拷問・戦争・独裁逃れ…在日女性60年ぶり済州島に帰郷へ

 東京に住む76歳の在日コリアン、金東日(キム・ドンイル)さんは31日、60年ぶりに韓国の済州島(チェジュド)に帰郷する。朝鮮半島が南北に分断された1948年に島で起きた民衆の蜂起で故郷を離れたままだったが、韓国で過去の見直しが進み、腰をあげる決心がついた。



在日女性

 東京都江戸川区の小さな弁当屋で、金さんは土日も休まず店に立つ。ずっと故郷に足が向かなかったのは多忙だけが理由ではない。「またつらい目にあわされるのではないか」という不安が消えなかったからだ。

 48年4月3日に始まった済州島4・3事件だ。女学生だった金さんは、子どもにも容赦なく暴行を加える警察に反感をもち、山にこもった武装隊の伝令役として制服姿で島を走り回った。

 軍や警察の包囲網が狭まり、山の洞穴に身を隠した。雪がつもり始めるころ山をおりたが、警察に見つかった。一緒にとらえられた年長の女性は銃殺。金さんも拷問を受けた。刑務所に移されるため、島から離された。

 出所後、半島南端の木浦(モッポ)の叔父宅に身を寄せていた50年6月に朝鮮戦争が始まった。木浦は数カ月で占領者が南、北、南と入れかわり、金さんは再び拘束された。当時の韓国は独裁政権下。密航船で祖国を後にした。母の死の知らせが入っても足を運べなかった。

 やがて、韓国では民主化が進んだ。軍事政権下ではタブー視されていた4・3事件も、金大中(キム・デジュン)大統領下の2000年には真相究明と犠牲者の名誉回復のための特別法ができ、03年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が島民に謝罪した。

 今年は事件から60年。済州道庁などが4月3日に島で開く節目の慰霊式に在日コリアンの関係者も招かれた。金さんは最初はためらったが、最後の機会になるかも知れないと思い、初めて旅券をつくった。

 済州島では、幼いころサザエをとった海をながめ、両親の墓参りをしたい。事件で死んだ仲間の生きた証しにと、好きなヒマワリの種をふるさとの山にまきたいと考えているb。

2008年03月29日15時16分


http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY200803290044.html


終戦直後、在日コリアンは200万人。その内、100万人が密入国者。

GHQの統治下の7年間に連合国側から腕章を貰ってやりたい放題やっていたのが密入国の在日コリアン。


臥 龍 通 信
第二次世界大戦が終戦を迎え、朝鮮人民は戦勝国だと日本国内でも騒ぎました。
戦勝国は朝鮮を戦勝国とは考えていなかったようですが、1946年には「首相官邸デモ事件」で、朝鮮人2,000人が首相官邸にデモ行進して、官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘しました。朝鮮半島が分割の危機に直面した1946年には、朝鮮から21,420人が密入国して来ました。その後も、朝鮮半島からの密入国は1947年に6,888人、1948年には8,500人が密入国しています。朝鮮人民と日本国民との衝突はその後も続き、1948年には「4.24阪神教育事件」が起きます。大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で在日朝鮮人2,500人が府県庁を包囲して、知事等を軟禁します。 米国進駐軍は非常事態の宣言をして取り締まりました。首謀者は軍事裁判にかけられ、朝鮮人検挙者は1800人に上りました。1948年は大韓民国と朝鮮民主主義共和国が独立します。そのこともあって、朝鮮半島からの密入国者は警視庁の記録で、1949年に1,642人、1950年には3,612人と再び増加することになりま
す。1950年には朝鮮戦争が勃発し、1951年には密入国朝鮮人50人が強制送還の反対を叫び警察と衝突し、滋賀県で「日野事件」を起こしました。警察側の重軽傷者25人を出し、35人が検挙されました。1951年は朝鮮密入国者4,847人で、1952年には在日朝鮮統一戦線系学生1100人が警官隊と衝突する「吹田事件」が起きます。警察官を襲い拳銃2丁奪い、交番2ヶ所や工場を襲撃して朝鮮人113人の検挙者を出しました。1952年と1953年で朝鮮密入国者は4,667人となり、1953年の朝鮮戦争休戦で朝鮮密入国者は激減します。1954年には旧朝連系900人が警官隊と衝突する「第二神戸事件」が起きます。長田区役所、税務署などを破壊して、188人が検挙されます。1977年には「五箇条の御誓文」によって、日本の国税庁と朝鮮商工連間で所得税法で定められた税金を支払わなくて良いなどの取り決めが交わされます。この取り決めによって朝鮮総連系の企業は税金の特別特権を得ることになります。

戦後も密入国で続々日本にやって来て、集団強盗、拉致監禁、建造物破戒、強姦、殺人、不動産詐取など、在日の残虐非道な行為で多くの日本人が人生を奪われた。

そのため、在日は徹底的に日本人から恨まれ、疎まれ敬遠されることになり、そのことを在日は差別されたと話を摩り替えて、加害者が被害者に摩り替わり、現在にいたるまで様々な特権を半ば恫喝しながら獲得してきた。



当時「強制連行」など起こりようがない!!

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸は日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の 53.7%と半分以上になる。

昭和11~15年はまだ民間の自由募集の期間であり、次の16~19年の中でも「国民 徴用令」による徴集は19年の9月以降の僅か4ヵ月間であるから、単純に計算しても、この期間に徴用された者は16~19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人ほど にすぎない。そこに次項「昭和20年9月1日以前」の679名を加えた概算1889人ほど が、真に徴用の名に値する在日朝鮮人だという事になる。仮に「官あっせん」を徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月~19年8月の来日者 の推計数を全部加えても約1万1300人ほどである。従って、昭和20年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口が約210万人ほどであったから、何れにしても当時の在日全体 の僅か0.5%以下にしかすぎない事になる。(2002年現在の在日人口は約63万人)

当然これは正式な徴用としての徴集であるし、日本人も全く同じ条件であった訳で、 それが強制連行などではなかった事など説明するまでもない。この推定は、昭和16 ~19年間の月間来日数を均等として計算したものであるが、実際には、関釜連絡船 の運航は終戦が近くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半からの来日徴用者も減少しているはずであり、どんなに徴用の概念を広く解釈しても、終戦 当時の在日全体の0.5%を超えるような事など有り得ないし、その僅かな徴用者達
さえも実際には戦後まもなく帰国してしまった者がほとんどなのである。

更に、大正時代からの白丁などの被差別階級の大量の密航者や、朝鮮戦争時に 受け入れた大量の難民や密航者もこれに加えると、今残っているほぼ全ての在日が徴用とは全く関係の無い、単に自主来日した人達ばかりであるという事が分かる。


http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/


現在の在日コリアンはほとんどが密入国者であり、その子孫である。

戦前から日本に流れてきた在日のほとんどは被差別地域出身者であり、特に流刑地であった済州島出身者が多く占めている。関西では7割が済州島出身者だ。

現在でも、韓国では、身分差別、学歴差別、民族差別、性別差別、職業差別、地域差別など、あらゆる差別が存在し、就職や昇進、結婚などで制限がある。

特に、出自での差別は人間の尊厳まで奪われる過酷な差別が存在する。

在日が一端韓国にかえるもののまた日本に帰って来てしまうのもそこに理由がある。

在日が強制連行を声高に叫び、被害者を装うのは帰るに帰れないからだ。



済州島

韓国は伝統的に厳しい済州島差別があり現在も続いている。
済州島四,三事件では死亡者7万人にのぼり、それから逃れる為に日本に渡って来た在日コリアも多い。在日コミュニテイの中にもやはり済州島差別が残っているとガイドさんの説明がありました。
女の人が外で働き男の人は家でお酒を飲みお昼ねしておりのんびり男の人は暮らしておりますそうです。

http://www.olff.net/ina5/ebata/saisyutou/saisyuutou.htm


在日同士でも差別や軋轢があり、その鬱憤を安全な日本人にぶつけているところがある。

日本人はお人よしで、謝罪を要求するばすぐにお金を出すからだ。

そういった意味では日本人も責任がある。

在日は本来なら日本に逃れてきたことで命を繋ぐことができたはずなのに、日本人に感謝するどころか、加害者に仕立て上げて、理不尽な特権を要求し、時には日本人に手をかけ命や財産を奪うこともしている。

こんな理不尽な話は無いが、もともと犯罪性向の高い、根性がひねくれた朝鮮人にその口実を与えたしまったのは日本人だ。

彼らの善悪の基準は日本人とは違う。

どんな卑怯な手を使っても身内を守ることが道徳とするのが朝鮮人であり、何をしても許してくれる日本人は怖くないし、格好な餌食だ。

今、日本人がやらなければならないのは、このヤクザ気質の朝鮮人にこれまでの犯してきた罪に対して謝罪・賠償を要求し、屁理屈を並べられて責任を回避されようとも取り合わないこと。

そして、日本人の要求に応じない場合は、日本から全員追い出すことも視野に入れて毅然として対応をすることだ。