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みなさん、おはようございます。

GWも今日で終わりですね。

さて、今回は、阿部謹也著『「世間」とはなにか』(講談社現代新書、1995年7月20日発行)です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061492624/250-3320312-5026620

正直に言いますが、この本の序章しか読んでいません(汗)。でも、私は、それで充分だと思うのです。何も過去の書物を分析しなくても、私たち自身が様々な“世間”の中に生きているからです。その世間をまず分析すればよいと考えています。

さて、「世間」には、地域、学校、同窓会、会社、PTA、労働組合とありとあらゆる世間があります。大人は、自分では悪いことをしていないと考えていても、「世間をお騒がせして申し訳ありません」とか、父親が息子に「それでは、世間に通用しないぞ」とか、しばしば「世間」という言葉を使用しています。

一方で、欧米からの輸入語である「社会」という言葉があります。だいぶ私たちもこの「社会」という言葉に慣れましたが、しかし、「社会」と「世間」とは同じではありません。社会という言葉に「世間」を置き換えることに違和感を持ちます。このような日本の社会にとってきわめて重要な点が、阿部教授が提起するまでは、学問の研究の対象にはなっていなかったのです。
今後、知識人が、この世間について、真正面に研究していただくことを期待するものです。知識人に期待しますので、次にこの本からその点に言及した部分を転記します。

「知識人の責任
 この点については特に知識人に責任がある。知識人の多くはわが国の現状分析をする中で常に欧米と比較し、欧米諸国に比べてわが国が遅れていると論じてきた。遅れているという判断の背後には、遅れを取り戻せるという見通しがなければならない。多くの知識人はそのような見通しもないままに遅れについて論じてきたのである。

 たとえばカントの「啓蒙とは何か」という書物の中で、上官の命令が間違っていた場合に部下のとるべき態度が論じられている。上官の命令が間違っていると考えた場合でも部下はその命令に従わなければならない。さもなければ軍隊は成立しないからである。しかし軍務が終了したとき、その部下は上官の命令の誤りを公開の場で論じることができるとカントはいう。そしてその場合彼は自分の理性を公的に使用しているのだというのである。日本の事情を考えてみよう。ある会社員が会社の経理やその他に不正を発見して、それを公的な場で指弾した場合、彼は間違いなく首になるであろう。そしてもしそのことが公的に論じられるようなことが起こった場合、彼の行動が公的な理性に基づくものだという者が日本にいるだろうか。
 
 このカントの言葉を引用して日本の社会の遅れを説く論者は今でもあとを絶たない。しかし問題はここからはじまるのであって、こういう状態だからわが国は遅れているといってみたところで何もいっていないに等しいのである。このように考えてくると、問題の一つは、わが国において個人はどこまで自分の行動の責任をとる必要があるのかという問題であることが明らかになろう。それはいいかえれば世間の中で個人はどのような位置をもっているのかという問いでもある。以下においては世間や世の中という言葉がどのように用いられてきたのかを考察し、その中で個人の生き方についても考えてみたい。私たちは西欧の歴史からよりも、自分達の過去から学ぶべきことが多いからである。
 
 日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧(あいまい)なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが。その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。」(29~30頁)