静寂の音
第1章 覚醒
郊外のアパートには、若くて仲の良い夫婦が住んでいた。二人は心から満ち足り、お互いに信じあい、つつましいながらも、幸せな生活を送っていた。当然の結果として子供を授かった。
二人は生まれてくる子供について、いつも話し合っていた。「どんな名前にしようか」とか「どういう風に育てよう」とか、いつまでも飽きることなく、楽しげに語り合っていた。当然のことながら、二人はまだ、これから起こるであろう試練を知らなかった。
或る冬の夜、妻の真紀子は夫の武史を起こした。
「あなた、起きて、陣痛が始まったわ」
「本当かい」
「ええ、だいたい5分感覚で痛くなるの。お医者さんに電話してくれるかしら」
「うん、わかった」
武史は電話した。
「夜分にすいません。お世話になっている、三上ですが、実は妻が陣痛が始まったと言っています。はい、5分おきに痛みが来るそうです。はい、分かりました、すぐそちらに伺います」
「すぐ来てくれってさ。大丈夫かい、急いで行こう」
「ええ、それじゃ、その鞄持って来てくださる」
「持ったよ。行こう」
病院では医者が待っていた。
「すぐ診察しますので、診察台に上がってください。ご主人は待合室で待っていてください」
武史は待合室でヤキモキしていた。もう何十分も待っているような気がしたが、時計を見ると、実際には5分足らずだった。そこへ医者がやってきた。
「子宮孔は開き始めていますので、このまま分娩室に入ります。逸る気持ちは分かりますが、ここでお待ちください」
「はい、お願いいたします。妻と子供をよろしく」
武史にとって10分が1時間以上に感じられた。それは、それは、長い時間が過ぎたように思われた。久しく煙草をやめていた武史だったが、吸わずにはいられなかった。たちまち灰皿に吸殻の山が築かれてしまった。
一体何時間待った事だろう。遠く赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。思わず武史は分娩室へと急いだ。確かに赤ん坊の泣き声が聞こえる。やっと生まれた、と思うと気が抜けたようになって、ぼんやりドアの前に立っていた。
中から看護婦が現われ、「おめでとう御座います。元気な女の子ですよ」と言われた時、武史は思わず座り込みそうになった。嬉しさがこみ上げてきた。(真紀子、ご苦労だったね)と心の中で呟いた。
女の子には「美樹」と言う名前が付けられた。
二人にとって至福のときが過ぎていった。美樹の動作のひとつひとつが、二人の微笑を誘った。美樹はおとなしい子だった。夜泣きをする事もなく、真紀子が目を覚ますのを、手を振りながら待っていた。全く手のかからない子だった。
二人が美樹の様子がおかしいと気が付いたのは、生後3ヶ月頃だっただろうか。美樹は光やモノの動きには反応するのに、音には全く反応を示さなかった。おかしいと思った二人は、すぐに医者に連れて行き、症状を話した。
医者は色々検査をした後、二人に告げた。「残念ですが、全く耳が聞こえないようです。これは、先天的なもので、治療の施しようがありません。諦めていただくしかないようです。でも、どうか気を落とさないで下さい。他には全く異常は認められませんでした。先天的聾は決して珍しいことではありません。皆さん立派に生きておられます。この子の為にも、ご両親がしっかりしなくてはいけませんよ」
二人は何とか、美樹が無事に生きていかれる様、あまり不自由しないで済むようにしようと、色々調べたし、研究もした。いずれは聾学校に行かせるにしても、それまでに少しでも言葉を理解させるべきだと考えた。
まずは、口話法を教えるのが最適と二人は考えた。だが同時に、口話法では例えば「たばこ」や「たまご」といった言葉では口の動きが似るので区別できない事も知った。いずれにしても、手話も教えてくれる聾学校へ行かせなければならないと思った。
美樹は驚くほど、勘が良かった。一歳を少し過ぎた頃には、簡単な単語は理解もし、話す事も出来た。例えば、バナナの絵を指差しながら、「ママ、バナナ」と言うことが出来たし、「花、きれいね」とも言った。
武史や真紀子の口の動きや、動作をじっと見つめて事物を理解していった。また、時々、話しかけようとすると、美樹は振り返り二人をじっと見詰めるのであった。まるで聞こえているかのような錯覚すら二人は憶えた。美樹は順調に育っていった。
美樹が、聾学校の幼稚部に入る年の冬のある日、その事件は起こった。
その日はいい天気で、暖かかった。真紀子は美樹を連れて公園に行った。公園には何人かの奥さんが、子供を連れて来ていた。真紀子が仲良くしている奥さんも来ていた。二人は、子供の様子を見ながら話をしていた。つい話に夢中になって、美樹から目を離した隙に、道路に転がりだしたボールを追って、美樹が道路に飛び出した。たまたま通りかかった車の運転手は、あわてて急ブレーキを踏みながら、クラクションを鳴らしたが、美樹には聞こえる筈もなかった。車も、たいしたスピードを出していたわけではなかったが、間に合わなかった。美樹を撥ねて数mで止まったが、美樹も数m飛ばされ、頭から路上にたたきつけられた。
真紀子は、血に染まった美樹を抱きしめ、ただ、泣き叫び、おろおろするばかりであったが、公園にいた奥さんの一人が救急車を呼んでくれた。
病院に運ばれた美樹は、幸い命に別条はなかったが、意識不明の重態だった。意識不明の状態は続いた。武史も気が気ではなかったが、仕事を休み続けるわけにもいかず、会社には行っていたが、気もそぞろだった。仕事の間はひたすら真紀子の連絡を待っていたし、仕事が終わるとすぐに病院に駆けつけた。
しかし、美樹の意識が戻る気配はなかった。真紀子はずっと付きっ切りでいた為、すっかり疲れきっていたし、何よりも、自分の不注意を攻め続けていた。その事が、一層真紀子の疲労度を強くしていた。二人とも、美樹の意識が戻る事をひたすら神に祈り、そして、障害の残らない事を祈り続けた。二人は特別信仰をしているわけではなかったが、藁にもすがる思いで、祈り続けた。
事故から4週間ほどが過ぎようとしていたある日、真紀子の見守る前で、美樹のまぶたが震えた。(ああ、もしかしたら)と真紀子が思って見つめていると、美樹はゆっくり目を開き、真紀子のほうを向いた。(神様、有難う御座います)真紀子は思わず嬉し涙をこぼした。(よかった、美樹が気が付いてくれた)嬉しさがこみ上げて来て、真紀子は涙を流し続けた。(そうだ、すぐに武史さんと、お医者さんに知らせなければ)と真紀子は思った。
「ママ、パパにお電話するの。お医者さんに知らせるって何のこと」
真紀子は怪訝な顔をした。(おかしいわ、私は何も喋らなかった筈なのに。若しかしたら、独り言でも呟いたのかしら)そう思いあまり気にも留めなかった。
「そうよ。やっと美樹、あなたの意識が戻ったんですもの。すぐ、パパとお医者さんに知らせるのよ」と言って、真紀子は病室から出て行った。
美樹は不思議でならなかった。(ママが喋らなかったとすると、どうしてわたしに分かってしまったのだろう。そういえば、ママは私のほうを向いていなかった。でも確かにママの言葉がはっきり頭の中に流れ込んできた。若しかしたら、ママの考えている事が分かってしまったのだろうか。)美樹には分からなかった。彼女はまだ、テレパシーという言葉を勿論知らなかった。そして自身が、テレパスとなっていることも。
ただ、半ば本能的にこのことは喋ってはいけないと、美樹は感じていた。そして口を見ているときでなければ、返事してはいけない事も、敏感に感じ取っていた。
武史も急いでやってきた。
「美樹、大丈夫かい」(笑っている。大丈夫そうだ。よかった、よかった)
「有難う、パパ」(パパも喜んでくれている。うれしい)
担当医もやって来た。
「ほう、気が付きましたね。どれ目を見せてくれるかな」(奇跡的だ。最早目覚める事はないと思っていた)(瞳孔反応は異常ない)
(先生の考えている事も分かるわ)
担当医は看護婦に命じて、脳波測定器を用意させた。
脳波測定の結果も異常はなかった。そのほかにも幾つか検査をしたが異常は認められなかった。
しかし、まだ退院は出来なかった。4週間も意識不明だったのだ。もう少し様子を見ることになった。何しろ頭を強打しているのだ。担当医はあくまでも慎重だった。脳波測定、脳のCRTと何度か検査をしたが、異常は認められなかった。
「三上さん、お嬢さんに異常は認められません。もう退院してもいいですよ。ただ何か少しでもおかしいと思ったら、直ぐに病院にお越しください」
「先生、有難う御座いました」
「美樹、よかったね。もう退院出来るんだって」(ほんとに良かった。やっと退院できるし、何より無事でよかった)
「うん。早くお家に帰りたい」(ママは優しい、わたしの事を心から心配してくれている)
「では、明日の午前中退院ということにしましょう」
「はい。有難う御座います」
「美樹、パパにお電話しておくね。パパも喜ぶわ」
「うん。美樹、明日が待ちどうしいな」
翌日、美樹は無事退院した。真紀子は笑いながら、「退院したばかりだから、タクシーでかえろう」といって、タクシーをひろった。
「椎名町までお願いします」というと、タクシー運転手は「はい」といい、ドアを閉めた。(ついてないな。またゴミを拾っちゃった。今日はゴミ拾いばかりだ)
「『ゴミ拾い』って」
(おかしい、俺はなにも言ってないぞ。何故この子は俺の考えた事を知っているんだ)(何故だ。何故なんだ)
(美樹ったら、何を言っているのだろう)
美樹は自分の失敗に気が付いた。慌てて「ママ、お家の前のゴミ拾ってある」と言った。
「美樹ったら、退院したばかりでそんな事心配しなくていいのよ。美樹に言われなくったって、毎日きちんと掃除してるわよ」と笑った。(変な事を言い出す子ね)
(俺の事じゃないのか。ビックリしたぜ)(偶然の一致か、それにしても、驚いた)
美樹は何とかごまかしきれた事を知った。改めて気を付けなければと思った。
聾学校幼稚部の入学式の日となった。快晴に恵まれ、桜がきれいに咲いていた。聾学校は何処にでもあると言うわけには行かないので、電車に乗って行かねばならなかった。少なくとも幼稚部の間は、送り迎えする必要があった。美樹はまだ電車に乗ったことがなかった。いつも近所で遊ぶか、遠くへ行くときは、武史の運転する車で出かけていた。
その日美樹は、漠然とした不安に包まれていた。それが何なのか美樹には分からなかったが、落ち着かない気持ちがいつまでも続いていた。
「美樹、そろそろ出かけるわよ」
(大丈夫かしら。美樹は、ちゃんと学校でやっていけるかしら)親なら誰でも思う気持ちを真紀子も味わっていた。
「はい、ママ」なんとなく不安ではあったが、行くしかなかった。美樹は準備をした。
二人は駅に向かって、手をつなぎ歩き始めた。暖かく気持ちのよい日だった。周囲の景色がなんとなく新鮮に二人の目に映った。
(入園式か。うちの子も来年だな)
(急がなくちゃ。また、遅刻してしまうわ。うちの課長はうるさい。ひひ爺)
(何とかしなければ、使い込みがばれてしまう。10万ぐらい、サラ金から借りるか)
(昨夜はうまくいった。また例の件をばらすと、あの女を脅かして、ホテルへ)
行きかう人達の色々な思念が容赦なく、美樹の中へ流れ込んできた。不安は徐々に高まってきた。不安の原因はこれだったのだと美樹は理解した。人の思念を遮断する術を知らない美樹には辛く、苦しい駅までの行程にほかならなかった。
「ママ、わたし行きたくない」
「何を言ってるの。おかしな子ね。学校へ行かなくちゃね。もう少しで駅に着くわよ。」真紀子に美樹の状態が分かろう筈もなかった。
電車の中では、更に酷い状態がまっていた。混雑した電車の中にはさらに多くの思念が渦巻いていた。
(この男、また私のお尻を触っている。足を踏みつけてやろうか)
(しまった、財布を忘れた。妻に電話しようか。だめだ、馬鹿にして持ってこないに決まってる。飯抜き、飲みに行く約束、駄目だ、駄目だ、今日は適当に言い訳して帰るしかない)
(あの女、いいスタイルしているな。もう少し近くに行かれないかな、この男が邪魔だ。ええい、忌々しいやつめ)
(今日こそモノにしてやろう。酔いつぶしてアパートへ連れ込んで)
種種雑多な思念の垂れ流しに身を任せるしかない美樹は、激しい頭痛とめまいに襲われ、あぶら汗を流しながら、真紀子の手を引っ張った。
「どうしたの。そんな蒼い顔をして。気持ち悪いの」真紀子は心配そうに覗き込んだ。
「た、助けて」とそれだけ言うと、美樹は気絶した。思念を遮断できない美樹にとって雑多な思念の放流は拷問にも等しかった。
