明成皇后殺害事件、日本のテレビ局が取り上げる
テレ朝の人気ニュース番組、24日に特集を放送へ
1895年に起きた(日本での呼称:びんぴ)殺害事件の全ぼうや、実行犯たちの子孫が110年ぶりに韓国を訪れ謝罪する場面を盛り込んだ特集が、24日夜10時からのテレビ朝日のニュース番組で放送される。
日本の地上波テレビ局のニュース番組のうち、最も高い視聴率(20%)を誇るテレビ朝日の『報道ステーション』は24日、明成皇后殺害事件に関する14分間の特集を放送する。今回の特集は、韓国を代表するドキュメンタリー演出家であり、韓中日3国放送プロデューサー・フォーラムの常任組織委員長を務めるチョン・スウン監督が、2005年に制作したドキュメンタリー『110年ぶりの追跡 明成皇后殺害事件』を基にしている。テレビ朝日の関係者は「日本人があまりよく知らない歴史的事実という観点から、特集番組を放送することを決めた」と説明している。
明成皇后殺害事件は、日本ではほとんど知られていない「恥ずべき歴史」だ。チョン監督のドキュメンタリーは、朝鮮駐在の日本公使だった三浦梧楼が、48人の刺客を動員し、景福宮に乱入して明成皇后を暗殺したという歴史的事実のみならず、実行犯の一人である国友重章の孫に当たる河野龍巳さん(88)、家入嘉吉の孫の嫁に当たる家入恵子さん(76)などが初めて韓国を訪れ謝罪したことにも触れている。
テレビ朝日のニュース番組は05年以降、毎年韓国を訪れ、しょく罪を続ける子孫たちの姿を取材している。
チョン監督は、テレビ朝日が明成皇后殺害事件を取り上げることについて、「韓流ブームなどで韓国に対する日本人の関心が高まる中、両国の歴史に埋もれた真実について知ってもらおうという趣旨によるものだ」と語った。なお、この特集番組は当初、日本の終戦記念日に当たる今月15日の前に放送される予定だったが、水害などの災害が相次いだため、放送が延期されていた。
「韓日文化交流会議」の委員長を務めるタングク大の金容雲(キム・ヨンウン)碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動が行えるよう大学の指定を受けた教授)は、「日本のテレビ局は最近、過去の植民地支配や帝国主義に対する反省を盛り込んだ番組を放送しているが、これほどまでに直接的な内容を扱ったことはなかった。日本の歴史上では存在しなかった出来事のような扱いを受けている明成皇后殺害事件について正面から取り上げ、当時の実行犯の子孫たちが韓国を訪れ謝罪する場面を放送することにより、相当な反響を呼ぶだろう」と話す。なお、テレビ朝日は近日中に、ドキュメンタリー番組『テレメンタリー2009』で、明成皇后殺害事件を取り上げた30分間の特集を放送することも決めている。また、チョン監督は来年春、2時間に再編集したドキュメンタリー映画を、日本全国を巡回して上映する計画も発表した。
http://www.chosunonline.com/news/20090824000044
明成皇后殺人犯の子孫が謝罪
(中央日報 2005/05/10)
「もっと早い時期に来るべきでした。 殺害事件について心からお詫びしたい」。明成皇后(ミョンソンファンフ)殺人犯の子孫らが、高宗(コジョン)皇帝と明成皇后(ミョンソンファンフ)が埋められた京畿道南楊州(キョンギド・ナムヤンジュ)の洪陵(ホンルン)を訪れて謝罪した。 殺害事件から110年ぶりとなる。
10日午前に洪陵を訪れたのは、1895年に明成皇后を殺害(乙未事変)した国友重章の孫・河野龍巳氏(84)、家入嘉吉の孫の妻・家入恵子氏(77)と、「明成皇后を考える会」会員の日本人10人。 2人の子孫は墓に向かって3度、礼をした。
2人は、明成皇后殺害事件のドキュメンタリーを制作しているチョン・スウン・プロデューサーの招請で、9日に入国した。 河野氏は「家族にしか知らせてこなかったが、日本に帰れば多くの人に、ここで見て感じたことを話すつもり」と語った。
河野氏らは、ちょうど英親王の忌日を迎えて洪陵近隣の墓地を訪れた明成皇后のひ孫イ・チュンキル氏(67、米国居住)と偶然、出くわした。 河野氏と家入氏から謝罪の言葉を受けたイ氏は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない」とし、「政府レベルの謝罪がなければならない」と語った。
河野氏は「日本の皇室が謝罪しなければならない」と答えた。
昨年7月に熊本県の教師30人余を中心に「明成皇后を考える会」を設立した甲斐利雄氏(76)は、「10年前の100周忌に参拝したかったが、自分と同じ考えの人はいなかった」とし、「今回を逃せば、次の機会はないと思った」と話した。
彼らを招請したチョン・スウン・プロデューサーは「殺人犯らは、これまで伝えられてきたのとは違い、エリートだった」とし、「殺人犯47人には、日本人が韓国に設立した漢城新報社の職員20人が含まれていたという事実を確認した」と主張した。 河野氏らは11日午前に景福宮(キョンボックン)を訪問した後、12日に出国する。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=63394&servcode=200§code=200
乙未事変 事件の首謀者 (Wikipedia)
実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確ではない。
首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な策謀でないことは判明している。加えて 殺害の実行犯に関しても様々な説はあるが、統監府文章に収録されている該当年の往電第31号によると、殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。この禹範善は、純宗が放った刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺された。これに関して1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期、魯允明に12年の刑が言い渡され、判決が確定している。
なお、2005年、ロシア科学大学の教授が、偶然、Aleksey Seredin-Sabatin (Алексей Середин-Cабатин) というロシア人による事件についての報告書を発見した。Seredin-Sabatin は大韓帝国政府に仕えており、同様に契約によって大韓帝国政府に仕えていたアメリカ人将軍のWilliam McEntyre Dyeの指揮下で働いていた。 なお、この記録は韓国においては2005年5月11日付に公開されたが、それに先立ち、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている。
Seredin-Sabatinは以下のように記録している:
「王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。…複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。…私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。…私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。」
http://specificasia.seesaa.net/article/126378739.html
【日韓】 チャングムにわきながら明成皇后殺害は知らない日本~韓国から正しい歴史知らせに熊本訪問★2[04/15]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1240015001/
【韓国】明成皇后殺害した日本人外孫「祖父が間違いだった」[11/08]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1194492589/
【日韓】 「明成皇后を考える会」会員13人訪韓~小学校教師「教え子に正確な歴史教えたい」[07/30]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1185800436/
■朝鮮京城の変/壬午の変
明治9年の江華島条約によって日本は朝鮮を自主独立の国家と認めた。朝鮮での条約締結の原動力であったのが開化党という近代化に意欲的な勢力である。これは日本にならって内政を改革し、近代国家への脱皮を図ろうとするもので、別枝隊と呼ばれる日本軍人の指導による新式軍隊の育成や日本への視察団などが積極的に行われ、大院君ら保守派を追い、王の舅家・閔氏一族と結んで政府の重要な地位を占め、実権を握りつつあった。
閔妃は王子拓を世子とするために莫大な資金を費やした。
そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。
そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。
つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施したことになる。
当時の李朝の国家財政は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。
これは法外な浪費だった。宮廷の重職者たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気に満ちた宮廷に君臨する最悪の女王だったのだ。
当然官吏への給料支払いが滞った(なんと13ヶ月間払わなかった)が、別枝隊は立場でも給金でも優遇されていた。
別枝隊が優遇される代わりに旧式軍隊が冷遇されるのは致し方がなかった。これに伴う彼らの不満の増長に加え、給与の不払い、糧食の不正事件が重なって、明治15年(1882)7月20日壬午の変(京城の変)が勃発した。200余名の朝鮮兵によるクーデターは暴民が加わり2000人以上の勢力となり王宮に乱入、王と王子を生け捕りにし、閔氏一族を虐殺した。大院君はこの機を逃さず日本人の追放を図り、派遣教官・堀本礼造工兵中尉をはじめ6人の日本人が殺害された。日本公使館も焼かれ、花房義質公使らは重囲を突破して仁川に逃れ、英国軍艦に収容されて辛うじて帰国することができた。
花房公使からの報告を受けた日本政府は、黒田清隆の強硬論と山縣有朋の慎重論がぶつかり、結局外交交渉を援護するため少数の兵力のみ派遣する慎重論を採った。8月20日京城に戻った花房公使は、公式謝罪、損害賠償、犯人関係者の処罰など6か条を要求した。再び実権を握った大院君は援兵を清国に求めており、回答は遅れた。また山中に逃れていた閔妃は、山中から密使を送りすみやかに清国に救済保護を請うように勧めた。閔氏一族は、大院君と対立したからこそ日本を背景とする開化党と提携したが、その勢力維持のためには日本よりも強大な清国の力に依存しようとした。言い換えれば、清国は大院君と閔氏一族を巧みにあやつり、実質上の属国としていたのである。
その清国は、朝鮮からの要請を受けて陸兵と軍艦6隻を派遣し、緊張が高まったが、8月30日 「済物捕(さいもつほ)条約」が調印され、日本は朝鮮から謝罪賠償の他に公使館護衛のための駐兵権を得た。交渉にあたり清国は、依然韓国は属国であると主張し兵を朝鮮に駐屯、大院君を抑留・引退させ、大いに朝鮮の内政に干渉した。この事件により、我が政府特に軍当局者は対外交渉の容易でないことを強く認識させられた。
■漢城の変/甲申の変
壬午の変後の朝鮮は、京城内では日本兵と清国兵が相対峙しており、政府内では保守派と改革派の対立が続いていた。保守派は、開化党とむすんで大院君を追放した閔氏一族を中心とする事大党で、壬午の変で清国の援助で政権に回復するとますます大国に依存する必要を感じ、守旧派に転じていた。表面上は清国の支持を仰ぎ、裏面では清国のみに依存することが保身には不利なことを悟り、進んでロシア以外の列強と通じようとすらしていた。改革派は金玉均、朴泳孝らを中心とする独立党と呼ばれる明治維新に範をとる開明的少壮集団である。閔氏一族と結んで大院君を追放したが、今度は改革をめぐって閔氏と対立し、平穏な改革は無理だと判断した金玉均は、多少暴力的な改革、クーデターを実行しようとし、日本との連携を強めようと考えていた。
閔氏一族を中心とする事大党は朝鮮内部で勢力を拡大してはいたが、悪政ぶりがひどく人心は閔氏一族から離反しつつあった。朝鮮国王の心境にも変化が見られたが、国政を一新するだけの決意はなく、優柔不断な態度に終始していた。こうした国王の態度に、独立党は一挙に国政改革を断行することに決し、明治17年(1884)12月4日 京城郵便局開設の祝宴に各国公使と政府高官が一堂に会した夜、独立党の洪英植、朴泳孝、徐広範、金玉均らによって事大党の高官閔泳翊を傷つけ王宮に迫った。翌12月5日 朝鮮王を皇帝に昇格させ、清国からの脱却を宣言した。皇帝を擁した独立党は大政一新を布告、王宮守備のため日本公使・竹添新一郎に援軍を要請した。竹添公使は100名余の兵によって王宮を護衛、政権は独立党に帰し、クーデターは一応成功した。
ところがこの甲申の変(漢城の変)が起こると閔氏一族は直ちに清国兵に救援を求め、袁世凱は清国兵2000をもって軍事介入し王宮にになったのである。日本軍は数が少なく非常な苦戦に陥った。しかも国王は劣勢の日本軍を見限り、密かに王宮を逃れて清国軍に身を投じてしまった。こうして成功したかにみえた独立党政権は一夜の天下で潰え、日本軍は護るべき王を失ったうえに迫り、王宮内の朝鮮兵と救援の日本兵に向かって攻撃を開始した。国内二派の政争が一転して日清両国兵の戦闘在留邦人を含む40名を越す死者を出し京城を撤収、仁川に逃れた。邦人犠牲者の中には暴虐なる清国兵によって犠牲となった婦女子もあった。
日本政府は、朝鮮に対しては謝罪賠償を、清国に対しては国王を護衛していた我が兵を攻撃した罪を糾し、再び問罪使を送った。明治18年1月9日 日鮮間に「京城条約」が調印された。また伊藤博文らを天津におくって清国と談判し、4月18日に至り、日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知の必要を決めた「天津条約」を締結した。
■日清戦争後
そして朝鮮の閔氏一族は日清戦争で朝鮮に対する宗主権を失った清国に代えてロシアに接近し、1895年7月、ロシア公使ウェバーの援助を得てクーデターを起こして、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。
これに対して、1895年10月、日本公使は閔妃殺害事件(*1)を起こし大院君と金弘集政権を復活させたが、朝鮮国民の反日感情が高まり武装蜂起があいついだ。日本は、この事件以降、朝鮮政府への強引な介入をしばらく差し控えざるをえなくなり、経済的な進出に専念した。
1896年2月、ロシア軍水兵の応援を受けて反日派(保守派)がクーデターを起こし政権を奪い、金弘集らの政府要人が処刑された。高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年あまりの間そこで政務をとった。
1897年、高宗王は王宮にもどり、朝鮮が清国に臣従していた際のかたちを改め、独立国であることを示すため、国号を「大韓帝国」に改めるなどの改定を行った。
(*1)『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。つまり、壮士輩は長安堂に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。
高宗は、「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」といい、純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べ、さらには禹範善自身が「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白している。
■閔妃の夫、高宗の発言(1896年の勅令)
「禍乱の張本人たる禹範善、李斗鎬、李範来、李シンコウ、趙義淵、
権鎭等を斬首して露館に来り、朕の観覧に供せよ」
※意味「王妃を殺害した張本人である禹範善たちを死刑にして、ロシア公館に来て、首を私に見せろ」「王妃を殺したのは自分の部下だ。復讐する。国が滅んでもかまわない」
■殺害現場にいた閔妃の子、純宗の発言(往電31号)
「国母を殺したのは、禹範善だ」 ※その後、純宗は刺客で禹範善を暗殺
■禹範善の発言(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
「王妃を殺害した実行犯は、私です」
http://www.mf10.com/dreamtale/4gazoume.jpg
■ロシア人カルネイェフの発言
「殺害計画の首謀者は、大院君だ」
■石塚英蔵の記録
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1719000/
20060726115385214909363300.jpg
「守備隊の警護の制止を突破し、城内に侵入し、野次馬は深く建物の内部に入り王妃に傷を負わせ、裸にし、念入りに局部の検査をし(笑いながら、また、怒りながら)、最後に油をかけて焼き殺した…」
…何処にも「強姦」の記述はありません。
ただ、「野次馬が王妃の性器を検査した」と書いてあります。
日本人が何の注釈も無く、「野次馬」と呼ぶのであれば、それは100%韓国人です。
つまり閔妃の死体を陵辱したのは、韓国人の民衆だったのです。
■高宗と閔妃が売り払った利権
1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権
豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権
1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権
1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権
1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権
1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権
1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言
(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))
「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)
「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會
(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)
「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀
(ゲ・デ・チャガイが編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言)
首謀者から実行犯まで、全部朝鮮人でした
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1251087965/
実際、閔妃に手を掛けた人物は、禹範善
正に売国奴。しかも悪逆非道。王の男の子を産んだ女の性器に焼けた鉄の棒突っ込み、結局は殺してしまったり。国費を湯水のようにカルトに使い込み、国内的な政争を繰り返して李朝そのものを衰退させた。閔妃は当時の朝鮮人たちの恨みの対象だった。これが史実。
ところが、びっくり。今では悲劇の女王なのだ。
1990年代になり、ウリナラミュージカル(イギリスからは酷評されているやつな・笑)が行われ、明成皇后が題材にとりあげられるようになると、一転して国母として徹底した美化が行われた。目的は言わずと知れた「名君・明成皇后を暗殺した卑劣な日本人」というプロパガンダの為だ。
明治の時代だと言うのに、特命を受けた黒装束の日本忍者が宮城に忍び込み、皇后を暗殺するなんてテレビドラマを平気でやる。
これはまぁバカなだけだからいいとしても、当時の子孫を捜し出して謝罪しろ土下座して謝れと弾劾するなんてのは狂気の沙汰だ。
ただ、ここまで徹底して憎まれていた売国奴が「国母」扱いになったのは、角田房子『閔妃暗殺』(新潮社,1988)という小説が原因という話もあるらしい。
つまり、もとはと言えばアホ日本人が撒いた種かもしれないと言うこと。アタマ痛いのぅ。
http://plaza.rakuten.co.jp/machikoMizutani/diary/200511150001/
朝鮮人が明成皇后などという名前を使ってさも立派な人物であったかのように騙っていること自体がお笑いだ。
この閔妃という女は当時朝鮮国内でも稀代の悪女として有名だった。
単なる王妃であったにもかかわらず政権を簒奪して一族を高位につけて私利私欲の限りを尽くした。あげくは王の父である大院君を追放したりしている。
これに対して抵抗した金玉均などの多くの朝鮮人は日本に亡命して閔妃の腐敗した体制を打倒すべく戦っていたが、閔妃の姦計によって上海におびき出されて暗殺されてしまった。残虐非道な閔妃は金玉均の遺体を朝鮮に送り届けさせると多くの公衆の面前で遺体を八つ裂きにしたりして辱めた。
また金玉均の両親も死刑にされたほか、妻や娘は奴婢として売り飛ばされた。
当時の朝鮮の民衆は閔妃に対する恨みこそあれ尊敬などはかけらほども抱いてはいなかった。
その証拠には閔妃は死後、王族の称号を剥奪され墓も王族の墓とは別の場所に葬られた。
しかし、いかに悪逆非道を行ったとはいえ死ねば仏、ましてや王妃という身分にあったのだから
秩序を保つためにも正式な埋葬が必要だとして日本政府が明成皇后という名を贈って
王族として埋葬しなおした。 これが真実だ。
★日本にいる子孫が韓国を訪問して謝罪してる動画。
http://www.youtube.com/watch?v=Bs6y86oARpw
http://www.youtube.com/watch?v=OMI5NM5BMEw
★韓国ドラマ 明星皇后 殺害シーン (4:20あたりから)
http://www.youtube.com/watch?v=nRnXnAQHr7A
もし偏向捏造報道していたら、以下をどうぞ
偏向報道にはスポンサー問合せ
http://www23.atwiki.jp/inquiry_003/
事の真偽はともかく、先祖が加害者だからと言ってその子孫がその罪を問われるということが道義的に許されのか?
終戦から現在に至るまで日本人と言う理由だけで多くの人間が韓国人の手によって殺されてきた歴史があるが、これを肯定することになりかねない話だ。
ましてや日本のテレビ局が報道するとなればなおさらだ。
こんな番組をやるのであれば、日本人を殺した韓国人加害者の子孫を見つけ出す番組でも作れよ、テレビ朝日は。
伊東博文を殺したテロリストの子孫を韓国から日本に連れ出して、土下座させないといかんだろ。
この番組で、韓国人にご先祖様が殺された日本人の遺族が加害者の子孫を見つけ出して謝罪させることも当然とする声も出てくるはずだ。
報道ステーションはこの番組を報道することで日本人の中から復讐の炎が上がることが見えていないようだ。
許すまじ、テレビ朝日。
絶対にぶっ潰してやるぞ。