雑虚ビル

雑虚ビル

 
 内容が変わって、かなりどうでもいいことを書いていたりします。
 コメントの返事が遅れると思いますが、ご容赦下さい。


ウサギ宣伝代わりのペタが多いので、まことに勝手ながらペタはOFFにさせてもらいました。

ウサギ不定期更新中
ウサギ著作権に関しては、文化庁のページを参照して下さい→http://www.bunka.go.jp/chosakuken/index.html

貴方方は、無償で与えられた灯火の光で周囲を照らしなさい。
貴方方は、無償で与えられた灯火の光が周囲に及ぶときに代金を求めてはならない。
貴方方は、無償で与えられた灯火の光を持たない者を蔑んではならない。
貴方方の灯火は、灯火を持てない者達の為に与えられたものだからだ。
貴方方は、灯火をもって集い自分達が選ばれたと喜ぶのではなく
灯火をもって散り野に下り、暗闇に迷い嘆く者達に灯火を届けなさい。
灯火は分けても減らず、数を増します。
これをこそ喜びなさい。
その喜びこそ灯火を与えてくださった天の父の喜びなのだから。
喜びを共にする時、天の父は貴方方と共にあります。
これをこそ喜びなさい。

私が個人的に想うことを書いておきます。
人々はこれを理解することはなく、私は人々から憎まれるでしょう。

自身の為に願うのではなく、憐れな者の為に祈りなさい。

信仰と憐れみ、そして神の愛。
これらはみな同じものです。

それがあるならば、如何なる神の名、如何なる教えの下にあろうとも貴方達は仲間です。

貴方が人を憐れみ助ける時、神は貴方と共に在ります。
天の国は、その時そこに在ります。
愛を与えられ、心に喜びと感謝が無ければ、これを理解することはできないでしょう。
これは体験であって、努力や学習で得られる技能や知識ではありません。
『子供の様にならなければ天の国に入ることはできない』と聖書にある通りです。

どんなに解りたいと願っても時機が訪れる迄は解りませんが、それは本人の過失ではありません。

神の愛は心の内から湧くものですが、教会の教えはそれを外から頭に刻み込もうとしているかのように、私には想われます。

『これらのことを知恵有る者や賢い者には隠して幼子の様な者にお示しになりました』と聖書にある通り、知識や権威が重んじられ、他のものが見えなくなっていることがあまりに多いのです。

多くの人が地上での自身に対する御利益を求めて神仏に祈り願います。

御利益が無ければ意味や価値が無いと云う人もいます。
 

はっきりと申し上げますが、地上に見返りを求めれば神の愛は失われます。
それは花が枯れて土塊に戻るようなものです。

このように云うと人々は私のことをサタンのように思うでしょうが、これは律法を否定するものではなく寧ろ補完するものです。
はっきりと申し上げますが、全ての「宗教」は政治的な地上の産物です。
イエスの教えは「宗教」とは違うところに在り、それはキリスト教の中に潜んでいます。

本当は潜んでいるわけではないのですが、人々が辿り着くことができないでいるのです。

教会、組織で地位や権威を有し利益を得る者は、利益を得た体験が価値観となって神の愛を商売の道具としてしまうことがあるかもしれません。私は、それを警戒しています。

「マルコによる福音書」が弟子達が福音を伝えに出かけるところで終わっているのは、大変興味深いことです。
私は放蕩息子のように地上を歩き、荒野に迷う子羊を見かけたら手助けをする、そのような者でありたいと願っています。


 


 私達は、毎週教会に通いミサにあずかり、多少なりとも高尚な気分になって帰途につきます。

 私達にとって、イエスの教えは山に至る為の道標のようなものだと、私は思っています。

 どうして山なのかというと、モーセもイエスも山に登っておられるからです。
 彼等は山で主の声を聴きましたが、私達はその高さまで辿り着くことはできず、彼等を通して主の声を受け取ります。

 私達は、長い夜を過ごし夜明けを待ち望みますが、輝く太陽を直視し続けることは出来ません。
 それは、モーセの民もイエスの弟子達も同じでした。

 道標と云えば如何にもな感じもしますが、実際のところは道路標識ぐらいのものでしょう。
 私達は、道標に気づき山に登っているというのに、事ある毎に元の場所に戻ってしまいます。
 ピクニックにでも来たかのように、空腹を満たす為に帰ったりお金を稼ぐ為に戻ったり。
 私達は毎週、教会と社会、山と町の間を行き来します。

 私達は、地上と天上の間を右往左往するだけの者なのでしょうか?
 私は、やりきれない気持ちになりました。
 機会を与えられたというのに、道標がしるされているというのに、私達はその周囲に群がるばかりなのですから。
 
 初めて道標に気づいた時、私は喜びと高揚を覚え主に感謝し誇らしい気持ちになりました。
 私は、その喜びが間違っていたと思ってはいません。
 「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。」と聖書にも書かれています。
 幼子を拙いと責めるのは、おかしなことです。

 私は、何処に行けば何処まで行けばいいのでしょうか?
 聖書の言葉は続きます。
 「成人した今、(わたしは)幼子のことを棄てた。」
 私の幼子の時期は、終わろうとしているのかもしれません。

 日々の中に新たな道標に気づくことができれば、私も成人になることができるかもしれません。
 時機の訪れは人それぞれで、本人だけではどうにもならないこともあるといいます。
 時機が訪れるのが何時なのかは判りません。
 私に出来ることは、時機の訪れを信じること。
 そしてそれを知ることができるように目を覚ましていることだけです。