camellia-lightのブログ

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登山と読書とお酒の日々。

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北村薫の「八月の六日間」を読む。私は著者のことは全く知らずに読み始めたのだが、途中でどうにも奇妙な違和感を覚えて、アマゾンで調べてみたら、著者は推理小説などを書いている男性作家だった。主人公の女性はアラフォーの文芸雑誌の編集長である。インテリの設定なのだが、ときどき格言や四文字熟語をからめたギャグを言ったり、「イングリッド・バーグマンだって年はとる」など突然言い出したり、アラフォーのインテリ女でも絶対に言わないようなおっさんのような台詞がところどころに入る。うーむ、男性作家がユーモアをからめて女性を描くのは、とても難しい。多分、女性のほうが生理感覚に厳密なラインがあり、ここから先は普通の女だったら絶対に言わないしやらないというのがはっきりしているからだろう。物語のラストで、天国のように美しい外国の砂浜で、主人公の彼女は、何年か前に別れた恋人とすれ違う。恋人とはかなり手痛い別れをしており、彼女はまだ思いを引きずっている。元恋人がすぐ後に結婚するという噂も聞いており、複雑な思いが交錯しすぎて、彼女は彼になんて話しかけたらいいのか、全く思いつかない。一生に一度あるかないかの、美しすぎる偶然のすれ違いである。さて、彼女はそのときなんと言ったのか?大抵の女だったら、「普通これは言わないよね~」と言うだろう。でも普通は言わない、からこそカッコいいとも言えるのかもしれない。著者はそこを狙ったのだろう。しかし、私としては一生に一度の美しいすれ違いに絶対に言いたくない台詞ではある。これもまた、女の生理感覚なのだ。山の描写はいたって普通だった。

湊かなえの「山女日記」を読む。小説のうまい玄人が書いたエンターテイメントである。面白かったし、一気に読んだのだが、後半はてな?と思った。登場人物たちの、自分自身の人生問題の解決が、毎回苦労して登った山の山頂に用意されているのだ。これって何かに似ていると思ったら、漫画の「岳」だった。「岳」は好きだし、面白いからいいんだけど、山で人生問題など解決しないと思っている私にとっては、「岳」も「山女日記」もエンターティメントである。
私が山に登っているとき、自分の身体と目の前の山道しかない。体調に余裕があるときは、山と自分がひとつになってしんとした静かな気持ちで歩いている。何も考えない。からっぽである。いつも、自分が自分がと、目先の小さな出来事に捉われていることから解放されている。煮詰まってネガティヴになっている心も、浮かれてざわついて地に足がついていない心も、全部からっぽになってニュートラルになっていく。「岳」も「山女日記」も、そんなニュートラルになった心にいろいろな心の気づきが生まれ、救いが生まれるという話なのかもしれないが、気づきと救いも余計だよというのが、私の正直な気持ちである。だって、気づきがなくてもニュートラルになった瞬間にすでに深く救われてるんだから。自分を取り巻く状況が変わらなくても、救われたい、楽になりたい、自由になりたい、そう思う心から離れられるだけで、すでに救われている。でもそれを書くだけでは、物語にならないのだろうな。阿闍梨になるための千日回峰行で、修行僧がただひたすら七年間ひとりで山道を歩くのも、肥大した自我を削ぎ落してニュートラルになるためなんだろう。悟りとは関係なく。

沢野ひとしの「休息の山」は少し前に読んだのだが、短いエッセイがたくさん納められている中で、最後の話が秀逸である。実話なのか、物語なのかわからないが、恐ろしい話である。著者本人が、槍ヶ岳方面から穂高に向かっている稜線で、ひとりの女と出会う。彼女は非常に軽装で、リュックも背負っていない。浮世離れした雰囲気で、ふたりで世間話をするのだが、なぜか彼女は彼がいく先々で現れる。そしていつも、どこに行ったらいいのかわからない風情で彼の前に佇んでいる。
一種の幽霊譚なのだが、怖くない話だからこそ怖い。多分、きっとあり得るなと思うからだ。一人で稜線を歩いていたら、彼女が話しかけて来るかもしれないと、本当に思ってしまうからだろう。
怖い話などすぐに忘れてしまう私だが、沢野ひとしのこの話だけはずっと忘れられない。