南京陥落後の南京市内。南京大虐殺なんて本当にあったの? 
平和な南京市内。日本軍が入場した直後の映像です。入場直後に大虐殺はあったと言われ ていますけれども、こんな様子で南京大虐殺があったとは信じられない。...


南京

南京総攻撃の概要(要図参照)


 敵の首都、南京を攻撃するために各方面より進撃した各部隊は、昭和12(1937)年12月10日には大体要図のように南京を包囲しておりました。

 東からは私の属していました京都の第16師団、東南からは金沢の第9師団、宇都宮の第114師団が真南から、熊本の第6師団は西へ、第13師団の山田支隊は紫金山の北側の揚子江に沿(そ)った地帯を前進、さらに揚子江の向こう岸には国崎支隊(旅団長の指揮する第5師団福山第41連隊)と、南京は完全に包囲されていました。
 私は京都福知山20連隊の第3大隊を指揮して中山門に向かって攻撃をしたのであります。
 当時支那軍は、南京城外に第36、51、58、87、88、101、112各師団の南京保衛軍というのが要塞を作って防備をしておりました。
 松井石根総司令官は12月9日、飛行機で南京城内外にビラ(和平開城勧告文)を撒き、
 「戦争をするにしのびないから、南京を明け渡すならば攻撃はしない。承諾するかしないかについては、12月10日正午中山門城外に軍使を出せば、そこで交渉する」
 と勧告をしたのですが、敵は全く解答をしなかった。
 そこで日本軍は南京総攻撃に踏み切ったわけです。
 流石(さすが)に敵の首都でありますから、確かにものすごい激戦でありました。
 私の大隊の正面2キロほど先に溝山(かうざん)という小さな山がありましたが、12月10日の正午に攻撃を開始して、溝山に辿(たど)り着いたもう夕刻でしたが、敵の大部隊を前にして紫金山方面からもの凄い砲撃を受け、全く動けなくなりました。
 溝山は雑木林であったのですが、それが砲撃で丸裸になる程で、ここでも損害が続出しました。
 南京の総攻撃はそういう状況から始まりまして、11日、12日と、全然動けない状態でした。
 12日の夜半11時から12時頃と思いますが、突然銃撃が激しくなりました。
 私はこれは敵が退却する前兆であると感じまして、1時間もすれば銃撃が止むだろうと思っていましたら、案の定ピタッと止まりました。
 すぐ将校斥候(せっこう。偵察の事。)を派遣しましたが、午前2時過ぎにその斥候が帰って、「中山門まで敵なし」との報告を受けましたので、直ちに中山門に突入する決心を致しまして連隊長に報告をし、第三大隊突入のご承認を得ようとしたのであります。
 その報告を出すと入れ違いのように連隊長から、
 「第三大隊はその場に止まり引き続き警戒に任ずべし。連隊は軍旗を奉じて、予備隊を以(も)って中山門に突入する。」
 という命令がありました。
 今まで3日間程随分苦戦を重ね、今突入出来るという時にそこに止まっておれと言われた、その時の悔しさは私は一生忘れることが出来ません。
 連隊長が軍旗を奉じて中山門に突入・占領されたのは、13日の午前4時頃でした。
 他の部隊も、京都の9連隊が中山陵、明孝陵の辺りを攻撃し、津の33連隊は紫金山を攻撃、佐々木支隊(旅団長の指揮する奈良の38連隊その他の砲兵等)は、紫金山の北側から南京最北の獅子山に向かい突進しました。
 第9師団は私の師団の左を東南から光華門を占領し、宇都宮師団は雨花台から中華門に、第6師団は西側を北上攻撃、こういう次第で南京は昭和12(1937)年12月13日に陥落したわけであります。


「南京大虐殺」論は何故起こったか

 これだけ大きな戦争をやったのです。
 何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
 しかしながら「大虐殺」などということがなぜ言われるようになったのか。
 その第1は、戦後に東京裁判において、検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
 支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択されたことが第一の原因であります。
 第2は、東京裁判が進行するに従って、NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
 ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。
 第3は、新聞報道機関が「虐殺、云々(うんぬん)」と盛んに書きたてた、それを一般の人が信じるようになった事であります。
 NHKラジオ放送と同様、統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。
 しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、一般の人も信じるようになったわけであります。

http://www.history.gr.jp/~nanking/moriou.html


【中国】ウイグル独立派など「3大反動勢力」が五輪破壊の計画と準備を進めている[07/12]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1184230045/

【中国】中国が独立派18人殺害 新疆ウイグル自治区[01/09]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1168260265/

【中国】中国、報復判決か ウイグル人権活動家の親族に実刑[11/29]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1164772307/


中共が南京を持ち出すのは現在進行形で行われている臓器狩りや拷問、強制労働や強制堕胎手術といった悪魔のごとき人権侵害を隠蔽するため。


【中国】農民を強制排除し、ブルドーザーで農地を潰す画像を共同通信が入手 チワン族自治区[04/29]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1177834033/

【中国】不妊手術や中絶手術を強制、罰金⇒チワン族自治区で一人っ子政策に反発暴動、数十人死傷 [5/22]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1179801377/

【中国】 いんちきだらけの少数民族競技会~取材したレポーター「こんなにひどい競技会は今までみたことがない」[10/01]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1159880992/


東トルキスタン.jpg

東トルキスタンは中国侵略されただけでなく、自国内で核実験を実施され、大量強制堕胎手術を施され、50年で1000万人以上の人民を虐殺されてしまった。

こんな悪魔のような国家が次に触手を伸ばすのは日本である。

日中友好を謳っているが、日本の技術と金が欲しいだけである。

その次は何か?日本人の人命だ。

中国の人民のためにも中共の延命に加担するのは即刻止めるべきだ。

1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘


2007年現在でも、非漢族に対する大虐殺、婦女子を強制連行・中絶・不妊手術、まさしく民族浄化を継続中である。


黄文雄 『ジョーク でわかる中国の笑えない現実』(徳間書店)

農民が種を蒔いたが、ちっとも農作物は育たなかった。種が偽物だった。
絶望した農民は農薬を飲んで自殺をはかった。が、死ねなかった。農薬が偽物だった。担ぎこまれた病院で点滴を打たれた。突然死んだ。点滴が偽物だったから。

これには最後の説に違うバージョンがあり、
生き返った農民を家族が祝い、酒を飲んだ。そしたら全員が死んだ。なぜって、言うまでもない。酒が偽物だったから。

まさに中国は地獄だね。中国人が嘘つきで残酷なのはあの魔大陸で生き延びるために身に付けた能力なんだろうけど、日本もいずれそうなるね。

だって福田と小沢が両党首そろって日本を中国に献上しようとしているから。