他の 職種や 平時の 娼婦 稼業と 比べて、何よりも 戦場 慰安婦の 有利な 条件は、高水準の収入だった。
料金自体も 高かったが、経営者との 配分比率(玉割)が 良かったことも 影響している。内地では 戦争中に 吉原の玉割が 二五%から 四〇%へ 増えた 頃、戦地では 五〇%が 普通で、末期の 沖縄の様に 七〇%まで 上昇したところもあった。
ミチナの 丸山連隊長が 慰安婦の 不評を買ったのは、彼女たちの 取り分を 六〇%から 五〇%へ 引き下げたからだ、と 米軍報告書は評している。
これを 収入金額で見ると、内地の 五倍以上、平壌 遊郭の 女たちに 比べると 一〇倍以上を 稼ぎ出していたことが 知れる。前借金を 早ければ 数か月で 返済し、あとは貯金や 家族送金に まわすことが できた。
文玉珠の 場合は、三年足らずで 二万五千円を貯金し、うち五千円を 家族へ送金している。
今なら 一億円前後の大金である。

送金は 軍事郵便を 利用する例が 多かったが、内地へ飛ぶ パイロットに 頼む例もあったようだ。ラバウルの海軍爆撃隊にいた 市川靖人 飛行 兵曹は、遊んだ 相手の 朝鮮_人 慰安婦に 頼まれ、木更津から 朝鮮の 両親に 二百円の 現金を 送ってやったが、山梨県の 田舎なら 小さな家が 一軒建てられるな と思ったそうである。
ベテランの 日本人 慰安婦も 負けていない。
吉原で 十年暮した 高安やえ は、「昭和十七年秋、抱え主から 戦地へ行ってみないかと言われ すぐに応じた。内地では 若い男は 減っていたし、戦地に 行けば 今の 一〇倍は 稼げるし…稼いだら 内地へ帰って 商売を 始めようと 考えて ラバウルヘ…一人5分と限り、一晩に 二百円や 三百円 稼ぐのは わけがなかった」と回想しているから、ビルマの 文玉珠と はぼ同列だろう。
日本軍は 彼女たちが 早く 借金を 返して 帰国することには、むしろ 好意的だった と思われる。
一九四三年二月、漢口兵站司令部の 慰安係長として 着任した 山田清吉 少尉は、慰安婦 全員を 集め、「贅沢や 無駄使いは やめて、一日も 早く 借金を 返して 内地に 戻り、幸せな 家庭生活に 入れるよう」と 訓示したが、彼自身は「一年半ぐらいで 借金を返し、それ以上 働けば 少しは 貯金もできて」と判断していたようだ。
山田の同僚だった 長沢健一 軍医が 感心したのは、朝鮮の 親元へ 送金して 田畑を 買い戻した 春子とか、「三万円を 貯金し、五万円に なれば 京城へ 帰って 小料理屋を」と 励んでいた 慶子という女で、聞き知った 兵站司令官が「感心な女だ。表彰しょう」と 言い出した そうである。湖北省 当陽という 辺地で すごした 一下士官は、「花子という娘が 年期あけで 祝いをするとかで、招待された ことが あった」と回想している。送別会を してもらったわけだ。

ただし、慰安婦が 体を張って 稼いだ 軍票は 日本の敗戦と同時に 紙屑と化した。
ビルマでは 軍票を詰めた リュックを背負って 退却する 彼女たちの姿を 見かけた 兵士の手記が いくつもあるし、シッタン河を 渡る途中で 水分を 吸った リュック もろとも 流された 哀話も 伝わっている。
悪質な 業者のなかには、何かと 名目をつけて 彼女たちの 稼ぎ高を 強制貯蓄させ、 払わなかった 例も あったようだ。東部満州の 東寧に 勤務した 元兵士の杉田康一は 一九三八年、四円弱の月給から貯めた一円五十銭を持って 慰安所へ 通った 経験を語り、なじみになった 朝鮮_人慰安婦から「一銭も もらっていません。全部親方が取り上げて しまいます」と 聞いた 話を 回想する。
楼主の 不払いは 意外に 多かったとも 思われるが、それも また 終戦で 紙屑になって しまったことであろう。