今だからこそ語っておこうと思う。ばあちゃんの経験です。
朝鮮人は死ねばいいというのが、ばあちゃんの口癖だった。
当時、上海租界にいたじいちゃん夫婦は敗戦とともに日本へ引き揚げることになったのだが、使用人だった朝鮮人が突如暴走。
家中の金品を強奪し始め、あげくばあちゃんを乱暴しようとした言う。
最初は殴りかかったのかくらいに思っていたが、恐らく強姦未遂であろう。
じいちゃんが助けてくれなかったらお前は生まれてなかったんだぞとよく言っていた。その先は教えてくれなかったが、相手はどうやら2人いたらしいのでもしかしたらじいちゃんはその朝鮮人を銃殺したかもしれない。
小柄なじいちゃんが止めた位じゃ2人を止められないと思う。
その後、なんとか日本へ引き揚げたじいちゃん達を再び朝鮮人が襲う。
当時、じいちゃんの実家は六本木辺りにあったが、上海に行くときに実家は人に貸していたらしい。そこにしか行く当てがなかったじいちゃん達はやっとのことで家にたどり着いたわけだが、そこにいたのは知らない朝鮮人だった。
お前ら誰だと、じいちゃんが声を荒げると、家の中から数人の朝鮮人が出てきて 「ここは俺達の家だ!なんか文句でもあるのか」と恫喝を受けたらしい。
実は当時、近所に同じように家を奪われた日本人が多数いて、中には住んでるにも関わらず無一文で追い出された家族もいたらしい。
その後、どうしたかは知らないが、ばあちゃんは死ぬまで朝鮮人を恨んでいたよ。
で、一通り話をした後、ぼそっと決まって言うんだ。
「でもね、日本が負けるまではホントに仲良くやっていたんだよ。 誕生日にお花をくれたりもしたんだよ。(たぶん上海租界時代のことかと)
ばあちゃんなんか悪いことしたのかねぇ。」って。

これが、ばあちゃんから聞いた当時の朝鮮人の姿です。


嘘だと言うのは自由ですが、参考までに。

>実は当時、近所に同じように家を奪われた日本人が多数いて、
>中には住んでるにも関わらず無一文で追い出された家族もいたらしい。
うちの死んだ祖父母も同じような事言っていた。
当時田舎の駅前にそこそこの土地持ちだったんだけど、そこの一角に朝鮮人が住んでて、確か引き上げの船に乗って帰国した筈なのに、いつの間にか戻ってきて、元住んでいたところに、既に別の人に貸してたのに、新しく貸した人を追い出して勝手に住み着いちゃったって。
戻ってきたのも密入国だろうって。
大体戦時中も本国である日本(朝鮮人は当時日本人だったからね)で職を探すために密入国してきたって言ってたらしい。
引き上げる時に、餞別まであげたのにって言ってた。

その後、隣の土地の地主が突然行方不明になって、いつの間にかその一家が家を建ててたって。
祖父の仕事の都合で、田舎の土地を売って東京に移ったけど、あのまま住んでたら
自分たちも行方不明になってたかもしれんって……。

http://blog.livedoor.jp/tonchamon/


ソース付き「在日特権」(個人のブログでも、その中にソースがきちんと明示されています)
ガンガン追加希望


・朝鮮学校、韓国学校の保護者への年間数十万円の補助金援助(所得に関係なく全額補助)
 http://www.geocities.jp/kosakaeiji/171014gaikokujinnhojokinn2.htm
・大学センター試験へ韓国語の導入(朝鮮語受験者への異常な優遇)
 http://www.tamanegiya.com/zainitigyakusabetu19.2.11.html
・民族学校卒業者の無審査公私高校受験資格付与。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/cf_04421.html
・朝鮮大学校卒業者の司法試験1次試験免除。
 http://www.korea-u.ac.jp/news/040923.htm
・民族学校卒業者の大検免除。
 http://www.47news.jp/CN/200701/CN2007011601000356.html
 (現状で受験資格がないのは、玉川大と防衛大・防衛医大のみ)


母の北九州の実家には現在倉庫代わりにしてる土蔵があるんだが そこには母の従姉妹の霊が出る。

戦前朝鮮に在住してたんだが、敗戦引き揚げ時に家族とはぐれて
(というより使用人の朝鮮人に拉致されて)
それでもなんとか家族より半年以上遅れて帰国できた。
従姉妹の家族たちは母の実家に身をよせてたんだが、その遅れて 帰国した従姉妹は帰国して一週間後に土蔵で自殺したということだ。


高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は
戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め
膨大な非戦闘員を殺戮した。
島々におけるこの行為は遠征目的と何の関係もなく、
それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。
この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、朝鮮人の民族性によるとの事である。

彼らは島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。家屋は焼き
尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。」

「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、
その残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。

高麗軍と闘った将士がことごとく戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということです。
山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、捕らえては、ことごとく殺しました。中には、命惜しさに愛する我が子を刺し殺して、逃げ隠れする者もあったと伝えられています。
捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ、縄を通してから、引きずり回され、後、舷外に吊るされました。

(新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語)