尼 港(にこう) 事 件


1920年(大正9年3月-5月)、ロシア人、中国人、朝鮮人からなる約4千人の共産党ゲリラの襲撃により、日本の領事館員、領事夫妻を含めて5人、軍人351人、居留民384人(そのうち女子供は184人)が、陵辱的暴行を受けたうえ虐殺、掠奪された。
(後の1937年に起きた「通州事件」は、第二の尼港事件と言われた)

第一次大戦の末期、ロシアに大革命が起こり、1918年(大正7年)の3月帝政が滅ぼされ、11月に社会主義共和国が建設されることになっていた。
日本は、米英仏と連合してシベリアに出兵して、イルクーツク付近以東の治安維持に任じていた。

尼港(にこう)=ニコラエフスク=現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)は、間宮海峡を挟んで、樺太(サハリン)と向かい合った大陸の、黒竜江(アムール河)の河口にある最果ての小市街である。
人口は、約1万5千人。この方面の漁業の中心地であり、サハリン州庁、領事館などもあり、政治の中心地でもあった。夏季間は相当活気に満ちているが、冬季になると、河が凍り、雪が降り始めると外部との交通が遮断されて、孤島のような状態になる。
ここに居留する日本人は、約440名いた。ロシア人の他に、中国人、朝鮮人、
英国人など約4500人が住んでいた。

日本軍は、大正7年9月、海軍陸戦隊が尼港に入り、この地域の治安と守備にあたった。日本軍に協力する反共産、反過激派軍が500名、反革命政府の訓令により編成された自治会もあった。しかし、例によって素質が悪く、まるで過激派のシンパのような者も含まれていた。

日本軍が、尼港の治安の維持を開始してから丁度1年経った大正8年夏頃ウラジオストク付近から逃げてきた共産党ゲリラと過激派十数名が尼港に潜入して工作を開始した。
彼らは勢力を急速に拡大した。ハバロフスクと尼港間の電線が切断され、討伐隊が被害を受けるようにもなった。情勢は漸次切迫して、過激派が、いつ来襲するか分からない有り様となっていた。

年が明けて大正9年正月、守備隊は、戦備を固め、数回の討伐を実施した。
市内で共産過激派に味方する労働者の指導者十数名を検挙した。
ロシア人による反過激派自衛団も組織された。

大正9年2月5日、赤軍共産過激派は、要塞などを奇襲占領し、海軍無線所を破戒した。このため、守備隊と外部との通信が遮断された。

一方、日本国内では、以前から、現地の情勢を石田領事から受けていたので、2月13日、尼港救援隊の派遣を決定をした。
しかし、国際的立場を配慮し、出来るだけ円満に解決して、民衆の感情の融和を考慮しなければならないと思ってか、3月6日、援軍の派遣を一時中止した。
冬季的困難な事もあつたと思われるが、大した事は無い、などの偽の情報に接したのか、援軍派遣を阻止する敵の策略に嵌ったのか、日本は、援軍派遣を一旦中止し、待機させたのである。

その後、尼港の情報は入らなかった。ここが日本の一番悪いところである。
連絡が途絶えれば、何かがあったと解釈するのが当たり前で、国益、国民の安全を第一と考えれば、国際世論など気にせず、すぐ駆けつけ、国民の生命と財産を護り、救助するのが当たり前である。

一方、尼港では、情勢が激変した。何しろ相手は、赤軍過激派、共産ゲリラ、ロ・中・朝の騙し屋グループである。

2月24日、過激派軍から、休戦を提議してきた。守備隊長がこれを受け入れ、28日交渉がまとまった。
ところが尼港に入った過激派は、協約を全く無視して、反過激派を投獄、虐殺し始めた。そして、労働者を集めて強制的に軍隊を編成して勢力を拡大した。
虐殺を恐れた者は、共産・過激派に取り込まれていった。
敵は、一転して日本軍撃滅の準備を進めたのである。

3月11日、赤軍・共産・過激派は、逆に守備隊の武装解除を要求してきた。
守備隊長は、機先を制して、過激派の企図を粉砕する決心をして、12日午前2時、過激派の主要拠点を急襲した。しかし、敵の共産過激派勢力は、いつの間にか遙かに多勢、優勢となっていて、激烈な市街戦となり、戦況は逐次不利となり、大隊長以下殆どが戦死した。日本の石田領事一家は全員自決した。

市内の日本居住民は、老若男女、老幼婦女の殆どが虐殺された。
兵営では、傷病者及び非戦闘員47名を含めて、約百名が防御配備につき、過激派の猛攻を阻止して、交戦すること四昼夜、見事兵営を死守した。

正面からは勝てないと思った共産ゲリラ過激派は、守備隊に休戦を申し出た。
守備隊は、それを受け入れて戦闘行動を停止した。すると、卑怯にも赤軍過激派は、直ちに守備隊を取り囲み、守備隊の武装を解除して兵営に居た者全員を監獄に監禁した。

時は3月15日、ここに尼港は完全に共産喜劇ゲリラに占領された。
そして虐殺と掠奪が続いた。

4月13日、旭川弟27聯隊の多聞大佐は、尼港への出動命令を受けた。
4月16日、派遣隊は、小樽港を出発、北樺太西岸のアレクサンドロフに上陸、前進の機を待った。
5月7日、津野一輔少将の指揮する「北部沿海州派遣隊」が編成され、尼港派
遣隊は、「多聞支隊」と改称した。
5月12日、「多聞支隊」は、アレクサンドロフスクを出帆、樺太対岸のデカストウ
リに上陸、峻難な悪路を踏破して北上した。
同時に、ハバロフスクから弟14師団の国分支隊が黒竜江を下航した。
5月25日、両隊は、尼港南方約130キロのキジ部落で合流、寡少の過激派軍を撃破しつつ、進軍した。
6月3日、多聞支隊がついに尼港に進入した。
6月4日、津野少将の派遣隊も海路を北上して、尼港に上陸した。

日本の救援隊が尼港に辿り着く、その10日前、尼港を占領した過激派軍は、日本軍の来襲にたいする準備をしていたが、もとより彼らは、信念の無い烏合の衆、ついに彼らは尼港を放棄して逃げ出す事を決定した。
そして、日本の救援隊が尼港に入る10日前の5月25日、それまで監禁して生き残っていた日本軍人、そして、反過激派の人民達を全て惨殺、掠奪して、市内の建物全部を焼き払い、西方のアムグン河谷の森林地帯に逃走したのである。

6月3日、日本軍が尼港に進入した時、全市は満目荒涼とした焼け野原と化し惨憺たる光景を呈していた。
日本軍は、折角救援に向かったのであるが、ただの一人も救出出来ず、恨みを呑んで虐殺された屍体を見出すのみであった。

尼港に入った救援隊は、先ず同地の警備、遺棄屍体の供養、兵器弾薬の押収そして、山奥に逃げていた帰来住民の処理をなすとともに、破戒された尼港付近の諸調査、整理などの対策を講じた。

7月末、派遣隊は、命により、アレクサンドロフスクに退却、新たにサガレン州派遣隊が編成された。司令官に児島惣次郎中将、参謀長に津野少将、多聞大将は高級参謀となった。

尼港事件、及びにその救出作戦は、外地に於ける居留民保護が、国際的に、地理的に、作戦的に最も困難であることを示すものであることを知らせている。

尚、過激派は、赤軍系パルチザンと韓人牧師朴エルリアが組織した「サハリン部隊」とが連合したものであった。日本人7百数十名の他、裕福な善良なロシア人5千人以上が虐殺され、掠奪され、街は素経て焼き払われた。

いつの時代にも、憎っくき過激派・共産党の通った跡には、虐殺と掠奪が続き、その後、市街が焼き払われ、荒涼荒野と化すのである。