても良かったのだ。
これではまるで、「自分がやりました」と言っているようなもので偽善である。
とにかく、「嫌な事」を嫌だと言わせない世の中が嫌いな事が自分の原点で、今日の自分が存在する。
だからこそ、声を上げられない誰かの代弁をしたり、「NO」と言える世の中や社会にしたい、どんな人も生きやすい社会が望ましいと思いながらの毎日であるのだ。

我ながら、自分は「バカ」じゃないかと思った。
そんな自分の失態がしばらく脳裏に焼き付きその新聞を目にするたびに心底うんざりである。
これは「教訓」にしよう・・。自分のポリシーを曲げるとこんなに浮かない思いをするのだと・・。
次からは「嫌です」と言おう。断る権利くらいあるだろう。

スターリンを脳内再生しよう。
ミチロウ君が唾を吐いてくれるだろう。

夜更けのパンク魂がふつふつするのであった・・。






ふと気が付くと「ここ」にいて、自分が歩いてきた年月の記憶が薄れていることに気が付き落胆する。
おかしなことに「両親」の面影が薄れ、遠い昔の大切な「記憶」の数々が色あせていることへ不安が募る。

私はどうしてしまったのだろう・・・。
家族のいた風景や、大切な情景が心の片隅からまるで「散歩」にでも出かけているかのように帰宅しない。
子供のように泣きたくなるのだ。「時代」を恋しがり、今ある「現実」を信じられなくなる。
誰に助けを求めるべきかすらにも迷う。 今存在している「自分」すら薄れてしまいそうになる・・。

そんな思いを「彼女」は語る。 彼女は「認知症」だ。

ユーモラスで感情豊かな彼女の中に在る、「哀しみ」。

彼らは時として、私たちが驚く表現をする。
眠らない・食べない・怒り・幻覚・・・・。
それらは全て、彼らの中にある「事実」であり、流暢な言葉の代わりに使われる「方法」だ。
私達は、理解ができないときにそれらのなけなしの「表現」すらも「軌道修正」しようとする。
答えは簡単だ、彼らの「理屈」が自分たちが信じている理屈と異なるからだ。
そんな風に、すぐに気が付けずに私達は流されてしまう。
自分たちの持つ『エゴ』に。
そして失敗をする。

もちろん彼らはそんなことに屈せず必死に「表現」を続行しようとする。

私達は悩む。自分の理屈に見合わないからだ。
そして、妄信的に「こうでなくてはならない」と彼らの日々を仮設する。



アラヤタツローというシンガーソングライターが彼女のために曲を書いた。

彼は出会ってすぐに、認知症と共に生きる一人のお婆ちゃんに『きおく」という曲をプレゼントした。
彼女の誕生日のプレゼントとして。新しい想い出を贈るために・・
彼は言った。『次々と言葉が浮かんできた・・』と。
たぶん、彼は想像したのだろう。彼女の想いに寄り添い「心」を使ったのであろう。

彼らは様々なカテゴリーを捨てて「心」を通し、繋がりあったのである。

私達は「専門職」などと呼ばれ、ケアの神髄を毎日叩き込まれる。
その中にはもちろん「心の目」を使うように教えられる。
それなのになぜいつも同じように躓いてしまうのだろう??
心を見落としてしまうのだろう。「眠らない事」に苦悩するのだろう、なぜ「眠ってほしい」と願うのだろう・・。
私達は、難しいことを考えてしまうのかもしれない・・。
「病気」というものを意識しきしながら。

学ぶことはと尊いことであり、それはいつしか「財産」になる。
然し「感じる事」はそれ以上の価値をもたらすことがある。

私たちが長い年月をかけて彼女と築いてきたものに、彼はほんの一瞬で言葉にメロディーまで乗せた。
それは、彼がいつでも心を柔軟に使いこなしているから出来る事なのであろう。
もとい、彼の生業が「歌う事」であるからなのかもしれないが・・・。

私は、この曲に願うのだ。

聴く者たちが何らかの「感情」を産み出すことを。
そして目の前に佇む誰かの想いに目を向け、想像し、共感し、何かしらの感情を紡ぎ合う関係性を築いてくれることを。

私は時として感じている。
「テキスト」は、ほんのお手本にしかならず其れが全てではないし、事実はもっと複雑で「答え」などないのだと。

彼が、あっという間に曲を仕上げる事が出来たのは、誰の真似でも何かをお手本にしたわけでもなく、
只々、「彼女」の心を想像することに徹したからなのだろう。

はじめて曲を耳にした彼女は言った。満面の笑みをみせて
『生きるって、このお兄ちゃんのような人の事だと思う。優しい言葉。それが嬉しい。』

私はその姿を見て感じた。
『専門職』などと言われる自分たちなどちっぽけであり、必要なのは『専門性』である前に『人』として感じる心なのだと。

どんな専門性をもってしても『知識』だけでは、『音楽』を通して感じる感覚や、感動を覚えた時に生じる感情のさざなみは作り出せない。
だからこそ、この曲を多くの人に聞いてもらえたらと感じる。
彼らは、「生産しなくなった存在」なんかではないし、「わからなくなった人」ではない。
自分なりの方法で表現し、彼に曲を書かせてしまうだけの「感性」を維持してる。

彼は、時々このお婆ちゃんに会いに来てくれるようになった。
彼は、ギターケースを引っ提げてやってくる。
食卓を囲み、大きな声で歌を歌う。
隅のソファーで眠っているお婆ちゃんは飛び起きてやってくる。
『うまいねぇ。前にも来た子でしょ?』なんて感想をいい、
重度の難聴で聴こえが悪く、言葉が上手に発せられないお爺ちゃんが手をたたきリズムにのりながら言う。
『いいね!すごいね、楽しいね。』
そしてモデルとなったお婆ちゃんが言う。
『この人が私の歌を作ってくれたんだよ。』

認知症の人にとって『静かな環境が良い』。
この思想は完全無視である。
結果生まれたのは『笑顔』だ。決して『不穏』ではない。

なぜなら、彼は心をこめて歌うからだ。

私達がすべきことはいったいどんなことであろうか??

たぶんそれは、『心』を使って『想い』に耳を傾ける事なのかもしれない・・・。





アラヤタツロー
『きおく』
4月15日
iTunes Store
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Amazon.com 配信









異色の文化と交流を持ち「感性」を養う。

普段じゃ味わえない感覚と衝撃を味わってもらいたいのだ。
だから、新しいことをしたいのだ。

私の中のテロルがそういっている。

毎日が忙しいのだ。
心が忙しいのだ。
人は、そう簡単に感性と日常を融合できない。
なぜなら、目の前に繰り広がることで精いっぱいなことが多いから。

天使は地上じゃちっそくし。

出来ない奴の気持ちなら良くわかるのだ。
私など、いまだにできない奴だからだ。
この年になってもなおである。

幸福感を売るものが私は嫌いだ。

だから目線は今一つ天井を、空を見ていない。
かと言って地上を見据えているのかと言われたらそれだって何とも言えやしない。

日常に潜む矛盾に唾を吐きたくなるのだ。

私の中の神髄は、「幸運」からは成り立っていない。
どちらかと言えば「苦脳」からなしえたものだ。
だからこそ、「できそこない」の事が愛おしい。
その中にこそ「未来」があるような気がする。

「大人」などこの世に存在しているのだろうか?
きちんとジャッジできる心眼を持った者などいるのだろうか?
どこかで、何かに浸食されているきがする。

誰かが誰かをひょうかする。

評価をされることもすることも私は好まない。


つまんね。

なれ合うことも嫌いだ。

一人は寂しいが、それも仕方ない。

デリカシーがない大人になるのはごめんだ。

どうして自分は齢をとってしまったのだろう。

たぶん馴染めない。
社会にはなじめない。
すでに馴染めていない。

でも悩んでもいない。

「みんなちがって、みんないい」
そう言っている人を推奨する世の中のくせに、
それではだめなこともそんざいする。
わたしは、ちがっていることで散々さべつされた。

だから、わたしは弱い奴を差別はしない。




かまってちゃんを聴きながら・・。