よく 好奇的な 話題に のぼるのが、接客頻度の 濃密さ である。「三時間で 七六人 こなした女が いましたよ」とか、「(一日に)最悪時には 一〇〇名も」とか「ストップ・ウォッチで 計ったら 一人当りの 所要時間は 平均五分」のたぐいだが、かなりの 誇張がある ことは 否定できない。
一般の 売春婦の 話であるが、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』に「普段は そんなに 多くの 客は 来ないが、港に 船が 入った 様な 時には (客が並び)ひと晩に 三十人」と あるように、この職種では 珍らしくない 話であろう。
内務省統計では、遊客 約三千万人に 娼妓三・五万人(二九四〇年)と 記録されている から、平時の 日本の 内地 遊郭では 一人が 一日 平均 二-三人を 迎えていた 計算になる。時期は 不明だが「特飲街営業統計」によると、一日 三・五人、性交回数四・八回だったという。当然 繁閑の 差は あって、玉の井 私娼街で 元日に 十九人、なかには 四十人の 客を とった とあるから、物理的 限界は 数十人規模と 考えて よさそうだ。
戦場 慰安婦の 場合、戦況や 兵士たちの 外出日(週一回)に 制約されるから、繁閑の差は さらに 大きかった と 思われるが、ミチナ(北ビルマ)の 慰安所では 二〇人の 女性が 一日当り 百人前後を こなした というから、一人平均五人 ぐらいに なる。
兵士と 慰安婦の 比率が 不均衡の場合、彼女たちの 労働が 過重に なったことは あるにしても、平均的には 内地の 遊里と 似たりよったり だったと 考えて よいのでは ないか。

労働に対する彼女たちの考え方

接客数は、彼女たちの 収入と 直結していたから、満州の 錦州に 勤務した 磯田利一 憲兵が 書いたように、「一日 三七人の 兵隊を 相手に 五〇円を 稼いだ」と 自慢する 女が いても 不思議はない。
通過部隊が 積慶里の 慰安所へ 殺到した 時であった。過重労働で 性器を 腫らした 女が 続出したので 休業を 命じたところ、喜ぶかと思えば、ふだんは ヒマな所へ 盆と 正月が 一度に 来たような 稼ぎの チャンスなのに、と 彼女たちから 抗議された という。
客が 少なければ 良かったのでは ないようだ。
ビルマから 脱出前の 捕虜収容所での 話だが、英軍将校から 「兵士たちの 相手役を つとめる 社交的な 婦人を 10名ばかり」差し出してくれと 要請された 自治会 幹部は、クジで 選ぶしかないと 覚悟を決め、女子宿舎の 100人ばかりを 集め 打診すると、「一人も いないはずの 希望者が 全員の 半数を越える 50人以上」という 予想外の 結果となり、10人をえらぶ クジ引きを やったという。

しかも、選ばれた 女性に 英軍兵士からの プレゼントが 多いのを知って、女子 宿舎 連中の 羨望の的となったのを聞き、「幻滅感も また 大きかった」との 逸話もある。