ブロードウェイ。


ストラスフォード劇団。


稽古場の噂は、音もなく広がっていた。最初は、照明係のひとりが言い出した。


「……昨日の稽古、観たか?」


それだけだった。


だが、翌日には、音響室で、舞台袖で、スタッフルームの片隅で、同じ言葉が何度も繰り返されるようになった。


「芝居が始まってないのに、テリュースが入ってきた途端、空気が変わるんだ」


「台詞を言う前からもうハムレットだ」


「あの間が怖い。あんなのはじめてみたよ」


照明チーフが、プラン表を指で叩きながら言った。


「フォロースポット、正直追いづらい。ヤツは動かないのに、視線がそこに吸われて自分の仕事をつい忘れちまうんだ。あれは……存在感って言葉じゃ足りないな」


音響の若いスタッフが、ヘッドセットを外して頷く。


「あれ、声量じゃないですよね。まるで息が……届くような気がするんだ。最後列の席まで」


衣装係の女性は、本来なら稽古場に来る時間ではなかった。だが、今日も客席の端に座って稽古を観ている。


「仮縫いの段階でわかったわ。あの人、衣装を着るんじゃないの。役を背負うのよ」


小道具係が、木箱を抱えたまま呟く。


「ハムレットが剣を持っていない時の方が、剣が見える気がするんだ。変かな?俺」


誰も大声では言わない。だが、誰も否定をしなかった。気づけば、普段は稽古を観ない人間まで、ここに来ていた。


舞台袖には、音響と照明が肩を寄せ合い、スタッフルームの扉は半開きのまま、客席後方には、台本を持たない人影が並んでいる。


そして、その中心に、団長ロバート・ハサウェイがいた。


客席の最後列。


肘掛けに腕を乗せ、珍しく足を組み、何度も台本を閉じては開き、また閉じる。口元が、どうしても緩むのを抑えきれていない。


(……やっぱりだ)


自らも俳優として、演出家として、ここブロードウェイで何十人、何百人のハムレットを観てきた。だが、これは別格だ。


(考えて演じる段階を超えている)


その時、ロバートは、後ろに気配を感じて振り返ると、スタッフたちが息を潜めて立っていた。


「……なんだ、今日は客が多いな」


ロバートの呟きに、照明チーフが苦笑して応える。


「そう言う団長が1番楽しそうに稽古に参加してますよ」


ロバートは、鼻で笑った。


「当たり前だ。こんなハムレット、そうそう出てこない」


その時。


舞台袖の向こうで、足音がした。


空気が変わる。


テリュース・グレアムが、静かに舞台に入ってくる。剣は持っていない。声も出していない。それなのに、もうハムレットだった。


ロバートは、満足そうに息を吐く。


「……よし」


台本を閉じる。そして、立ち上がって舞台に近い席に移る。


「ランスルーまで日にちがないぞ。さあ、稽古を始めよう。次はオフィーリアの場面に入る」


スタンバイしていた俳優たちの背筋が、わずかに伸びる。


剣も、叫びもないが、この芝居の中で、最も残酷な場面のひとつだ。


テリュースは、舞台中央に立つ。オフィーリア役の女優は、少し距離を取った位置にいる。だが、お互いに、まだ目をあわせない。


ロバートは言葉を選ぶように、静かに指示をする。


「いいか。ここはハムレットの感情をぶつける場面じゃないんだ」


そして一拍置いて続ける。


「ここでハムレットがやるのは、愛を示すことではなく、愛を切り捨てることだ」


テリュースは、短くうなづく。


「微塵も優しさを見せるな。決して慰めるな。ハムレットは、自分の復讐にオフィーリアを巻き込まないために、彼女を自分から完全に離れさせるんだ、わざと」


その言葉で、稽古場の意味が定まった。


「……じゃあ、始めよう」


テリュースは、ゆっくりと顔を上げて、オフィーリアを見る。


ほんの一瞬だけ。


確かめるようなその視線には、確かに温度があった。たが、すぐに引き剥がすように目をそらす。


『Get thee to a nunnery』  修道院へ行け。


その声は低く、静かだった。怒りも軽蔑もない。だからこそ、どこにも逃げ場がない感じだ。


オフィーリアが一歩近づき、無意識に手を伸ばしかける。


するとその瞬間、テリュースは一歩下がった。そしてもう一度オフィーリアを見る。今度はほんのわずかに長く。


『I did love you once』  かつては確かに君を愛していた。

 

そのひと言にオフィーリアの表情がほっと緩む。やはりハムレットの愛を信じていいのだと。


かつて。


『Doubt thou the stars are fire, 

 星の燃ゆるを疑おうとも

 

 Doubt that the sun doth move, 

 太陽の動くを疑おうとも


 Doubt truth to be a liar, 

 真実の真なるを疑おうとも


 But never doubt I love』 

 わが愛を疑おうことなかれ


ハムレットから受け取ったあの手紙のように愛はあるのだと思ったオフィーリア。


たが、次の瞬間、ハムレットは言う。


『I loved you not』   いや、愛してなどいなかった。



そう言い切った瞬間、テリュースの喉がわずかに動く。


ほんの一瞬。


言葉と心が食い違った痕。だが、彼はそれを訂正しなかった。


オフィーリアの瞳が何かを待つように揺れる。


テリュースは応えない。


声は同じ調子、否定も怒りもない。だからこそその言葉がオフィーリアの心に、刃のように深く刺さる。


稽古を見守るスタッフたちが、思わず息を呑んだ。


(……嘘だ)


今の一瞬、テリュースのあの視線は、愛していない人を見る目ではなかった。ハムレットはオフィーリアを愛している!


だが、ハムレットはわかっているのだ。自分のそばにいれば、オフィーリアは壊れるということを。純粋で、従順で、ハムレットを疑うことを知らない彼女は、あまりにも利用しやすい。ハムレットがオフィーリアを愛していると認めてしまえば、彼女はもっと自分に近づき、離れられなくなる。


だから、ハムレットは、オフィーリアに自分を憎ませる道を選ぶのだ。


その代わりに彼女を、ハムレットの向かう地獄の道から外すのだ。巻き込まないようにするため、言葉も愛も信用するなと、ハムレットは伝えたのだ。それは、感情を殺し続けた結果の、静かな氷のような冷たさだった。


ロバートが低く言った。


「……いいぞ、テリュース。今のだ」


誰も動かない。誰も息を吐かない。


ロバートは続ける。


「今のハムレットは、おのれの復讐の血と狂気の中に彼女を巻き込まないようにするために、自分の未来から彼女を外したんだ」


テリュースを見据えて言う。


「だから冷たい。そして一切迷いがない。今の芝居はそれが全部見えた」


稽古場に静かな納得が落ちる。


愛しているからこそ、自分から離す。


スタッフたちは、胸の奥が静かに震えるのを感じた。


剣を取れば父を裏切る。


母を責めれば自分も壊れる。


オフィーリアを抱けば、彼女を地獄に引きずり込む。


だから、彼は愛されることを捨てる。巻き込まないために、ひとりで壊れる。


「テリュース、今のを忘れるな」


ロバートの言葉に、稽古場の空気が緩む。そして、次のシーンに向けて役者たちが動き出し、スタッフが小声で話し始めた。


するとロバートは後ろを振り返り、柱の影で、台本を抱えたまま静かに観ていたソフィア・グリフィスに声をかけた。最初から彼女の存在をそこに感じていたかのように。


「どう見た?」


ロバートは当たり前のように、新人脚本家のスカーレット・メイことソフィア・グリフィスに尋ねる。


その問いに、ソフィアはすぐには答えなかった。ゆっくりとロバートに近づいた後、言葉を選ぶように小さな声で言った。


「……怖いほど、冷たくて静かでした」


「怖い?」


「はい」


ソフィアは、小さく頷く。


「昔、ご一緒した時のテリュースさんは、もっと火のようでした。怒りも、愛も、まっすぐこちらへ向かって来る感じがしました」


ロバートは黙って聞いている。


「でも今は……炎ではなくて、灰の下に残った熱みたいです」


そこまで言って、小さく息を吐く。


「近づけば火傷をするのに、見た目には燃えていないんです。だから、余計に目が離せません」


ロバートの目が、わずかに細くなる。


ソフィアは、さらに静かに続けた。


「オフィーリアを突き放す場面も、むしろ……」


少しだけ、迷う。


「底しれぬ冷たさの奥に、ハムレットの優しさを見ました。そして、その優しさを表に見せないために、必死で優しさを殺しているように見えました」


ロバートは、ふっと笑った。


「いい目をしているな」


ソフィアは、少し頬を赤らめる。


「いえ。私はただ……見えたままを」


「それが一番難しい」


ロバートは舞台上のテリュースを見る。


「テリュース」


舞台上のテリュースがロバートを見つめる。


「今の、聞こえたか」


テリュースは黙って頷く。


「“優しさを見せないために、優しさを殺している”そうだ」


テリュースの視線が、一瞬だけソフィアへ動くと、出過ぎたことを恥じるように、ソフィアは慌てて目を伏せた。


テリュースは、短く言った。


「……そう見えたのか」


ソフィアは顔を上げ、控えめに頷いた。


「はい。とても……苦しく見えました」


その一言で、稽古場に静けさが戻る。


テリュースは、何も言わなかったが、彼の中で何かが少しだけ動いたことを、ロバートは見逃さなかった。


ロバートは台本を閉じる。


「今日はここまでだ。テリュース、その言葉を持って帰れ」


テリュースは、舞台上に立ったまま、静かに頷いた。


ソフィアは、それ以上何も言わない。ただ一礼して、そっと客席の影へ戻っていく。


彼女の言葉だけが、舞台に残った。


優しさを見せないために、優しさを殺し、拒絶して自分から離れさせる。それはすべて愛するオフィーリアのため。


テリュースは、オフィーリアの立っていた場所を見つめた。


その日、彼のハムレットは、また一つ深くなった。







午後の稽古が終わるとスタッフたちは、

バックヤードで喉を潤し、煙草をくゆらせ、笑い声を散らしていた。だが、その中にテリュースの姿はなかった。


舞台では、テリュースの代役の俳優がひとり居残り、ハムレットの独白を繰り返し練習していた。客席にスタッフやロバートの姿はないが、ただひとりテリュースは、最後列に近いドアのそばに立ち、稽古を見ていた。


そのとき、背後から静かで遠慮がちな車輪の音がした。


振り返ると、スザナだった。


車椅子の膝に、小さなメモ帳を乗せている。淡い色のショール。顔色は決して良くはない。


それでも、その目は確かに力強く生きていた。


「……来たのか」


テリュースは、それだけを言った。来なくていい、というのも違うから。


スザナは微笑んだ。


「あなたが今、物語のどこを歩いているのか、確かめたかったの」


その言い方は、恋人ではなく、脚本家のようだった。だからこそ、テリュースの胸はわずかに軽くなる。


「歩いてる、か……」


薄く笑いながら、テリュースは続けた。


「それより、君のほうはいいのか?」


スザナの書いたオフ・ブロードウェイの芝居は盛況で、毎日のように劇場に顔を出していた。


今日は行かなくてもいいのか?テリュースは、そう尋ねたのだ。


「ええ。今日はいいの。さる企業の貸し切り公演だから、大人しか来ないわ。だから行かない」


そう言って、テリュースにスザナが近づいた時、すぐ近くで力強い声がした。ロバートだった。


「今日も来ていたのか、スザナ」


彼は、スザナを見て、それから、テリュースを見る。


「……君は、いい観客を持ったな」


ロバートの言葉に、テリュースはわずかに眉を動かしただけで、何も言わなかった。


ロバートは、その反応を見て、口元を緩める。


「……なんだ。言ってなかったのか?スザナ」


軽く言ってから、スザナの手元に視線を落とす。車椅子の膝の上に置かれた、小さなメモ帳。


「スザナは毎回お前の稽古を観に来てるんだぞ」


スザナの指が、ぴくりと止まる。


「で、毎回そのメモ帳に何か書き込んでいるんだ」


テリュースがスザナを見ると、彼女は少しだけ目を伏せた。


「……邪魔になると思って言わなかったの」


言い訳のように付け加えた。


「あなたの稽古に、私の言葉が入り込むのは……違う気がして」


テリュースは、何も言わない。


ロバートが、軽く肩をすくめる。


「だがな、テリュース」


一歩だけ近づき、言った。


「いい観客ってのは、舞台の外にいながら、 舞台の中にいる奴のことだ」


かつて愛弟子であったスザナを柔らかく見るロバート。


「そんな観客を持ってる俳優は強いぞ、テリュース」


そして、顎でスザナの手元を示す。


「……見てやれ」


スザナは、ほんの一瞬だけためらった。だが、その躊躇いは長くは続かなかった。静かにメモ帳を持ち上げて、テリュースにそっと差し出した。


「……大したことは、書いてないわ」


テリュースは、それを受け取る。軽いはずの紙が、わずかに重く感じられた。


ページを開くと小さなメモ帳に、びっしりと文字が書き込まれている。走り書きの文字。線。矢印。書き直された跡。


『ここ、視線が優しすぎる』


『一歩下がるタイミング、今より“早く”すると突き放しが強くなる』


テリュースのページをめくる指が、止まる。


『母親との会話のあと、一瞬だけ呼吸が揺れる。その“揺れ”は消さなくていい』


「怒りじゃない。決断」


「冷たさ=優しさの裏返し」


さらに、めくる。


日付が違う。


同じ場面。違う場面。


すべて内容が違う書き込み。


テリュースに黙って何度も何度も稽古を観ている。テリュースは、何も言わず、しばらくページを見つめていた。


ロバートも、何も言わない。


スザナも、視線を落としたまま動かない。


やがて。


テリュースは、静かにメモ帳を閉じた。


そして。


スザナを見る。


「……ありがとう」


短い言葉だったが、それは、今まで一度も向けられたことのない種類の言葉だった。


スザナの指が、わずかに震える。


「……別に」


小さく答えるが、声は少しだけ掠れていた。


テリュースは、メモ帳を軽く叩いた。


「……しっかり読ませてもらう」


それだけ言う。


スザナは、驚いたように顔を上げた。そして、ほんの少しだけ誇らしげに笑ったが、その笑みは、いつものように何かを求めるものではなかった。










いつも私の拙い物語を読んで下さってありがとうございます💕深く深く感謝しています。


今、テリィがお稽古をしているのは、あまりにも有名なハムレットの1シーン、『尼寺へ行け!』の場面です。


nunneryには、ふたつの意味があって、純潔である尼寺と、娼館の隠語でもあったそうです。


ですから、尼寺へ行けとハムレットがオフィーリアに言うのは、


「貞淑でいろ!(尼寺へ行け)」と「どうせ女は堕落する存在なんだ!(売春宿へ行け)」の矛盾した侮蔑を投げているのです。


そして、この『尼寺へいけ!』というハムレットの台詞の真意については、専門家でも意見が分かれるところだそうです。


①母親であるガートルードに強い嫌悪感を持っていて、その気持ちが同じオフィーリアに対しても投影されているという説。


②また、オフィーリアは父ポローニアスの命令でハムレットを試しているため、裏切られたという気持ちからそう言い捨てた説。


③ハムレットは、監視されているのを見抜いており、誰かに聞かれている前提で演技しているという説。


④ハムレットはこれから復讐に進む。だから、愛するオフィーリアを巻き込まないようにしたという説。


ハムレットが盗み聞きを「確実に」知っていたかは学術的に確定していないため、色んな解釈ができますが、私はハムレットは自分の復讐にオフィーリアを巻き込まないようにしたのだと考えました。


そして!!!


この『愛しているからこそ、自分の気持ちに蓋をして、距離をとる、相手を守る』というハムレットの行動は、いわばスザナとは真逆です。スザナは、自分がテリィを愛しているから、キャンディを愛しているテリィを手放せていません。


今、そんなスザナが、テリィのハムレット稽古を観ているのです。今回のお話は、この後スザナが何を感じ、どう変わっていくか、のターニングポイントなんです♡


そのあたりの物語をあと3話分、書き上げています。近いうちにアップさせていただきますね♡



それから♡もうひとつ。


最近、インスタの広告で流れてくる『請君入我懷』、邦題を『転生したPR女子の運命の絆』というショートドラマがあります。


そのドラマのCMをちらっと観てしまい、なに?なに?皇帝がすんごい好みなんですけど〜♡♡とストーリーにもルックスにもハマり、続きがみたくて、Flick Reelsを契約してしまいました(笑)😆


素敵でしょ💕💕



ストーリーは、あえて省きますが😆、もうね♡冷酷皇帝が素敵すぎるのです💕

主人公だけには超スイートで、権力をバンバン使って(笑)、彼女の名ばかりの夫とその愛人の悪巧みから守ってくれるんです💕


YouTubeでも見ることができるみたいなので、よかったら見てみてください♡


永遠のジュリエットを書いた後、イラストや写真を選ぶのが私にとって至福の時で、今からあと3話分の写真選びを楽しみたいと思います♡


ですから今回はコメント欄を閉じさせていただきますね♡


皆様が素敵な時をお過ごしですように♡

ジゼル