南京入城・旧陸軍兵の証言 「城内は平穏だった」

■城内は平穏だった 滞在1カ月半、銃声聞かず


 旧日本軍が中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われた昭和12(1937)年12月17日から、70年がたつ。事実と虚構が入り乱れ「南京事件」の呼び名も定まらないなか、事実を語り継ぐことができる軍人や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣清さん(97)は、平穏だった城内の様子を証言、いわゆる“大虐殺”とは大きな開きがあると話した。(牛田久美)


 稲垣さんは昭和12年夏、27歳で獣医官として召集。上海派遣軍第16師団(京都)で食料輸送を担当する輜重(しちょう)兵第16連隊に配属され、南京には12月16日から翌年1月30日まで滞在したという。


 自ら食料を運んだ体験から「食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび違和感を覚えました」と話す。稲垣さんは行軍を8ミリフィルムなどで撮影している。「蒋介石の妻の名を冠した建物『美齢宮』が、日本軍の標的とならないよう黒塗りされたという南京国際委員長、ラーベの日記が知られていますが、のどかな風景に白い建物が写っています」。高い城壁に囲まれた南京に入ったときは「焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民はみんな難民区(安全区)へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんでした」。


 多数の犠牲者を出したとされる“掃討作戦”も稲垣さんは「当時、全く知りませんでした」と語る。当時、馬の伝染病が流行していて検疫や予防接種に奔走した。滞在した1カ月半、銃声は一度も聞かなかった。


 入城後、10日もしないうちに中国人は安全区から出るようになり、城内に市も立った。その映像もある。「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売ろうとする中国人もいました」。このころの写真や合成写真が後に「残虐行為を働く日本兵」として広まっていく。


 次期アカデミー賞の有力作品に挙げられている米映画『南京』への出演依頼もあったという。「私の体験と、映画の方向性があまりにも異なるので断りました」という稲垣さんは、反日史観に基づく映画について「全くのウソです。虐殺のぎの字も、事件のじの字も、従軍した私たちは聞いたことがなかった」と残念そうに語る。


 虐殺30万人、婦女暴行8万人…などという極端な数字が定着しつつあることについても「死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時、トラックは貴重でした。中国軍が荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです」。


 虚構が独り歩きした背景については「南京郊外の紫金山での戦闘では日本兵949人が戦死した。中国側も多くが戦死したことでしょう。そうした城外の戦闘が誇張されているのでは。多数の死体を見たと証言する日本人は城外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です」と語る。


 証言と通説に大きな開きがある南京攻略戦。実際に南京にいた人々の証言を聞く機会がなくなったとき、史実はどう伝えられるのだろう。貴重な肉声に冷静に耳を傾けたい。


http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071217/acd0712170826004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071217/acd0712170826004-n2.htm


産経新聞 2007.12.17 08:25


南京大虐殺のウソ

http://www.youtube.com/watch?v=6ssgUYGHHwE


石原慎太郎都知事

南京虐殺、「最多は蒋介石軍」

中国の戦略強化に懸念-石原都知事


訪米中の石原慎太郎東京都知事は3日、ワシントン市内で講演、日中戦争で起きた南京大虐殺について「最も数多く殺したのは国民党の蒋介石の軍だ。当時の日本の装備で6週間に40万人を殺せるわけがない」と述べ、旧日本軍が大虐殺を行ったとする中国政府の主張に異論を唱えた。

同知事は日中戦争で旧日本軍がある程度の殺りくを行ったと認める一方、「日本と中国の間で正確な分析が行われるべきだ」と主張した。さらに「文化大革命当時に3000万人の犠牲者が出たが、中国の歴史教科書では日本が戦争中にやったことになっている」とも指摘。客観的な史実の検証が必要との考えを示した。

一方、知事は日本最南端の沖ノ鳥島(東京都小笠原村)近海を含む日本の排他的経済水域で中国が資源調査を繰り返している問題に触れ、「浅くても水深は2000~3000メートルで資源開拓はできない。目的は潜水艦の航路テストだ」と主張。中国が米軍の重要拠点である沖縄やグアムをにらみ軍事戦略を強化していると懸念を示した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051104-00000024-jij-int

時事通信


南京の真実 国民の集い 旧日本兵証言「大虐殺なかった」

http://www.youtube.com/watch?v=622Vw3hWR40&feature=related



日中戦争に引きずり込んだのは中国共産党


我々中国人は虚言の世界で生きている。習慣的な嘘は我々中国人の生命方式であり、唯一の言語だ。このような虚言の世界では、虚言の感覚すら失われて嘘が「真実」として受け止められ、歴史さえも勝手に操作され、現実も創り上げられてしまう。中共は虚言の機械であり、億万の中国人の心をダメにした。

日本政府は中共の反日プロパガンダによって捏造された事実無根の戦争犯罪なるものを謝り続けているが、よく言われるようにそもそも日本は中共と戦争していない。日本軍が交戦した相手は中華民国であり、つまり現在の台湾国民党政権との戦いである。

今でも中共が日本謝罪強要するのは、徳川末期の文久三年に薩摩藩と戦争したイギリスが大正時代ぐらいになっても日本政府に謝罪を求め続けるようなものだ。

当時のシナの実状

当時のシナは

  • 米国が支援する蒋介石(国民党抗日派の重慶政権)

  • 日本が支援する汪兆銘(国民党親日派の南京政権)

  • ソ連が支援する毛沢東(共産党の延安政権)

の三派が争った内戦であり、日米ソの代理戦争に他ならない。それゆえ 日本がシナに宣戦布告することもあり得ず、「支那事変」と呼んでいたのであり、「日中戦争」は戦後の造語だ


しかも日本留学経験があり孫文の弟子として元々反日でなかった蒋介石を、昭和十一年の西安事件で張学良に監禁脅迫させて、「抗日」国共合作に追い込んだのはソ連と中国共産党である。

日本が敗戦したために、親日派の南京政権は貧乏くじを引いて処刑され、日本だけが「侵略国」として一方的に悪者にされただけだ。もしも外国の内戦を支援することが侵略ならば、中共自ら朝鮮、ベトナム、カンボジア等を侵略したことになる。日本の悪かったのは、敗戦したことだけだ。

汪兆銘派のその後

汪兆銘は戦時中に病死したが、その後を継いだ陳公博や周仏海など親日派の南京政権の要人五十二名は、日本の敗戦後に無惨にも銃殺された。

さらに「親日派=漢奸」とされた人々約四万人が処刑や処罰を受けるに至り、 処刑された人々は墓を作ることさえも許されなかった

国民党によって漢奸裁判にかけられた汪兆銘の妻の陳壁君は、「罪を認めれば減刑する」という司法取引を断固拒否し、法廷で

「日本に通じたことが漢奸だというなら、国民党はアメリカと、共産党はソ連と通謀したではないか。我々の志は間違っていたのではない。単に日本が負けたから、こうなっただけだ。」

と堂々と陳述し、終身刑を受け入れ獄死している。日本が本当に謝罪すべきなのは戦争相手でさえない中共政権なんかではなく、日本を信じて共に戦い日本と命運共にして処刑されていった汪兆銘一党に対してではないだろうか。

蘆溝橋事件の真相

そもそも支那事変の発端である蘆溝橋事件が中国共産党の謀略による発砲であったことは立証されており、それは人民解放軍総政治部発行の軍事教科書「戦士政治課」にも載っている

同事件発生時にソ連コミンテルンは中国共産党に対し、

「局地戦争を避け、日支の全面戦争に導くこと。局地解決や日本への譲歩に動こうとする要人は抹殺せよ。」

と指令を発しており、支那事変の拡大を推し進めたのは日本ではなく中共なのである。

日本政府の対応

昭和十八年、大東亜会議に先立つ対華新政策決定により、日本政府は汪兆銘政権に対して

  • 一切の不平等条約を破棄

  • 租界の返還

  • 治外法権の放棄

  • 蒋介石政権が和平に応じて汪政権に合流すれば日本軍を支那から撤退すること

を約束した。もしも侵略の意図があるなら何故こんな決定をするのか。


日本が望んだのは支那に安定した親日政権が樹立され、白人諸国の植民地主義に共に対抗する友邦となること、それだけである。

西安事件や蘆溝橋事件でことごとく妨害し、戦火を拡大させたのは中国共産党なのだ。 日本の中共への謝罪とは冤罪被害者が真犯人に謝罪するようなものである。


http://ameblo.jp/greg-greger/entry-10034061065.html


北京TV「盧溝橋事件は支那共産党地下党員がまんまと引き起こした」と報道

2005年7月3日、支那のTV局北京電視台の午後4時からの番組「社会透視」内で、支那事変の発端となった1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件は、北京守備隊支那国民党軍第29軍に潜入していた共産党地下党員
『吉星文』『張克侠』『何基?』らが引き起こし、まんまと抗日戦争へと発展させる事に成功したと報道した。
http://usam.blogtribe.org/entry-ab5da5fe2dc41716359b819172eefbab.html

盧溝橋事件がきっかけで日本と中国は全面戦争になった。
盧溝橋事件は日本側が仕掛けた悪事だと宣伝されている。
ところが、この盧溝橋事件を仕掛けた真犯人は中国共産党員だと自分自身で白状した。
それは、中国共産党員エージェントが日本軍をあおって盧溝橋事件を引き起こしたという内容だ。
戦禍が拡大すれば、中国社会が混乱する。事実、そうなった。
その混乱に乗じて中国共産党が弱った中国を乗っ取り、共産主義国を建国した。
そして、中国共産党は粛清を開始し大陸全土を人権のない地獄の世界に変えた。
盧溝橋事件が日中戦争の発端というのは中国側の考え方

日本は11日に結ばれた、現地停戦協定に従ったし
停戦協定を破棄した中国側に対し、粘り強く交渉を続けた

それなのに、愚かにも中国は、上海を奇襲 、10コ師団を投じた大規模攻勢で一気に全面戦争。

『憲兵物語り』-ある憲兵の見た昭和の戦争ー

P-53~
戦争の実態

森本の聞いたかぎりでは、日中戦争が拡大していった状況は、こういことだった。
―政府の不拡大方針をよそに、支那事変が拡大した発端は、北京~天津間の軍用電話交換所・楊村(ヤンソン)の日本軍守備隊15人を、国民党中央軍が虐殺したことだったというのは、常識だよ。
目はえぐれ、舌と鼻はそがれ、丸裸で睾丸も切られ、首にかけた認識票でしか身元を確認できない惨状だった。切り取ったものは、柱なんかに打ちつけておったんよ。
だから、天津から駆けつけた一連隊の救援隊が怒って、あたりかまわず殴り込みを掛けて、砲弾を打ち込んだのよ。
楊村の駅前には、支那軍の王以哲と張治仲の39旅団司令部があったんだよ。その連中がやった。それで、盧溝橋だけではすまんようになった。


前中国国家安全局警官:日本にもスパイを多数派遣
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/07/html/d46536.html


中国の歴史歪曲例

■済南事件で中国人に虐殺された日本人被害者の検死写真を・・・
http://sky.geocities.jp/pac_remix/honron/horrible.html

■中国の歴史教科書に、「731部隊の人体実験」として掲載!(翻訳版)
http://mouse99.hp.infoseek.co.jp/98.jpg

■「731部隊の人体実験」として、蝋人形にして展示
http://mouse99.hp.infoseek.co.jp/731_6.jpg


日本人に対する掠奪と暴行、殺戮が、中国人、韓国人によって行われたことは事実


通州事件は、事件後直ちに救援に向かった日本軍守備隊により、詳細な記録が残っており、「事件直後から」新聞報道がされている。(ここが南京事件との違いである)要約すれば、数千人と推測される中国保安隊に襲われ、北京東方、通州城内の日本軍守備隊(140名)は、必死の防戦空しく全滅し、その後に残された住民260人が、筆舌に尽くしがたい残酷な方法で虐殺されている。14才から40歳くらいまでの女性は、全員強姦された上、陰部を刺されて殺され、その他、目玉をえぐる、内臓を掻き出す、子供の指をそろえて切り落とす、針金で数珠つなぎにする、生きたまま皮をはぐ、手首足首を切り落としてばらばらにする、口に砂をつめて窒息させるなど、「日本人には考えつかない猟奇的な方法」で殺害されている。斧で顔をぐしゃぐしゃにされた人以外、一人一人の検死資料も残っており、記録を見ると胸が押しつぶされる気がする。

 満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、ロシア兵も中国共産党軍も造船八路軍も暴虐の限りを尽くしている。後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている。


造船八路軍

 中国の共産軍に対して、当時造船の義勇軍をそう呼んだもの。手記の前後には、金日成に率いられた「李紅光支隊」とある。造船八路軍に捕らえられた日本人は防空壕の中に放り込まれ飢えと寒さと拷問で殆ど死んだ。造船八路軍のやり方はヒステリックで「36年の恨みだ!」と殴る蹴るの乱暴の限りを尽くし、男が拘置されている間、女を陵辱した。このため自殺した主婦もいた

 避難民の多くが日本を目指した中継地点に通化の街があり、筆者の親戚はここで中国共産党に捕らえられた。国境に近かった為、武装した造船人義勇軍が日本人狩りをしていたという。


通化事件

 戦争が終わっても、引揚者が無事に日本へ帰ることは容易でなかった。日本人の一部が国民党と組んで共産軍を攻撃したという理由で、昭和21年2月3日早朝、大規模な日本人狩りが行われた。戦前の中国が一つだと思っている日本人にはなかなか理解できないが、蒋介石の国民党と毛沢東の争いは根深いものがある。筆者の親戚が自らの体験を記した手記によると、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中、両手を上げさせられて共産軍に銃剣で追い立てられていた。日本人の男16歳から60歳が連行され、先頭から氷の上で射殺され川に投げ込まれたと言う。この列は途中で方向転換したが、親戚は旧通運会社の社宅に100人近くの人と押し込まれた。八路軍は、身動きできず酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。戦争が終わって半年経っても大陸ではまだこのような日本人に対する虐殺が平気で行われていたことを今の日本の若者は知らずにいる。筆者の親戚は、自らこの事件で生き残った者の一人として、事件の真相が「日本人どうしの殺戮だった」などと歪められて伝えられていることを嘆いている。


人民裁判
 中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」。「俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと。「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺されたという。また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の中国人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。


終戦後、無抵抗の日本人に対してこのような掠奪と暴行、殺戮が、中国人、韓国人によって行われたことは事実である。これは「日本人がやったからやられたのだ」というレベルを超えている。

 もちろん、中国人、韓国人の全てが悪人であったわけではないだろう。しかし、軍が戦後のどさくさ紛れに、このような形で何万人もなぶり殺しにされた事実は全く取り上げられず、「怪しげな日本人の加害行為」だけが大々的に取り上げられ、「これでもか!」と言わんばかりに日本の子供達に教育されている現状は、公平と言えるだろうか?また中国人や韓国人が一方的な被害者で、日本人が加害者だとそんなに簡単に決められるのか?


 日本人はなぜ怒らないのか。それは、怒ることを忘れるように、あるいは萎縮して、二度と立ちあがれないように、自国の罪ばかりを長い間、「教科書で」教えられて来たからである。この罪の内容は、明らかに後世、この目的の為に創作された虚構が含まれている。そこには報復を恐れ、自分の側には戦争犯罪はなかったかのように、日本人を「マインドコントロール」してきた戦勝国の思惑が存在する。

 50年に渡る、「長い洗脳教育」を受けた結果、現代の日本人には、一般的に「歴史の真実から目をそむける傾向」が生まれた。それは、虐殺を否定すると言う意味ではなく、むしろそのようなことは、「多分あったのだろうけれど、あえてかかわりたたくない」と言う傾向である。その結果、国の将来を真剣に憂うる者を、「右翼」の一言で片付けるようになった。健全な議論の封殺である。日本を取り巻く国際情勢は、そんなに簡単なものでも、甘いものでもない。ところが、日本人の頭の中は長い間の愚民政策ですっかりやられてしまった


文 我が子に伝える誇るべき近代史より

http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=77772


中国が南京を持ち出すのは現在行われている生体からの臓器狩りを隠蔽するため