朝鮮王国

 朝鮮は独自の豊かな文化を持つ東アジアの国である。その長い歴史の大半を、朝鮮は周辺の大国に支配されてきた。中でも中国や日本は頻繁に朝鮮を政治的に支配してその文化に大きな影響を及ぼした。だが彼らは独自の文化性を保つ事に成功している。

 古代朝鮮半島で最初に記録された国家は、紀元前194年、衛満という将軍が衛満朝鮮を建国したとある。衛満朝鮮は、中国軍の攻撃を受けて滅亡するまでの間およそ80年余続く事となった。その後の朝鮮半島の北方地域は、中国皇帝の領地となり、西暦1年頃から900年までの間、朝鮮は3つの王国に分かれる事となる。中国の文化は朝鮮半島の北方に存在する王国に対して強い影響を及ぼした。この時期に、仏教、儒教、そして中国文字(漢字)が朝鮮半島に入って来た。日本の文化は南方にある2つの王国に対して中国文化以上に強い影響を及ぼした。

 10世紀から14世紀まで、高麗という名の仏教王国が朝鮮半島を統一した。高麗の王たちは独自に朝鮮を治めていたが、モンゴル帝国に朝貢しなければならなかった。高麗時代の1234年韓国人は金属活字印刷を発明した。高麗は1392年に滅び、その年に李王朝が成立した。儒教を統治原理とした李王朝は、ソウルに首都を建設した。この都市は朝鮮史の大半において政治の中心とされた。

 李王朝は儒教思想を学んだ学者の中から宮廷官吏を選抜するために科挙制度を採用した。朝鮮は科挙制度を始め様々な中国の文化を取り入れ、中国文化を取り入れることに専念した。だが彼らは、1440年独自の表音文字(ハングル)を作り出した。中国が朝鮮を軍事的に援助していた1592年から1598年にかけて日本人が侵略してきたが、中国の助けを借りて朝鮮は日本軍に抵抗した。この戦争では韓国人の英雄、李舜臣提督が世界最初の鉄甲船を作った。彼らはこの船を使用し日本艦隊の木造船を撃退する事に成功した。

 韓国人は日本との戦いで疲弊した。その結果、1630年代新たな侵略者、満州族が朝鮮半島全土を瞬く間に征服した。その後、満州族は中国の支配権を握る事となる。当時の李王朝の統治者は権力は維持したものの、満州族の政府に服属する事となる。朝鮮は中国の指導の下に鎖国政策を取った、難破して朝鮮に漂着したヨーロッパの航海士は監獄に収監されるのが一般的だったが1669年、拘留されていた8名の航海士が12年ぶりに朝鮮からの脱出に成功した。その中の一人であるヘンドリック・ハーメルはオランダに戻りその体験を本にまとめた。この本は西洋世界で初めて朝鮮について記述した書物となった。

 1860年以降、西洋諸国と日本は、開港して通商せよと朝鮮に対して圧力を加えたが、朝鮮はこれに抵抗した。同時期に朝鮮半島をめぐる中国と日本の争いが激化していった。両国は鉱物、木材などの朝鮮に存在する豊富な資源を手に入れようとした。1876年、朝鮮政府は日本の圧力に屈し通商条約を結んだ、その結果、幾つかの港が開港する事となる。間も無くアメリカ、イギリス、ロシアが朝鮮との条約を結んだ。この内、日本と同様に朝鮮の隣国だったロシアは朝鮮に存在する海に特別の関心を持っていた。

 中国の満州族政府は日本の影響が朝鮮半島で強まる事を望んではいなかった為、李王朝に対する統制を一層強固な物にしようとしていた。1894年、中国と日本の衝突は戦争にまで発展し、結果、中国は敗北する事となる。戦争終結後、日本は中国に対して朝鮮の独立を認めさせた。こうして日本は満州族の朝鮮支配を終焉させたのである。

 中国を退けた後、日本は李氏政権を改革する事業に取り掛かった。ロシアは日本に抵抗する朝鮮の勢力を支援していた。ロシアは朝鮮を自らの影響下に置こうとし、日本はロシアを朝鮮から排除しようとした。二つの列強は、1904年の戦争で全面衝突した。驚くべき事に日本は、陸と海での戦争でロシアに勝利する事に成功した。1910年、日本は国際的承認のもと韓国を合併して李王朝を終わらせた。朝鮮は日本帝国の最も大きな海外領土となった。

 日本の統治は韓国人にとっては過酷だった。日本皇帝の代理人である総督が朝鮮を統治し。最初の10年間、韓国人は言論と出版の自由を始めとする諸権利を持つ事が出来なかった。学校では日本の文化と言語を教え、朝鮮フ歴史は無視された。日本は朝鮮半島を食料供給用の米の生産とした。日本人の商取引は奨励されたが、韓国人はこうした取引からは疎外される傾向にあった。日本は他のアジアの地域を征服する為に朝鮮に幾つかの軍事基地を作る事となった。

 日本の統治は朝鮮に恩恵を与えた側面もあった。朝鮮の通信、輸送システムは飛躍的に発展し、日本人によって導入された近代的な産業技術は朝鮮の経済成長を促した。また高等教育システムは、多くの韓国人指導者を輩出した。朝鮮は第二次世界大戦で日本帝国が敗れる1945年まで独立出来なかった。現在も朝鮮は中国、日本、アメリカのような大国の影響下から抜け出せずにいる。

キム・ワンソプの親日派の弁明で紹介されたアメリカで使用されてる歴史教科書

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=99111&tab=five



古朝鮮


漢武帝は衛氏朝鮮を滅ぼした後、その後に郡県制をしいた。


(ソウル=聨合ニュース)「秦国(訳注:漢国の誤りか)が衰えて分裂した後、これを継いで新羅、百済、金官(伽耶)三国が形成された(人民出版社出刊'世界通史'437ページ)」北東アジア歴史財団(理事長キム・ヨンドク)は最近、中国歴史教科書の韓国関連記述の問題点を分析した研究で「中国歴史教科書の韓国古代史記述問題」「中国歴史教科書の民族・国家・領土問題」を出版した。

中国の中・高校歴史教科書の古朝鮮記述を分析したオ・カンウォン研究員は「中国歴史教科書の記述
をよく見れば、古朝鮮は野蛮、中国は文明世界という意識がある」「未開な古朝鮮社会を中国の文明人が開化させたというイメージを植えている」
と主張した。

中国の教科書はどれも一律的に「紀元前2~3世紀、古朝鮮の領域に多くの種族が散らばって暮していたという記述のすぐ後に衛満(燕国出身の亡命客)の(衛満)朝鮮建国と記載したことが明らかになった。これは、衛満朝鮮以前には朝鮮半島に政治的な実体がなかったとか、外部要人によって古朝鮮が形成されたという認識を植えつけることになる。

オ研究員は「私たち側の史料はもちろん、史記も戦国策、鹽鐵論、魏略など中国側の記録を通じて衛
満朝鮮以前に古朝鮮が成立していたことが分かる。これは意図的に前後の脈絡を切ってしまった記
述」と言った。また、中国の中・高校歴史教科書は燕国と秦の国の長城の東の終点を大同江あるいは
清川江河口と表記したことが確認された。燕・秦長城の東端は古朝鮮領域を推定することと直結する。
中国側の史料的根拠は太康地理志と通典で、秦の国の長城が楽浪郡遂城県碣石山で始まるという記録
だ。しかし、実際に楽浪郡遂城県に至る長城築造は計画だけ立てられただけで実行はできなかった。
中国で燕・秦長城遺跡と主張する大寧江(清川江の支流)一帯の長城は最近の調査の結果、高麗時代の物と明らかにされた。

中華史観に即した歴史記述は、大学歴史教材に至ればもっと深刻になる。人民出版社が発行した大学歴史教材'世界通史'は韓国の三国時代を'新羅、百済、金官(伽揶)'の三国に規定した。この教科書は高句麗を「漢玄兎郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年政権を樹立した後にも東漢、魏晋南北朝、隋・唐に至るまでずっと中原王朝に隷属した中国少数民族地方政権('世界通史'442ページ)"と主張した。羅当戦争は地方政権である高句麗が分立傾向を見せると中央政府である唐が単独でこれを戒めた後、直轄領を作ったというふうに記述した。

また、日帝植民史観に即した記述も確認される。


'世界通史'は4~5世紀、伽耶地域が日本の支配下にあったという任那日本府説を入れて「伽耶は4世紀に日本の侵略を受けた」と書いている。

ソース:聨合ニュース(韓国語)"中教科書 '古朝鮮=野蛮,三国=新羅・百済・伽揶'"
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2007/03/20/0906000000AKR20070320137800005.HTM


宗主国に言われては敵いませんね。韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが外の世界に出れば任那は日本の植民地で百済・新羅は日本の属国。

これが世界の一般的な認識ということです。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=99120&tab=ten