J・R・ブラック=イギリス人。海軍将校、商人、ジャーナリストという多彩な経歴を持つ。1863年(文久3年)来日、横浜で「ジャパン・ヘラルド」をはじめ新聞事業を次々に手がけた。青い目の落語家として知られた快楽亭ブラック(初代)は長男。


「ヤング・ジャパン1」より

 彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持よくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに、通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、「おはよう」という気持のよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった。


アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォード=イギリス人。1866年(慶応2年)~1870年(明治3年)、英国公使館の書記官として日本に滞在。その後2度来日。


「ある英国外交官の明治維新」より
 横浜初上陸の際ひどい悪印象を得て迎えた翌日の記述


 午後のひととき、公使館のまわりをぶらぶらと歩いていると、不意に水平線から、なだらかに優美な曲線をえがき、白雪をいただく円錐形の山頂がくっきりと天空にそびえ立つ富士山の全容が、私の目に映った。私は名状しがたい強烈な興奮に駆られた。昨日までは考えもつかぬ狂気にちかい気持の高ぶりであった。そして、その時の異常な興奮はいまもなおその余韻がさめやらぬし、おそらく生涯の終りまで消えることがないだろう。


イザベラ・バード=イギリス人。当時の女性としては珍しい旅行家で、1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。


「日本奥地紀行」より
 明治11年、京都を訪れるのに神戸から三等車に乗った時の出来事(邦訳本では省略)


 というのは“庶民”がどんな風に振舞うか、とても見たかったからだ。座席の区切りは肩までしかなくて、もっとも貧しい階層の日本人ですぐ満員になった。旅は三時間続いたが、人びとのおたがいと私たちに対する慇懃さと、彼らの振舞い全体に私は飽きもせず目を見張った。美しかった。とても育ちがよく親切だった。英国の大きな港町の近傍でたぶん見かけるだろうものと、何という違いだろう。日本人はアメリカ人のように、きちんとした清潔な衣服を身につけることで、自分自身とまわりの人びとへの尊重の念を現すのだ。老人と目の見えぬ者へのいたわりは、旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では彼らにかないはしない。



エドウィン・アーノルド=イギリス人。詩人。1889年(明治22年)11月来日。インドのデカン大学の学長を務め、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。

「ヤポニカ(Japonica)」より

 街はほぼ完全に子どもたちのものだ。
〈中略〉東京には馬車の往来が実質的に存在しない。四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。こういったものは例外だ。従って、俥屋はどんな街角も安心して曲ることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起こす心配などこれっぽっちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。この日本の子どもたちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は長いし、黒い眼はビーズ玉のよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ。


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)=アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれる。1869年(明治2年)に渡米、新聞などで活動。1890年(明治23年)、松江に英語教師として赴任。その後、熊本、神戸、東京と移り住み、日本に帰化。多くの日本論も残した。

「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」より

 将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。…西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、けっきょく日本は…あらゆる悪徳を、しぜんに育成していかなければなるまい。

 昔の日本が、今よりもどんなに輝かしい、どんなに美しい世界に見えたかを、日本はおもいだすであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情、――日本は嘆き悔むものがたくさんあるだろう。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。おそらくそのなかで、日本が最も驚くのは古い神々の顔であろう。なぜなら、その微笑はかつては自分の微笑だったのだから。


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)=アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれる。1869年(明治2年)に渡米、新聞などで活動。1890年(明治23年)、松江に英語教師として赴任。その後、熊本、神戸、東京と移り住み、日本に帰化。多くの日本論も残した。

八雲の講演「極東の将来」(中島最吉訳)より

 私は将来は極西のためではなく、極東のためにあると信じている。少なくとも中国に関する限りそう信じている。しかし、日本の場合は危険な可能性があるように思う。

 それは古来の、素朴で健康な、自然な、節制心のある、正直な生き方を放棄する危険性である。私は、日本がその素朴さを保持する限りは、強固であるだろうと思う。日本が舶来の贅沢という思想を取り込んだ時は、弱くなるだろうと思う。


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