古い映画館は、駅前のアーケードの奥にあった。
雨の日だけ看板のネオンが弱く光るので、
僕は勝手に「終点映画館」と呼んでいる。
その日、僕は泣くつもりがなかった。
ただ仕事の帰り道、
心が空っぽで、
どこにも寄れなかっただけだ。
チケットを渡すと、
もぎりの老人が小さく笑った。
「今日は、匂いが濃い日ですよ」
意味がわからないまま席に座る。
スクリーンが暗くなり、
映写機の音が遠くで回り始めた瞬間――
ふわり、と。
駅弁の匂いがした。
温かい米と、甘い醤油と、紙箱の木の匂い。
映画館なのに、
僕の鼻はたしかに駅のホームを思い出していた。
映画は白黒で、
列車が雪の中を走るだけの静かな作品だった。
台詞も少なく、
音楽も控えめで、
正直、眠くなるタイプだ。
なのに僕は、息を呑んだ。
匂いが、場面ごとに変わっていく。
鮭。
昆布。
牛肉。
卵焼き。
スクリーンの列車がトンネルを抜けるたび、
匂いが切り替わる。
まるで「次は○○」というアナウンスの代わりに、
匂いが次の駅を告げているみたいだった。
僕は知らず知らずのうちに、
拳を握っていた。
匂いの中に、
混ざっているものがあったからだ。
――紙コップの緑茶。
――冬のマフラー。
――誰かのシャンプーの香り。
僕は思い出した。
大学のとき、
彼女と二人で乗った特急。
窓際の席で、駅弁を分け合った。
「卵焼き、好き?」と聞かれて、
僕は「どっちでも」と答えてしまった。
本当は好きだったのに。
好きなものを好きと言えない癖は、
あの頃から治っていない。
スクリーンの列車は、
ゆっくりと終点へ向かっていた。
けれど僕の胸の中では、
別の列車が走り出していた。
もう戻れない時間の方へ。
気づけば頬が濡れていた。
悲しい映画じゃない。
泣く理由なんてない。
それでも涙は止まらなかった。
匂いは、感情に直結する。
頭で抑えられるほど、優しくない。
隣の席の女性が、ちらりと僕を見た。
驚いた顔ではなく、少し困った顔だった。
その瞬間、僕は理解した。
この匂いを感じているのは、
僕だけなのだ。
映画が終わり、
照明がついても、
駅弁の匂いは消えなかった。
僕の服に染み込んでいるようだった。
出口へ向かう途中、
もぎりの老人が言った。
「いい匂いでしたか」
僕は答えに迷った。
いい匂いだった。
でも、よすぎた。
忘れていた記憶が戻るのは、
救いでもある。
同時に、
傷をもう一度開くことでもある。
「……わかりません」
僕がそう言うと、
老人は小さく頷いた。
「匂いはね、帰り道を間違えさせるんです」
映画館を出ると、
雨は止んでいた。
アーケードの外に出ると、
駅へ向かう人の流れが見えた。
僕もその流れに乗った。
駅に着くと、発車ベルが鳴った。
ホームに滑り込んできた電車のドアが開く。
なぜか、僕は乗らなかった。
帰り道は、反対側だったはずなのに。
匂いが、僕を別の方向へ連れていく。
ホームの端まで歩くと、
見慣れない売店があった。
見慣れないはずなのに、
ずっと前から知っているような気もする。
店員は若い女の人で、僕を見るなり言った。
「卵焼き、好き?」
心臓が跳ねた。
似ている。
声が。
目が。
でも、違う。
彼女じゃない。
それでも僕は、ようやく言えた。
「好きです」
たったそれだけの言葉で、
胸の奥が少し軽くなった。
未来がほんの少しだけ、
開いた気がした。
女の人は笑って、
紙箱を差し出した。
「じゃあ、これ。今日の駅弁」
受け取った瞬間、
僕はぞくりとした。
匂いが、しない。
あれほど濃かった匂いが、
まるで最初から存在しなかったみたいに消えていた。
代わりに、箱の蓋に小さな文字が印刷されていた。
――上映終了後の方へ。
僕は顔を上げた。
売店の向こうに、
もう一本のホームが伸びている。
そこに停まっていたのは、
見たことのない電車だった。
窓がスクリーンみたいに黒く、
車内が暗い。
ドアが、静かに開いた。
中から、駅弁の匂いが流れてくる。
今度は、僕の知らない匂いだ。
懐かしくないのに、
なぜか涙が出そうになる匂い。
僕は一歩、踏み出しかけて――
思いとどまった。
匂いは、帰り道を間違えさせる。
でも、帰れない場所に連れていくとも限らない。
僕は紙箱を抱え、いつもの電車に乗った。
座席に座ると、窓の外の景色が流れ始める。
そのとき、かすかに匂いが戻った。
駅弁の匂い。
それは過去の匂いじゃなくて、今の匂いだった。
僕は紙箱を開ける。
卵焼きが、ひとつ入っている。
ひとりぶんの駅弁は、少しだけさみしい。
でも、ちゃんと温かかった。
そして僕は、思った。
映画みたいな日があるなら、
きっと明日も、少しだけ続きを観られる。