「キャンパスカフェ」編集部は9月中旬、3泊4日の日程で沖縄取材チームを派遣した。目的は、日本国内で唯一の市街戦が戦われた「沖縄戦」取材のためだ。戦争終結から63年。男子3人、女子4人からなる取材班は、沖縄の地に放置されたままの戦争犠牲者の遺骨に遭遇し、強い衝撃を受けた。

●「早く遺骨を明るい場所に」
 遺骨収集の当日、朝早く那覇市内のホテルを出発した。取材班は全員、作業服にヘルメット姿。ホテル従業員が奇妙なものを見るような視線を向けた。
 まず現地で長年にわたって、遺骨収集を続けている国吉勇さん(69)にお会いした。遺品展示館を兼ねている事務所で説明を聞いた。
 さびついた機関銃。男子学生が持ち上げようとして、よろめいてしまうほど重い。火炎放射器で焼かれた革のベルトや、手榴弾、銃撃で穴のあいた水筒、当時の水が残ったままの水筒もあった。
 もっとも衝撃を受けたのは、人間が火炎放射器で焼かれ、人骨がこびりついたままの茶わんを見たときだ。骨の原型は留めていない。一目では何なのか分からない。国吉さんの説明を聞き、初めて人間の骨だと理解できた。国吉さんは鋭利に切断された骨も見せてくれた。おそらく負傷した兵隊を麻酔なしで手術し、切り落とした人骨の一部だという。
 那覇市内から車で1時間半ほどで、海岸に到着した。ゴツゴツとした硬い岩が続き、とても歩きづらい。底の厚い長靴をはいていても、足の裏が痛くなる。砂浜に出た。遠浅の海が続く。さらに少し行くと、多くの千羽鶴が供えられた場所があった。さらに、そこを過ぎてゆく。
 岩のくぼみがあった。人間1人がやっと入れるくらいの広さだ。くぼみを見下ろす。そこに遺骨があった。おそらく3名。その横に手榴弾が2個。上陸した敵におびえながら隠れていた時、どんな気持ちだっただろう。眼前に手榴弾が投げ込まれ・・・、想像し、思わず目を閉じた。
 遺骨収集の現場は思わぬ場所にあった。「えっ? ここですか」。壕(ガマ)の前に立ち、声を上げた。周囲を見渡すと広い道路が走り、大きなショッピングモールや高層マンションが見える。民家に隣接した場所だ。
 壕の入り口は狭い。しゃがんで入っても、何度も頭をぶつけてしまう。光もほとんど届かない。作業用のライトを灯した。壕の中に入った男子学生がスコップで土をかき出す。それをバケツに入れる。何人かでバケツリレーをして土を外に出す。その繰り返しだ。しゃがんだままの作業である。
 壕の中は蒸し暑さが充満し、汗がボトボト滴り落ちる。やっかいだったのは、乾燥した赤土だ。さらさらした砂状で、バケツが弾んだ拍子にパッと舞い上がる。それが目に入り、痛い。
 慣れない作業を1時間も続けると、次第に腕が上がらなくなる。バケツが持てない。バケツを引きずって、次の人へ渡す。体力のなさが情けない。
 「小瓶がある!」。壕の外でバケツを受け取る作業をしていた男子学生が声を上げた。国吉さんに見てもらう。戦争当時に使われていたものに間違いがなさそうだ。
 作業開始から約3時間。その後、作業を続けても、遺骨や遺品は発見できなかった。広くなった壕の中に、ツルハシの跡がくっきりと確認できた。30人ほどの人が隠れていたようだという。
 沖縄戦の傷跡は癒されていないと実感した。蜂の巣のように穴の開いた壕は、開発によって取り壊されていく。戦争の記憶は、傷口を絆創膏で隠すように薄れていく。「早く遺骨を明るい場所に出してあげたい」。作業をしながら、私はひたすら思い続けていた。
●沖縄育ちにも初体験
 僕は沖縄県豊見城市で育った。幼いころから、さまざまな場面で沖縄戦や米軍基地にまつわる大人たちの体験談を聞いてきた。
 高校時代は甲信越地方で過ごした。「道徳」の時間に日本神話が登場し、修学旅行のコースには靖国神社があった。日本神話は非科学的だと言おうものなら、どんなに一生懸命授業を受けても、赤点ぎりぎりにされるような高校だった。級友たちは沖縄戦に関する知識が皆無に等しい。沖縄に米軍基地が集中しているのも仕方がない、といった意見が支配的だった。
 大学では、このような話を真剣に議論する雰囲気はないばかりか、他国に対する過激な発言さえ飛び出る。危機感を感じ、どう打開しようかと考えている時、佐賀県のNPO「戦没者を慰霊し平和を守る会」の存在を知り、さらに今回の取材でお世話になった那覇市在住の国吉勇さんと連絡を取った。
 「キャンパスカフェ」の編集会議で、遺骨収集の提案をした時、僕1人だけでも取材に行くつもりだった。しかし取材班は7人に増えた。沖縄戦に関する勉強会をした上で、現地に出かけた。
 今回の取材は、沖縄出身の僕にとっても初体験の連続だった。取材中に出会った頭蓋骨は、忘れ去られた沖縄戦の記憶を語りかけているように感じた。顎の形状から見て、若年者の遺骨だろう。その遺骨はいまだ苦しみから抜け出せずにいる沖縄、苦しみを押し付ける国を憂えているように思えた。
 日本の最南方で起きた悲劇。彼(彼女)らが守りたかったものは何だったのか。国家という体制か、それとも愛する家族や郷土か。戦争の記憶を風化させないために、より良い未来を創造するために、次代を担う若者の使命として「沖縄戦」を語り継ぐ活動は不可欠である、と再認識する取材になった。

●ことば・沖縄戦 
 1944年10月10日、那覇市に大空襲があり旧市街の90%が焼失した。一般的に「沖縄戦」は、米軍が慶良間諸島に上陸した翌1945年3月26日から、降伏文書に調印した同9月7日までと定義される。死者数は日本24万4136人(うち民間人9万4754人)、米国軍1万2520人。米軍が使用した砲弾は271万6691発にのぼり、「鉄の暴風」と呼ばれた。米軍による艦砲射撃は、沖縄の地形を変えるほどだった。