湊かなえさんの『母性』を読んだとき、1週間ほど後を引いてから大好きだった読書をしなくなった。

本を読むという行為は、感情が激しく動き読み終わったころにはどっと疲れが来るものではあるが、あれほど感情に支配されたのは初めてのことだった。

あれから4年ほどたって、久しぶりに手に取った本が『流浪の月』だった。

 

前提として私は性被害者ではないし、元恋人たちから暴力を受けたわけではない。

しかし、どうも≪恋愛≫というものが苦手である。

この本を読んだ後、私は少し救われた気がした。

 

異性といると人々は≪恋愛≫に結び付ける。そのことが私は息苦しかった。

恋人がいない状態で異性の友人と話せば、その友人の恋人に狙っているのではないかと疑われ、

今後連絡を取ることも会うことも禁じられた。

(2人であったことも個人的に連絡を取ったこともないのに)

 

恋人ができない期間が長くなると、家族からは同性が好きなのかと詰められる。

 

25歳を過ぎた頃には親戚に

「結婚はしないのか」

と聞かれ、

「今は考えていない」

と答えると、困ったような表情をされる。

 

恋人が出来ると、恋人はどんどん嫉妬深くなり私を監視し縛るようになった。

 

恋人がいてもいなくても私は生き辛い。

 

私は≪恋愛感情≫と違う≪何か≫を求めている。

その≪何か≫を表現してくれたのが『流浪の月』だった。

私はただ、一緒にいたい人と生きていきたい。

この気持ちはいけないことなのだろうか。

 

≪恋愛≫は苦手だが誰かに愛されたいし愛おしいと思いたい。そんな矛盾な感情を持っている。

 

愛されたいと思っているのに、いざ恋人が出来ても私は独りだった。

 

更紗を見ていると(読んでると)私だと思った。

好きだと言われて、付き合い、お別れする時には大きく感情が動かされることはなかった。

それは異性に限定されず同性にも同じだった。

 

「それでも人に想われたい。」

 

『流浪の月』はそんな自分の我儘を肯定してくれた気がした。

 

ハッピーエンドなお話は好まないが、『流浪の月』だけは違う。

 

この結末は夢物語だが、私が私を肯定するために必要な結末だった。