アジア女性基金事業


アジア女性基金は第二次大戦中に日本軍の従軍慰安婦にされた女性に償い金や福祉資金を給付する目的で1995年に設立された。発足は当時の村山内閣が唱え、2000年には本人が理事長になる。

フィリピン

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194112月、日本軍がアメリカ領ルソン島へ上陸してマニラを陥落させ、19421月に日本軍の軍政下となるが、その後、フィリピン人のゲリラ戦による抵抗運動によって、多くの住民が被害にあった背景がある(戦後のBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件)。
 国家間の戦後処理は、SF平和条約に調印した上で、賠償並びに財産及び請求権は解決済みとされ、1956年の賠償協定により55000万ドル相当の役務及び生産物を提供している。元慰安婦らは19934月に46名の原告により「日本政府の謝罪と補償をもとめる」訴訟を東京地裁に起こし敗訴2003年には最高裁判所が棄却)している。
 この事業開始によりフィリピン政府タスク・フォース(フィリピン政府外務省、社会福祉開発省、司法省、保健省など)が組織され、慰安婦の認定はフィリピン司法省が、医療福祉支援事業は社会福祉開発省が実務の執行を委ねられた。当初、民間支援団体は事業に反発したが1996年


4人が認定をうけマニラ市内で伝達式がおこなわれ、総理のお詫びの手紙と償い金の目録が渡された。その後、2000年に反対グループからも申請書が提出された。

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韓国


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1965年に植民地支配の清算と国交樹立のために日韓条約を結び、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を行うことになり、韓国は一切の財産及び請求権を放棄することになる。韓国政府は慰安婦問題に対して、元慰安婦を認定する委員会を設置して207人を認定した200211月時点で72人死去)。
 基金は19968月に対話チームを派遣して事業の内容を説明したが、金学順さん他2名が基金を拒否し、他の多くは金額が不満であるとの態度だった(説明内容:認定者は韓国政府決定、首相からのお詫び、償い金が200万円)。それでも199612月にやっと1名が基金の事業の受け入れを表明し、やがて他の6人の被害者も受けとりを表明した(受けとるなという圧力があり)。そして19971月にソウルのホテルで7人の被害者に総理の手紙を渡し、説明文を韓国のマスコミ各社に伝え、事業実施の事実を公表した。その結果、韓国マスコミと運動団体が非難しはじめ、対抗策として支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(略称:挺対協)が募金運動を起こした。そして韓国政府は19985月に、政府として日本政府に国家補償を要求することはしない、その代わりにアジア女性基金の事業を受けとらないと誓約する元慰安婦には生活支援金3150万ウォン(当時約310万円)と挺対協の集めた資金より418万ウォンを支給すると発表した。(韓国政府は、142人に生活支援金の支給を実施し、基金を受けとった7名と誓約書に署名しなかった4名、計11名には支給しなかった
その後、基金側は大統領に書簡を送ったり、医療ケアの事業転換を図ったりしたが、韓国側の協力が得られない事が最終的に明らかになり完全な失敗に終わった。
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インドネシア

 1992年に慰安婦問題が注目を集め、日本政府とインドネシア政府は協議を進めた結果、インドネシア政府の次の様な見解を発表します。
 「慰安婦問題はインドネシア民族にとってその歴史の中で忘れ難い暗い側面であり、将来繰り返されることのないよう注意をはらい、教訓とする必要がある。また、この暴力の犠牲となった女性の終わることのない精神的かつ肉体的な苦渋、痛みを理解している。しかしながら、パンチャシラ哲学を有する民族として、感情的要素が強い措置及び施策に向かわないように、また犠牲となられた女性の方々及びご家族等の名誉を守ることに尽力している。インドネシア政府は、1958年に締結された「日本国とインドネシア共和国との 間の平和条約」、と「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定」によって日本政府のとの賠償並びに財産及び請求権の問題は解決済みとの認識である。アジア女性基金がインドネシアにおいて行う慰安婦問題に関わる事業・援助はインドネシア政府(特に社会省)を通じて行われるべきであり、他の組織や個人を通じて行われることはない。」(19961114日インタン・スウェノ社会大臣)
 そしてインドネシア政府は、元慰安婦の認定が困難であること、またその家族の尊厳を守らなくてはならないこと、国家賠償問題は解決済みであること等の理由から、高齢者福祉施設整備事業への支援を受けたいと方針決定した。19973月、インドネシア社会省とアジア女性基金との間で覚書が締結され、総額38000万円の規模で10年間にわたり支援を行うことになった。1997年から2002年に21カ所の施設が完成し、約150名が入居する)


オランダ


 太平洋戦争で、日本軍は旧オランダ領東インド(インドネシア)を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にした背景がある(民間人9万人、軍人4万人)。戦後インドネシアでは、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連れていったとされ日本軍将校がBC級戦犯裁判で裁かれている。
 オランダは、SF平和条約を締結し、すべての賠償請求権及び財産、並びに戦争によって生じた国及び国民の請求権を放棄した。後の19563月に日蘭議定書が結ばれ、1千万ドルを見舞金として提供することになった。
 1990年、対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対して法的責任を認めて補償するよう主張していた。オランダ政府は国家間賠償を終結している理由から、JES関係者との調整が行われ医療福祉支援を個人に対して実施すること、政府資金の総額を25500万円とすることで合意した。
 上記の事業の実施にあたり、オランダ国内にオランダ事業実施委員会(PICN)を設立して、19987月、PICNとアジア女性基金による覚書が交わされた。
 PICNは19988月、オランダと世界各地の新聞や他のメディアに広告をもって事業を開始した。107名の申請者からPICNにより厳密な規準で検討され、事業の受給者として79名が認定され、各人に平均約5万ギルダー(300万円)規模の財サービスが提供された。また、医療福祉面での希望にしたがって事業項目をまとめられ、各人に財政的支援がおこなわれることになった。

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台湾

 1952年日華平和条約が結ばれ、中華民国側は賠償請求権、戦争によって生じた国及び国民の請求権を放棄することになった。しかし植民地であった台湾にかかる請求権処理は、1972年の日中国交回復と同時に日台国交を失い終結されていない。
 1992年、台湾の立法院(国会に相当)、外交部、内政部、中央研究院、台北市婦女救援福利事業基金会(略称:婦援会)は委員会を発足させ、婦援会が慰安婦の認定作業、個人情報の管理、当局からの生活支援金の給付代行などを任された。20024月に被害者認定され生存している人は36名)



 婦援会は日本の国家賠償を求め、女性基金に対し強い反対の立場をとっていたため、オークションを開催して収益から被害者一人あたり約50万元(約200万円)のお金を配付した。その際、女性基金からは受けとらないという誓約書の提出を必要とした。

 しかし、982月に台湾立法院の議員たちの働きかけで、日本政府からの補償の立替金として、被害者一人あたりに50万元(約200万円)を台湾当局から支給することになった。
現在、台湾当局から月々15000元(約6万円)の生活支援金が支給されている)
 婦援会の反対運動により明確な人数は伏せられているが、「それなりの数の元慰安婦の方々」に償い事業が実施された様である。受け取った方々は、日本の総理のお詫びの手紙に感動されたようだ。


http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=76219