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■鈴蘭

鈴蘭


作詞: camelogue 作曲: camelogue



夜明けの 惑星 ほし の見た夢
  季節も知らぬ いしにえに
    風の
      波の煌めき

    やがて出づる 生命 いの ち

  数多   あまた の彩り
 
    形無き歯車が 調和を紡いで
 
      ねえ これで
       これでいいのですか
        滅ぶ 宿命 さだめ としても
     どうしてもっと悲しい 現実 こと
   気づかないふりしているの
 
 
 
 
夜明けの 惑星 ほし の見た 悪夢 ゆめ
  奇跡も知らぬ いしにえに
    正邪も 尊厳も
     やがて出づる意識の
    いたずら な営み
 
 
 形無き天秤が 平衡を求めて
 
   ねえ これで
     これでいいのですか
      争う 運命 さだめ としても
   どうしてもっと醜い 行為 こと
 加担しようとしているの

■慰霊・冥福って何だろ?

ある言葉を検索していたら、仏教者(浄土真宗)のサイトのコラムにでくわした。


そのコラムによると(以下、青字は要約)


  NHKによる『日本人の宗教意識』アンケート結果は、

  「死後は存在しない」と「多分ないと思う」が合わせて35%、
  「分からない」を含めると、6割以上が死後に対して懐疑的だ。


  「慰霊」は、死後の霊の存在を認めなければ全くナンセンスなのに、

  各地で慰霊祭が開催されていることを見ると、誰も矛盾を感じていない。



続けて、コラムはこう結論づける。


  でも「死んだらすべて無になる」と本気で思っているのだったら、
  こんなことをするはずはない。
  理屈で死後を否定してみても、否定し切れない感情があり、
  また、「慰霊」とか「冥福(=冥土の幸福)を祈る」のは、
  故人が幸せになっているとは思えないからである
  (幸せなら慰めたり、幸福を祈る必要はない)。


  誰しも心のどこかで死後の実在を肯定し、
  死者が苦しんでいるような気がしてならないのではないか。

  これは深い人間性からくるものだ。



果たして、そうだろうか?


私たちは小さい頃から、家庭・世間・文化などによる「慰霊」や「冥福」などの

言葉の刷り込みをされ、何ら疑問も躊躇もなく口にしている。

疑問や躊躇はタブーであり、それを封じて日々を送ることが

社会人、常識人の「たしなみ」だと思うようになる。

日本人であれば、「つまらないものですがどうぞ」とか「愚妻」とか言うのと同じ。

また他の宗教的フレーズなら「天国に行けますように」とか「神に誓って」と。


慰霊祭や葬儀にあたって、タブーを口にしたら、世間や身内からはじき出されてしまうだろう。

他でも触れるが、国歌や国旗と同じでこれらの宗教的ワードは、『逆・踏み絵』なのだ。

それ自体の意味など求められていない。

ある集団の中で、ある構成員が『真正・ノーマル・従順』であることを無意識にほのめかし、

または意識的にそのフリをし、集団はそのほのめかしやフリから、

「こいつは集団にとって問題ない、大丈夫だ」と判断するための「ツール」なのだ。



宗教者にとっては好ましい現象が世間では見られるが、意識調査をしたら実は・・・、

というのが正しい流れなのだ。

例のコラムで言うと、後段から前段に論述が流れるのが、

くもりの無い目、先入観のない公平な見方なのだ。

アンケートに答える中で「王様は裸」だと、人々は気づくのである。




蛇足ながら、以下は私への誤解を避けるための一文。


8月には広島での慰霊祭をはじめ、各地で同様の行事がある。

上記のようなことを書いている私も、慰霊祭の実施を否定するわけではない。

またそれに参加する方がこれを読んだら気分を害するかもしれないけど、

それは全く本意ではない。


ただ、慰霊する方が、現在起きている戦争が終わることを真摯に願い、

また将来起こりうる戦争を真剣に危惧し、そのために慰霊の瞬間だけでなく、

日常的にそれらに関心を持っていたら、と思う。


慰霊はするが、現在の戦争を容認し、好戦的な勢力に追随し、

将来の戦争の準備に加担しているとしたら、残念だ。

慰霊することによって、戦死者が報われるのではない。

慰霊することによって、戦死者の霊が世界の平和を守るのではない。


どこかの場所に霊を祀ることで、その戦死が犬死でなくなるのではない。

戦死者の死が無駄になる、犬死になるというのは、あれほど後悔したのに、

あれほど誓ったのに(そういうふうに見えたのに)、また戦争を起こすことだ。

いろんな理屈をつけて、戦争を正当化する瞬間に、戦死者の死は無駄になってしまう。


正義とか大義とか国や家族を守るためなら、などというきれいごとなど、

悲惨な死と傷跡を目の当たりにして、私の場合、吹き飛んでしまった。

高校生の頃、原爆写真展の会場で。







■死刑制度は民主的に選びとった?

死刑制度を扱った本に対するレビューの中で、ある人がこう述べている。


   『死刑は制度であり、制度は私たちが民主的に選び取ったものだ。

   死刑を廃止させたいなら、世論が変化する以外にはない。』



さて、いつ日本国民は死刑制度を選び取ったというのだろう。 

それが争点になった選挙があって、その結果、死刑制度が民主的に選び取られたというのだろうか?

いろんな制度は、民意とは無関係に、また、いつの間にか決められるものが圧倒的ではないだろうか?

政権政党の政策のパッケージの中のひとつとして。


死刑制度を廃止を選択した欧州のある国(もちろん民主国家)においては、

当時の世論は死刑制度存置派が過半数を占めていたという。

その世論を押し切るかたちで、当時の政権政党は廃止の選択をしたのだ。



私のこの小さな反論は、これだけをとってみればほとんど意味が無く、ばかげている。

死刑制度存続派といっても様々な人が、それぞれに様々な論拠をならべるが、

その善意の人々の、小さいな誤解やわずかな思考停止が少しでも解けたらと思う。

古くからの伝統・慣習への愛着や尊敬という立場からの強烈な拒否反応や、

または上記のレビュアーのように冷静な人でも持ちうるバリケードが

少しでも減ればいいと思う。

この小さな反論の積み重ねが、少しでも人目に触れることによって。



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