受講している放送大学の学部単位認定試験の結果が届きました。選択していたのは2科目で、どちらも無事に単位が取得できていました。しかも予想外の良い成績で。
とてもとても嬉しかったです。
ここ1、2年のうちでベストワンくらいの感激でした。
とてもとても嬉しかったです。
ここ1、2年のうちでベストワンくらいの感激でした。
放送大学からの郵便物
これは教科書が届いた時のもの
たった2科目のことなのですが、私にとってはその結果がとても嬉しくて、お世話になった方々に電話で御礼を言ったりしてその日は大変興奮して過ごしました。その夜は眠れませんでした。横になっていろいろ思い返していました。身障者手帳をもらってからのこと、入院のこと、などあれこれ実家の母のアパートに来てからのことを思い返していました。大学から届いた通知は薄い数枚の紙が入った封筒でしたが、それは私にとってとても意味のあるものでした。
1.「放送大学」を知る
離婚して母の実家にもどってきたのが2013年の秋でした。
その秋からほとんど寝たきりの状態が始まり、心も体も底をついた状態が続いたのですが、冬至を過ぎたあたりから 体の回復が見え初めてなんとか生き延びれる希望が見えた頃、私が住んでいる自治体の会報の中身を何気なく覗いたとき、自宅でも勉強できる放送大学の学生募集を目にしました。ぱっと目に入ったとき、その募集の文字が一瞬頭に留まって、後になってもなにか心に残ったのでした。
やれるかしら。
こんなとき直感で動くのが私の性格、それからまもなく私はそこへの入学を決めました。気持ち的には本当にどん詰まりな情況でいましたから、よく前向きなことに目がいったなあと思いますが、私を見守っている何者かが、やってごらんなさいって私の耳元へ話しかけたのかもしれません。
私はそれから入学の資料を取り寄せて、翌年2014年の2~3月までには入学の手続きを済ませました。お金はなかったのですが、小額でもスタートできる制度だったのが助かりました。ありがたいことに、以前の大学の単位が認められて3年次からのスタートになりました。
離婚して母の実家にもどってきたのが2013年の秋でした。
その秋からほとんど寝たきりの状態が始まり、心も体も底をついた状態が続いたのですが、冬至を過ぎたあたりから 体の回復が見え初めてなんとか生き延びれる希望が見えた頃、私が住んでいる自治体の会報の中身を何気なく覗いたとき、自宅でも勉強できる放送大学の学生募集を目にしました。ぱっと目に入ったとき、その募集の文字が一瞬頭に留まって、後になってもなにか心に残ったのでした。
やれるかしら。
こんなとき直感で動くのが私の性格、それからまもなく私はそこへの入学を決めました。気持ち的には本当にどん詰まりな情況でいましたから、よく前向きなことに目がいったなあと思いますが、私を見守っている何者かが、やってごらんなさいって私の耳元へ話しかけたのかもしれません。
私はそれから入学の資料を取り寄せて、翌年2014年の2~3月までには入学の手続きを済ませました。お金はなかったのですが、小額でもスタートできる制度だったのが助かりました。ありがたいことに、以前の大学の単位が認められて3年次からのスタートになりました。
2014年冬
ソチオリンピック男子シングル優勝の
羽生結弦選手をベッドから応援
羽生選手が金メダルを取った姿をみて純粋に私もがんばろうと思いました。がんばればよくなれるような気もして。
がんばる姿って人を癒すエネルギーがあるんだなあと思いましたよ。
ソチオリンピッックが開催されていた頃は、私は熱があり、頭痛がひどく、朦朧としていることも多かったでした。私は、1ページの読み物も集中して読むことができないくらい頭の中もかなり混乱してました。 つまり、ものを考える、ということですら体力を使ったような気がした時期でしたから、試験を受けに行く、なあんていうのは論外。「参加することに意義がある」んだから、というところでしたでしょうか。
それで選択した科目は教養学部の一科目だけでした。頭がそれなりに勉強モードに切り替わるまではこれでも一杯一杯だろうと思いました。
そんな風でよく勉強、って気になったのも不思議でしたが。
それで選択した科目は教養学部の一科目だけでした。頭がそれなりに勉強モードに切り替わるまではこれでも一杯一杯だろうと思いました。
そんな風でよく勉強、って気になったのも不思議でしたが。
2.病気の進行と手術
春になって関節リュウマチの病状が進行して両膝が悪化し、トイレに歩いていくことが大仕事になりました。それでラジオやテレビで放送される講義はベッドに横になって聴いていました。それ以上のことはできませんでしたが、それでも私のなかでは、この情況で「キミはよくやっている」という満足感がありました、小さかったけれど。
講義を受講して一番良かったのは、実に気持ちがまぎれて、そのことに集中する時間がもてたということでしょうか。じっと横になっていれば、何かとマイナスなほうへ考えが行きがちなときでしたから、これは思いがけず自分のノーマルな精神状態を保つのによい助けになりました。どうかすると、聴きながら眠りこけることがあり、最後の頃は放送授業の聴講イコール安眠剤、みたいな役割になったりして。
それでもとにかく 助かったし、よかった。
ほんとうにそれでよかったでした。
窓の外から見える日差しはまぶしく見えて
外を眺めるだけの生活が続きます
膝はさらに悪化して、ベッドから立てなくなりオムツのお世話になりました。夏の単位認定試験は問題外の情況になり、その年の11月には病院に入院して両膝の手術を受けました。2015年の4月に退院するまで治療とリハビリで一冬過ごしましたが、2回目の冬の試験も受けることは出来ませんでした。
学校の試験会場は郡山市(福島県)の放送大学センターで、自宅からは汽車とバスで乗り継いでいきます。これができるようになるのはいつになるんだろう。
ー そんなことを病院のベッドで考えました。
入院中のベッドまわり
このテレビのBS放送で放送大学の講義を良く聴いていました。
選択していない講義もテレビで聴けるのでありがたかったです。
病院では編み物も良いリハビリになりました。
お見舞いによく来て下さるお花の先生ご夫妻に
クリスマスプレゼントのソックスを編んだり。
今の自分に、何か目標を持って生きるものがあってほしいし。
膝の手術をしてもリュウマチの病気の進行は相変わらず進みました。これからどうなるのか、首に痛みが来たときには不安と恐怖で思い悩む日々が続きました。もしあと何年と余命を数えたら。 病院でのその冬、私は特別な試練も経験しました。
2015年4月に無事退院
家族でお花見に行きました。
3.芽生えたもの
今年の単位認定試験は 私の科目は7月28日と8月1日の2回。
隣町の須賀川市から試験会場のある郡山市までバスを2回乗り継いで試験会場に約2,3時間の移動。500m歩くと膝がみしみしいってきますが、甘やかしていると歩けなくなるので、「膝?問題なし!」という素振りで歩く。バスのステップもお年寄りのようだけど、はあ、うんしょ、と掛け声をかけながら登り降りして進んで、試験を受けるテーブルと椅子の前までさくさく歩いてたどり着く。ベッドで立てなくてオムツでいた自分を思えば、それが出来ることがほんとうにありがたいでした。今年はやれるんだっ、という気持ちでとても高揚していました。
試験会場でテストが配られてそのペーパーをめくった時、思わず気持ちが込み上げてきたのを覚えています。2度このテストチャンスを逃してベッドにいた自分と比べて、今ここにいることができることが本当に嬉しくなり、のどの奥から鼻にかけて急に篤くなり、涙がでそうになったのでした。
よくやったね、と自分をほめて。
白内障になりかけている目がさらに涙でかすまないように目を凝らし直して、そうして試験を受けました。
よくやったね。
(2014年 自宅での夏の頃の私)
こんなたんぽぽになってみたい