私が個人的に想うことを書いておきます。
人々はこれを理解することはなく、私は人々から憎まれるでしょう。
自身の為に願うのではなく、憐れな者の為に祈りなさい。
信仰と憐れみ、そして神の愛。
これらはみな同じものです。
それがあるならば、如何なる神の名、如何なる教えの下にあろうとも貴方達は仲間です。
貴方が人を憐れみ助ける時、神は貴方と共に在ります。
天の国は、その時そこに在ります。
愛を与えられ、心に喜びと感謝が無ければ、これを理解することはできないでしょう。
これは体験であって、努力や学習で得られる技能や知識ではありません。
『子供の様にならなければ天の国に入ることはできない』と聖書にある通りです。
どんなに解りたいと願っても時機が訪れる迄は解りませんが、それは本人の過失ではありません。
神の愛は心の内から湧くものですが、教会の教えはそれを外から頭に刻み込もうとしているかのように、私には想われます。
『これらのことを知恵有る者や賢い者には隠して幼子の様な者にお示しになりました』と聖書にある通り、知識や権威が重んじられ、他のものが見えなくなっていることがあまりに多いのです。
多くの人が地上での自身に対する御利益を求めて神仏に祈り願います。
御利益が無ければ意味や価値が無いと云う人もいます。
はっきりと申し上げますが、地上に見返りを求めれば神の愛は失われます。
それは花が枯れて土塊に戻るようなものです。
このように云うと人々は私のことをサタンのように思うでしょうが、これは律法を否定するものではなく寧ろ補完するものです。
はっきりと申し上げますが、全ての「宗教」は政治的な地上の産物です。
イエスの教えは「宗教」とは違うところに在り、それはキリスト教の中に潜んでいます。
本当は潜んでいるわけではないのですが、人々が辿り着くことができないでいるのです。
教会、組織で地位や権威を有し利益を得る者は、利益を得た体験が価値観となって神の愛を商売の道具としてしまうことがあるかもしれません。私は、それを警戒しています。
「マルコによる福音書」が弟子達が福音を伝えに出かけるところで終わっているのは、大変興味深いことです。
私は放蕩息子のように地上を歩き、荒野に迷う子羊を見かけたら手助けをする、そのような者でありたいと願っています。