朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営


朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。

■1.日本統治下の発展■

 日帝(日本帝国主義)の支配下で、わが民族はとくに経済的な収奪によってひどい苦痛を受けるようになった。
と、韓国の歴史教科書は日本統治時代を批判するが、当時の朝鮮経済の発展を定量的に調べてみると、そこに浮かんでくるのは、この文章にはそぐわない逞しい発展の姿である。

朝鮮半島の人口は1906年(明治39年)の980万人から、1938年の2,400万人と、約30年間で2.45倍に急増した。その原因は、医療制度の確立と、米の大増産だった。後者については併合当初の生産量約1千万石が、20年後には2千万石へと倍増した[a]。 韓国の歴史学界でも経済史分野では、日本統治を再評価する研究者が3分の1を占めるというが、反日イデオロギーにとらわれない実証的研究の進展を期待したい。

 今回はその一端として、米大増産を誰がどのように推進したのか、史実を辿ってみよう。

■2.日朝融合の開発を■

 大正7年夏、京阪神、東京を中心に米騒動が勃発し、その責任をとって、寺内内閣が総辞職をした。投機による米価高騰が原因だったが、その根底には人口増による国内の生産量不足があった。後継の原内閣は長期的展望に立った食糧問題解決のために、「開墾助成法」を制定し、産米の増大を図った。しかしこの法案は日本内地だけを対象としており、朝鮮殖産銀行初代頭取・三島太郎は大いに憤慨して、これを朝鮮にも施行するよう強く建議した。

 日本内地と朝鮮とは、幾多の関係に照らして考えれば、これを差別して母国対植民地とみなすのは妥当ではない。・・・ たとえば、今回の開墾助成法に基づく米穀増収計画のような立法精神に照らして、最もその実効を期そうとすれば、むしろまず朝鮮において施行すべきである。これまでの(内地からの)移民の招致にあたっては、多くの場合、既成の開墾地を買い入れることを常とした。そのために朝鮮人を圧迫し、その利益を剥奪するような結果を生じ、反感を激成した事実がある。・・・したがって、移民招致の方針と開墾助長の計策とを併せて行ない、もっぱら未開墾地の開墾を促進し、それをもって日本人移住者の安定を図れば、朝鮮人の悪感を誘起することはない。

 朝鮮産業の開発は、交歓をもって隣人関係を保つ日本人と朝鮮人融合のもとに、協同の力によってこそ、有終の効果を発揮できるものといわなくてはならない。

 三島の建議が奏効して、朝鮮殖産銀行を中心に半島における米増産に本格的に取り組む事となり、突貫作業で「第一次朝鮮産米増殖計画」が立てられ、さらに5年後に見直されて「産米増殖更新計画」が制定された。これは大正15年からの12年間で、3億25百万円を投じて、35万町歩の土地改良・農地造成を行い、年産816万石の増産を図り、約3百万石を半島内の消費増にあて、残りを内地販売に向ける、という計画であった。併合当初の年産1千万石と比較すれば、この計画の壮大さが窺われよう。

■3.朝鮮農業の課題■

 増産の主要な柱として水利事業があった。半島での面積あたりの米収量は内地の半分以下であり、これは天水(雨水)頼みで、3年に一度くらいの雨の多い年でなければ、収穫の望めない天水田が過半を占めていたことによる。朝鮮半島はもともと雨が少なく、それも6月から8月に集中する。この量と時期が少しでも狂うと米作は大きな被害を被る。大正8年は降雨量が平年の3割に過ぎず、中、西部において大干害が起こって、70万人が流民となって他地方や満洲に流出したほどであった。

 少ない降雨を効果的に利用するには、灌漑施設が不可欠である。しかし朝鮮半島はこの面で大きく立ち後れていた。半島全体の灌漑施設数は2万4千カ所に過ぎず、日本の香川一県と同程度であった。また十分な補修もされずに、荒廃して用をなさない施設も多かった。これは李朝朝鮮時代に地主は都市に住んで農業技術も知らず、蓄えができれば高利貸しに回して、利の少ない農業への投資を喜ばなかったからである。

■4.大規模灌漑施設で収量3倍増■

 殖産銀行の水利事業は、灌漑施設の建設により、安定した収穫を上げることをめざしていた。まず農民たちに水利組合を結成させ、その組合に対して灌漑事業用の資金を貸し付ける。資金は担保不要で、朝鮮総督府自体が保証人となっていた。15年から20年の長期返済で、各農民が支払う水利組合費から支払われた。

 灌漑工事の大規模なものを見てみると、益沃水利組合における大雅里貯水池堰堤は、コンクリート堰堤の高さ30.9m、延長254mに及び、ここで堰き止めた貯水を総延長71km
の水路で10キロ四方程度の広大な田に配分していた。

 乾ききった天水田に満々と灌漑水が満たされた時の朝鮮農民の喜びようは大変なものだったという。収穫の安定から生産意欲も向上したことも、大幅な収量増に貢献した。

 昭和11年時点では、このような水利組合が190に上り、実施面積20万町歩、反当たり収量は0.49石から1.49石へと3倍になり、総額において202万石の増収が得られた。反あたりの水利組合費は、益沃の場合4.35円であり、1石の増加は40円程度の売上げ増につながったので、朝鮮農民の収入は著しく増大した。

 水利事業以外にも、朝鮮殖産銀行は農業倉庫の建設、化学肥料の使用、大規模干拓事業などに融資し、朝鮮農業発展の原動力となった。

■5.困難だった内地からの資本調達■

 このように朝鮮殖産銀行は長期的な資本投下により朝鮮農業の近代化に大きく貢献したのだが、その資本はどこから調達したのか? 現代のような開発銀行もODA(政府開発援助)もない時代である。ここに殖産銀行の最大の課題があった。

 産米増殖計画に必要な膨大な資金を調達するには、半島の地場資本では到底足りず、内地の金融市場をあてにする必要がある。しかし、その内地の資本はきわめて臆病で、事情のよく分からない半島での長期事業に投資しようとはしなかった。現在でも開発途上国の国債を喜んで買う人はいないのと同じである。

 2代目頭取有賀はその説得に多大の労力を費やした。その努力が稔って、殖産銀行は、所要資本の60%から多いときで80%近くを殖産債権の形で内地金融市場から調達した。また配当を確実に行って、市場の信用を高めた。これにより大正7年から昭和20年までに貸付量では実に100倍もの成長を支えたのである。

■6.朝鮮の文化伝統に則り、自主自立の精神を鼓舞する■

 殖産銀行による産米増殖計画は、大きな特徴が二つある。一つは市場原理に基づき、金融市場から資本を調達し、朝鮮農民の自立心を刺激しつつ採算のとれる事業化を進めた点。現代日本の公共投資などよりもはるかに市場原理に則った進め方だ。

 もう一つは朝鮮農民の文化的伝統を尊重した進め方である。
上述の水利事業では水利組合の結成が重要なテコとなっているが、朝鮮では伝統的に「契」という強力な自治組織があり、これを大いに活用したものであった。

 実は第一次朝鮮産米増殖計画の直前に、「朝鮮農事改良(株)」を設立するという政府案があり、国会にまでかけられた。
これは朝鮮に日本の大資本と新技術を投下して、一挙に増産を図ろうという構想だった。三島頭取はこのようなあまりにも植民地主義的な開発方式では、朝鮮の民族感情を著しく傷つける恐れ有り、と論難して、不成立となったという経緯があった。

■7.一視同仁の銀行経営■

 朝鮮農民の文化伝統を尊重し、自主自立の精神を重んずる進め方は、日韓併合時に謳われた「一視同仁(すべての人を平等に見て仁愛を施すこと)」、「内鮮融和(内地と朝鮮との融和)」を初代頭取・三島が現実に朝鮮殖産銀行の経営に生かして行こうとした所から生まれた。

 その具体的な現れとしては、日本人と朝鮮人を完全に同一待遇とした点がある。殖産銀行に勤務した朴承復さんの証言を聞いてみよう。

 当時の朝鮮人にとっては最も人気の高い銀行は殖産銀行でした。次に朝鮮銀行、次に商業銀行や朝興銀行でした。

 なぜ殖産銀行の人気が高かったのかと言えば、まず第一に給料のよさです。朝鮮に来ていた日本人は、日本にいる日本人より給料が高かったんです。基本給に外地手当ての加給が60パーセント加えられました。役所や一般の会社では朝鮮人には外地手当ての加給はつきませんが、殖産銀行では日本人と同じに朝鮮人にも60%の加給が加えられるんです。[2,p160]

 今日でも、日系企業の海外子会社の現地社員と日本からの駐在員とが同待遇というのはまれである。大不況の時には、この点を改めて、費用削減を図るように内外から圧力がかかったというが、二代目頭取・有賀はこの平等待遇を貫き通した。

■8.人材の宝庫■

 待遇だけでなく、当時の日本人と朝鮮人がまさに一体感をもって仕事に取り組んでいた様子を朴承復さんは次のように語る。

 戦後までに支店長が三人代わりました。その一人に滝という支店長がいましたが、お酒の大好きな方でした。毎日清酒を一升飲むんです。日本人の独身の男性もいたのですが、滝さんは独身の私を奥さんを通してよく家に呼んでくれました。銀行の風呂に入ってから卓球をやり、それからお酒になるのです。・・・
 行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲よく楽しく遊んでいました。

 日帝(日本帝国主義)時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。
[2,p163]

 大東亜戦争が始まると、日本人行員は次々と赤紙で徴兵されていったが、朝鮮人は炭鉱などに徴用された。朴承復さんの所にも徴用の赤紙が来たときに、滝支店長は「ばかやろう」と言葉を発するや、知事の所に行って「彼が行ってしまったら、この銀行はつぶれてしまう」と言って、徴用を撤回させた。

 殖産銀行が、朝鮮農民の痒い所に手の届くような事業を進めて大きな成果を上げ得たのも、朴承復さんのような現地人エリートに存分に活躍させたからであろう。朝鮮人で支店長になったり、課長が朝鮮人で部下が日本人ということも当然あった。

 このように殖産銀行は朝鮮の優秀な青年を抜群の待遇で採用し、大きな仕事を任せたので、後に人材の宝庫と言われるようになった。戦後の国家再建委員会の20人の委員のうち、実に12名が殖産銀行出身者で占められていた。朴承復さん自身も国務総理行政調整室長などの要職を経て、世界シェア3位のセンピョ醤油の代表となっている。

■9.有賀光豊の遺徳■

 有賀の四男・敏彦氏は、新日鐵の技術者として、昭和40年から約10年間にわたり、浦項製鉄所の建設指導を行った。同氏はその時の思い出を次のように語っている。

 私が浦項在任中、父光豊の四男であることが知られるようになり、直接父を知る人、或いは密かに敬慕していた多くの韓国人から非常に親しく付き合って貰うことが出来、難事業であったものの極めて円滑に進捗することができた。
[1,p465]

 この敏彦氏のもとに、昭和40年代にソウル在住の見知らぬ韓国人から手紙が届いた。李廣基というその差出人の父親は、かつて日本統治時代に独立運動で捕まり、死刑の判決を受けたのだが、有賀が助命嘆願して海外追放となり、終戦後に帰国して郷里で余生を過ごしたという。

 生前、命の恩人である有賀様に一目でもお目に掛かって、お礼を申し上げたかったのだが、その機会を得ず、まことに心残りである、有賀様は既に御存命でないと聞いているが、せめて、お前が有賀様の遺族の方を探して、お礼を申し上げてくれ、と言い続けておりました。

 私は父の遺志を果たすべく、つてを求めてご遺族を探しておりましたが、ようやく今日、ご子息である貴台の住所を知り、御手紙を差し上げる次第です。

 亡父に代わって、有賀光豊様の御鴻恩に対し厚く御礼申し上げます。

 この「亡父」と有賀光豊がどういう関係にあったのか、有賀は一切語っていないので分からない。しかし敏彦氏はこう述べている。

 父は、「朝鮮は我々がお手伝いをして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」と考えていたことは、ほぼ間違いない事と思う。

 朝鮮農業の大発展の原動力となっていたのは、このような精神の持ち主であった。





■「朝鮮殖産銀行の『一視同仁』経営」について

 私の父は、終戦までの約20年余り、韓国で当時の韓国人のための旧制中学校の教師をしておりました。わたしも、韓国でうまれました。まだ幼かったころの終戦前後の日々の出来事が、まるで映画のシーンのように、脳裏に焼き付いております。
自宅の庭に引き出された人が、棒でたたかれ悲鳴をあげているところへ、父がはだしで飛び出ていって、間に入りとめていたシーン。(随分大きくなって父に聞くと、生徒の間で人気の悪かった若い日本人教師が報復されていたとのこと)

 トンネルの中では息もできないくらい煙の多かった引き揚げの列車の中で(機関手が韓国人に代わったため、技術が未熟でそうなったそうです)家族でない人たちがずっと一緒だったシーン。これもずいぶん後になって父に聞いたのですが、「日本語をしゃべると危ないから、先生たちは日本語をしゃべらないで下さい」といって、麗水まで教え子達が送ってくれたそうです。

 また、約7~8年前、「私はあなたのお父さんの教え子だが、同窓会で近くにくることがあったので、お父さんのお墓にお参りをさせて下さい」という電話があり、拙宅に来られ、仏壇の前で頭をすりつけるように拝んで頂いたことがありました。終戦時には女学校を卒業していた姉がいたのですが、こられる前に、その姉の名前が出て、「お元気にされていますか」ということで、「近くにいますよ」と答えると、是非お会いしたいといわれたので姉もよんでおりました。

 思い出話の中で、終戦から帰国するまでの約半年間、ときどき早朝、玄関の木に枝に、食料品のはいった袋がぶらさがっていたことを姉が話しますと、「あれは実はぼくらがやったのです。わかると親日分子ということでまずいから、朝早くこっそり判らないように木につるしたのです」ということでした。実はこの方は、日本の医専を卒業され、その同窓会でこちらにこられていたのですが、約20年前に、教え子の世話人代表として、父母を韓国に招待してくださった方でした。

 父は戦後日本に引き揚げて以来、ほとんど韓国のことを語ることがなく、戦前からの東京在住の教え子とは年賀状のやりとりがあったようですが、韓国との文通ができるようになって、韓国の教え子たちから年賀状や手紙がきても一切の返事を書いておりませんでした。家族がどうして返事を書かないのかを聞いても、何も答えませんでした。それが、韓国旅行から帰って以来、態度が一変し、韓国時代のことを語るようになったのです。

 元日本人教師の来訪と、各地での教え子の歓待振りを載せた写真入りの新聞の切抜きを持って帰り、また会った教え子の名前を全員一人残らず言えたと非常に喜んでおりました。そして、教え子達が卒業年次ごとに、木曜会とか水曜会と名づけて、頻回に同窓会を持っていること、そして皆が指導的地位にあることなどを誇らしげに語っておりました。そして、お土産にもらった韓国の置物とか、掛け軸とかが、それまでの床の間のもの
に取って代わるようになったのです。父のそれまでの韓国へのわだかまりが、この旅行でとけたからのようです。引揚げ時に、命の次に大事だと思っていた蔵書一切を預けて帰った、一番信頼していた教え子から、日韓の文通ができるようになって、まず手紙がくると期待していたそうですが、それがこなかったために、韓国での自分の教師生活の大部分が否定されたと思っていたそうです。

 戦後、引揚者の私達の生活は必ずしも安泰なものではありませんでした。引揚げてきて以来、もう教師はしないと父はいっていましたが、手を出す事業にことごとく失敗し、家族を食わせるために仕方なく教師に逆戻りしました。しかし、韓国時代に比べて生徒の熱意と質が違うと怒り、特に試験の時などの父の機嫌の悪さは私達家族には大変なものでした。韓国の教師時代を懐かしむ反面、内心のどこかで、何か韓国に関してひっかかりがあったのです。韓国でその教え子と会ったとき、朝鮮戦争で全てを焼かれ、父への申し訳なさに真相を話せなかったことを聞いて、それまでのわだかまりが氷解したそうです。

 私は、このような父を通じてずっと韓国が好きでした。そして父の教え子の方々を通じても韓国が好きでした。植民地であってみれば、必ずしも日本に好感を持っていないことは致し方がありません。お前の韓国好きは、お前の個人的な体験を通じての勝手な思い込みであって、韓国にしてみれば迷惑な話だと怒られるかも知れません。また日本統治時代の良かった面を押し付けようなどという気持ちなどは更々ありません。日本統治時代の悪い面も充分承知しているつもりです。しかし、庶民のレベルでは、人間と人間として、信頼しあった関係もあったことは紛れもない事実です。父は亡くなり、また教え子達も、もう殆どが高齢か亡くなっております。だんだん風化してゆき、このようなことが全く無かったかのごとく、反日にあふれる情報のみを今の若い韓国の人々が持っているとすれば、今でもまだ韓国ファンである私にとって悲しいことです。教科書問題、靖国問題から、こじれつつある両国の関係に少なからず胸をいためております。


皆平等にするように努力をしていた

ジョさん(ジョ ギヨンさん(78)男性)
ジョ「朝鮮からの教育は受けられなかったから、日本の教育が全てで先生を尊敬していた。」
「内鮮一体といって、皆平等にするように努力をしていた。」


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html


日本帝国のお陰で、朝鮮半島は劇的に医療と食料事情が改善されて平均寿命も人口も倍になり、本来なら感謝されてしかるべきですが、反日思想に懲りかまった朝鮮人はひたする搾取されてあの時代は地獄だったとしか言いません。


また、人口が増えたことで日本に流入する朝鮮人がどっと増え、そのことで日本の治安も悪化しました。


救う会全国協議会ニュース 


昭和三十四年五月に法務省入国管理局が公刊した最初の入管白書(『出入国管理とその実態』)では、在日朝鮮人 に関する歴史的経緯に関して以下のごとく簡潔にまとめている。その部分を全文引用しておく。

 〈第二章 出入国管理の沿革と現在の機構
   第一節 戦前の出入国管理
     四、朝鮮人 の移住
 戦前の出入国管理をかえりみる際に、当時日本国民であり、現在わが国にとつて特殊な外国人としての地位をしめる朝鮮人 についても一言しておかねばならない。
 韓国併合の翌年明治四十四年末に日本内地に在留した朝鮮人 は四千余人にすぎなかつた。大正中期に以後になって朝鮮人 が数多くわが国に移住するようになったが、そのおもな原因の一つは、朝鮮本土の人口増加である。日本統治の開始された明治四十三年の末に約千三百万を数えた朝鮮人 人口は、終戦前に三千万近い数(朝鮮本土に二千五百余万・日本内地・満洲・華北・ソ連等に約四百万)に達していた。とくに南朝鮮の農村の過剰人口が鉱工業の未発達な朝鮮内で吸収されないために、低賃金労働者として日本内地に渡航することになった。近距離なので、その移住のあり方は、出稼ぎ的に往来しながら(たとえば、大正十三年の渡航数は約十二万であったが、帰還数は約七万五千であり、昭和十三年の渡航数は約十六万であつたが、帰還数は約十四万であつた。)漸次、都市・工場・炭鉱地帯に定着し、昭和十三年末に在留者は約八十万を数えた。
 大正の中期以後、この
朝鮮人 労務者の移住は、治安・労務問題の上から社会問題化していたので、政府は行政措置により、生活の見通しの立たないものの渡航阻止を行なつた。その後、戦時態勢の進展にともない日本内地で国民動員計画が進められる際に朝鮮人 労務者もふくまれ、昭和十四年から九月から、朝鮮内の指定された地域で、企業主が渡航希望の労務者を募集し、十七年二月からはその募集が総督府のあっせんにより行なわれ、十九年九月からは国民徴用令にもとづいて行なわれた。しかし三月末には、下関・釜山間の連絡船がほとんどとだえ、その募集渡航が行なわれなくなった。(したがつて、国民徴用令による期間は六か月余であつた。)十四年九月以降、日本内地に募集された労務者は、六十三万五千余人となるが、そのうち契約期間がすぎて帰還したものがおり、また職場を離れて他へ移動したものもおり、終戦当時にその事業現場にいたものは、三十二万二千余人であつた。このほかに軍人・軍属として日本内地にいたものが終戦時に約十一万人いた。なお、右の期間中も、従来通り数多くの一般朝鮮人 が来往しており、終戦当時には、全在留朝鮮人 は約二百万を数えた。 朝鮮人 のおもな在留地は、六大都市をふくむ府県、朝鮮に近い福岡・山口・広島県および北海道の炭鉱地であり、以上の十道府県の在留朝鮮人 は、内地在留全朝鮮人 の約四分の三をしめていた。〉

 〈 第二節 占領下の出入国管理
     一、引 揚
 昭和二十年九月二日、横浜沖のミズリー号でわが国が降伏文書に調印してから二十七年四月二十八日の平和条約発効までの六年八か月の間、わが国の統治権は連合国最高司令官の制限の下におかれ、それまで内務省所管であつた
外国人の出入国管理は、総司令部の手に移った。
 総司令部が最初に処理しなければならないことは引揚であつた。海外にある日本軍および一般邦人あわせて六百数十万の引揚について急速な能率的活動をはじめたが、
同時に国内にいる外国人およびこれに準ずるものの本国引揚を進めた。
 在留
朝鮮人 は、終戦直後に帰国をあせり西辺の港に殺到して混乱を起していた。政府はいち早く動員労務者や復員者の優先的輸送の措置をとり、総司令部もその方針をつぎ、またそれにひきつづいて一般朝鮮人 の引揚を進めた。朝鮮から引き揚げてくる日本人をのせた船に日本から引き揚げる朝鮮人 がのった。帰国熱にかられた朝鮮人 は一日もはやい引揚をいそいで終戦から二十一年三月末までに百三十余万のものが朝鮮に引き揚げた。二十一年二月に、総司令部は帰国希望者の実態を把握するために、朝鮮人 ・中国人・台湾人・琉球人の登録を行なつた。その結果を朝鮮人 についてみると、二十一年三月十八日現在、在留総数六四七、〇〇六人が登録し、そのうち五一四、〇六〇人(うち北鮮への帰国希望者九、七〇一人)が帰国希望と登録した。総司令部はその五十一万余人の帰国希望者の計画輸送をすすめて、同年九月末までにその輸送を終了しようとした。
 
朝鮮人 は、終戦後、解放された祖国へ、大きな期待を持って引き揚げたのであつたが、国土が二分され、経済再建が思わしくなく、生活の見通しのたたないことから、これなら日本の方がまだよいとて、逆航するものが多くなった。一方、その当時に、日本において相当に自由にふるまえたことも、その引揚熱をさます一因ともなり、それまでに引揚を準備したもので思いとどまるものが多かつた。そのため総司令部・日本政府の熱心な努力にもかかわらず、同年夏以後の引揚はまつたく低調になって、二十一年四月以後、その年末までの引揚者は八二、九〇〇人にすぎず、その後、二十二年 八、三九二人、二十三年 二、八二二人、二十四年 三、四八二人、二十五年 二、二九四人という状態であつた。その引揚者をはこぶ船は佐世保から釜山へ一か月に大体一回運航していた。二十五年六月に動乱がおこって、それまでつづけられた集団的朝鮮人 の引揚は、終了することになった。
 以上により、終戦当時に二百万を数えた
朝鮮人 のうち、動員労務者・復員者は、個人の自由意思でふみ止まつたものを別とすれば、全員が優先的に引き揚げた。一般の在留者も約百万人引き揚げた。あと五十万人にちかいものが残ったが、これらの大部分は日本内地に早くから来往し、その生活基盤を日本社会に深くきずいているものであつた。
 なお、在留
朝鮮人 の中で北鮮に引揚を希望したものは、二十一年十一月に米ソ間に締結されたソ連地区引揚協定の実施により、二十二年三月と六月に合計三五一人が引き揚げた。〉


2004年1月25日付記事

http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200401/20040125-1.htm

朝鮮人 が日本に移住するようになったそのおもな原因の一つは、朝鮮本土の人口増加。

②昭和十三年末に在留者は約80万。

③戦時動員が始まった十四年九月以降、日本内地に募集された労務者は、63万5千余人。

朝鮮人 は終戦当時には二百万を数えた。

⑤動員労務者・復員者は、個人の自由意思でふみ止まつたものを別とすれば、全員が優先的に引き揚げた。


 結局は、日本人が良かれと思ってやった農業支援ですが、そのことで犯罪性向の高い朝鮮人を倍に増やしてしまい、併合時代に流入した朝鮮人からありもしない強制連行をでっち上げられ謝罪、賠償を叫ばれるようになってしまいました。

 日帝がまったく悪いことをしていないとは言いませんが、悪いことが一つとすると、良いことはその100倍も1000倍もやりました。インフラの整備(学校、病院、、警察、銀行、道路、下水道など)、農業、漁業の支援(農地開拓、灌漑事業、養殖技術、品種改良など)、身分制度の廃止、シャーマン治療の廃止、その他数え切れないほどの恩恵を朝鮮半島にもたらしました。

サムスンは併合時代の大地主で小作人に過酷な労働を強いて、搾取することで大儲けしました。親日法で財産を没収されなければならないはずですが、今のところリストにも乗っていないようです。

 ところが、日本が負けた途端、戦勝国を名乗り暴れ出しました。集団強盗、拉致監禁、建造物破壊、強姦、虐殺、不動産詐取など、朝鮮人はあらゆる犯罪に手を染め、日本人を地獄に突き落としました。朝鮮人はいまだに日本人被害者に謝罪も賠償もしていません。それどころか、被害者面をして、執拗に謝罪賠償を要求してきます。

 日本が併合時代から学ばなければならないのは、「情けは人の為ならず、巡り巡ってわが身に帰る。」ということわざは朝鮮人や中国人のような中華思想をもった人間には当てはまらないこと。

今もこれからも恩知らずで恥知らずな民族性は変わらないはず。

朝鮮人とはできるだけかかわらないことが教訓を生かすことです。