慰安婦非難決議オランダ下院で可決 欧州議会でも動き

 【ハーグ=木村正人】オランダ下院本会議は20日、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める決議案を全会一致で可決した。オランダ政府は日本政府に決議を伝え、回答を求める。欧州連合(EU)の欧州議会にも12月に慰安婦問題で非難決議案を採択しようという動きがあり、日本政府は対応に追われている。

 この問題では7月に、米下院本会議も日本政府に公式謝罪を求める決議案を可決している。

 決議案は8日、野党、自由民主党のハンス・ファンバーレン下院議員らが提出。旧日本軍の強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官談話を堅持し、「強制売春」に対し責任を取る▽元慰安婦に謝罪と補償を行う▽教科書に慰安婦問題を記載する-ことを日本政府に求めている。

 同議員は産経新聞に対し、「わが国の元慰安婦に対する強制性は明らか。日本政府には年内の回答を求めたい」と話した。

 一方、欧州議会のジーン・ランバート議員(緑の党、英国選出)は12月13日に開かれる本会議で慰安婦問題に関する対日非難決議案を採択するため、最大会派の欧州人民民主党と調整を進めていることを明らかにした。今のところ同党の同意は得られていないが、「決議案採択の日程で合意できれば決議案は採択されることになるだろう」との見通しを語った。

http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071121/erp0711210020000-n1.htm



鬼畜米英以上に鬼畜 それがオランダ


過酷な人種差別の実態[オランダ人の場合]
英国人と共に有色人種蔑視の傾向が特に強いオランダ人によって、四百年近くも続いたジャワ(インドネシア)の植民地支配は過酷なもので、現地人( インドネシア人 )は家畜よりもひどく扱われてきました。オランダの植民省が懸命にその公表を阻止しようとした「検察官 レムレフ の報告書」によれば、スマトラ島の タバコ農場では、

オランダ人は現地人を米国の黒人奴隷と同じか、それ以下に扱い 「 ムチ打ち、平手打ち 」 は当たり前だった。また現地人労働者の生命は軽視され、ごく簡単に殴り殺された。スマトラ島の農場では
意図的に米を栽培せず、
ビルマ・タイからの輸入米に頼っていたので、島民は米が手に入らず、生きてゆくためには労働者として オランダ人の農場で働くしか方法がなかった。

刑務所で過酷な労役を課せられていた囚人が、元の オランダ人の農場よりも食事の質が良いからと、刑期を終えても出所を拒んだ例もあった。

と報告書にありました。近親者の葬儀でも作業を休むことは許されず、病気になると農場内の鉄格子のはまった病棟に入れられましたが、抜き打ち検査で係官が目にしたその光景とは、

鉄格子から鼻をつく悪臭が外に漂い、数平方 メートルの空間に、男二人、女八人、それから二十四時間前に死んだ死体が 一つ臥していた。飲み水も便所もなく、排泄物は土を掻き寄せて排泄物にかけて、壁の隙間から外に押し出すだけだった。飲み水が欲しい場合には外を通りかかる労働者に頼み、一日一回支給される食物を、水と交換しては手に入れていた。

病気を治す為の病棟どころか逆に、病気になった際の休養や、怠業(?)をさせない為の「みせしめ」としての懲罰小屋というのがその実態でしたが、現地人が虐待により死亡した場合でも、オランダ人農場主の責任が問われることはありませんでした。
太平洋戦争の際にジャワ( インドネシア )占領に参加した近衛連隊の総山 ( ふさやま )孝雄氏の記述によれば、

オランダ人は高床の家に住み、現地人は土間に寝た。オランダ人は「より取りみどり」で現地の女性を現地妻としたが、オランダ人から夜に呼ばれ相手をさせられる場合に限り、現地妻は床上に寝るのが許された。
オランダ人は統治戦略上、混血の子供には オランダ国籍を与えたので、母親は裏の土間で寝たが、子供は床上に起居して自分の母親を下女のように叱りながら、こき使っていた。

そのような、人種差別の酷い国が日本軍にインドネシアから叩き出された訳だから、その報復軍事裁判は悲惨を極めた!


戦後のインドネシアで行われたオランダ軍の日本兵への軍事裁判では 「オランダ軍は日本とは九日間しか戦っていないのに 判明しているだけで戦勝国中最も多い236人の日本将兵を死刑に処したのである。」しかも、そのほとんどがいわれの無い罪での冤罪。小林よしのり(よしりん)風に言うとドイツのゲシュタポの秘密裁判と同じ。初めから処刑にするつもりで裁判を行い証拠があろうが無かろうが死刑判決が出て即座に処刑する。

白人は戦前、当時奴隷のインドネシア人が病気になっただけで仮病を使われないようにと見せしめに劣悪な環境に放り込んだり、労働者をごく簡単に殴り殺したりしていただけあって、日本兵への処刑は単なる処刑とは異なりリンチ虐殺レベルで、



靖国論 より引用



http://youmenipip.exblog.jp/

岩川隆著「孤独の土となるとも」に収録された証言ではティモール島の西端クーパンの収容所では次のように書かれている・・・

収容所はサンゴ礁の上にあった。

「お前達の墓を掘れ!」と言われて大きなハンマーとツルハシで作業させられたが、太陽に照らされてフラフラになり倒れそうになるといきなりボクシングのサンドバックと同じように殴打される。失神するとテントまで引きずって行って水をかけ気が付くとまた彫らされた。一日に失神すること三回。サンゴ礁の上を引きずられたときの背中の傷が痛み夜は寝ることができなくなるのだ。 

大きい石を意味も無く動かすように命じられ、運んでいると殴ったり足をかけたりして倒す。

食事は乾パンにコーヒーだけ。あるいは少量の水とビスケットだけである。

一週間もすると皆殴打のために 顔はふくれ体はむくんだ。私は睾丸が大きく晴れ上がった。

取調べを受けた者が部屋から出て来た時には死体になっていたことがあった。体には多数の皮下出血がありあきらかに虐待致死だったが その取調官が裁かれる事はなく 
虐待されている日本人捕虜達が身に覚えの無い「捕虜虐待」の容疑を掛けられ次々処刑されていった。




インドネシアの中学3年用の歴史教科書
・・・引用・・・・

「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。
第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は 驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して 、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場から
オランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」わたしたち日本人にはまったく教えられていませんが、インドネシアの子供達はこういうふうに、このあいだの戦争について習っているのです。ちょっと驚きですね。

そしてスカルノとハッタは連合軍が来る前に、昭和20年(1945)8月17日午前10時、多くの民衆の見守るなか、独立宣言文を読み上げたのでした。ちなみにこの宣言文の日付けは「17-8-‘05」と記されています。「’05」とは、これまた誰も知らないでしょうが、「皇紀」または「神武紀元」といって日本が使っていた暦に基づいています。西暦(西洋の暦)はキリストの誕生を元年としますが、「皇紀」は初代の神武天皇の即位の日を元年としています。
どちらも神話、伝説上のことですから、正確であるわけはないのですが、「皇紀」によると昭和20年は「2605年」にあたります。 その下2ケタをとって「‘05」。なんて聞くとまたまた驚きですが、今もジャカルタのスカルノ、ハッタ記念公園(独立宣言広場)に行けば、
この宣言文がレリーフになってスカルノとハッタの銅像のまんなかにあるので誰でも見られます。



インドネシアのマスコミは、5年前にオランダ女王を迎えるにあたって、このような意見を載せました。


「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」

自由主義史観研究会
http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu_g_4.html