Audibleで聴く。何度か一時停止をして、巻き戻して再度聞き直す箇所があった。個人の欲望や嗜好はどこまでいってもその人個人的なものである。それを他人が強制することはできない。自分がいいと思うものを人に紹介して受け入れられないとがっかりしたり、ときにはわかってもらえない人を憎んだりする。これはとても自己中心的なことであると思った。いい映画を撮影して世に送り出してみんなに見てもらい賞賛してもらいたい。これもその人の欲望である。本の中では「こころ」という言葉を使っているとおもう。わたしには「欲望」がしっくりくる。そのいい映画をとるという自分にとって崇高な行為がYouTubeによって脅かされているよう感じる。自分の欲望(こころ)に声を傾けるタイミングである。いろいろな星の形があって、自分が人生をかけて描こうとしている星の形はこのままでいいのだろうか?同じ星形を他人にも描いてもらうように強制すべきなのではないか?そう、他人に強制することはできない。なぜならその星はとても個人的なものだから。自分は自分の人生のなかで自分の星の形を描くだけなのである。他人に強制することはできないが、もしかすると影響をあたえるかもしれない。その影響が、この本のなかでいう「境界を超える」なのだと思う。欲望はどこまでいっても個人的なものであり、他人とはただ影響しあうだけであり、その関係性もまた、影響しあうもの同士だけの特別なもので、第三者は決して共有できないものである。

わたしが今、もっとも課題としている「嫉妬」という感情とどう向き合うかについて、この本はこれからの私の指針となるものを提示してくれた。

愛されたいと思うのでなく、「愛する」のである。

愛は対等で自由である。

私を愛してくれるかどうかは相手が決める。愛は強制できない。

属性として生きるのではなく、個性として生きていくこと。

相手は、私の所有物ではない。

嫉妬する人は劣等感がある。常に他人と比べ、競争をしている。質的なものでなく量的なものを比較している

嫉妬する人は、愛したいのでなく、愛されたいのである。

思いは変わるものであり、それは自分も同じである。

小説家は他人が受賞したとき妬むのではなく、小説を書き続けなければなりません。

自分の個性を発見し、他人の個性も発見する

愛されても愛されなくても自分の価値に変化はない。

自分の価値は、他の誰にも代えることのできない自分自身、つまり個性にある。自分は生きているだけで価値がある。

「マチネの終わりに」と「ある男」をAudible で聴き、両方とも最後のシーンで泣いてしまった。本を読んで泣くというのは、何十年ぶりだろう。自然に感動をして涙した。最近、すっかり平野さんの本にはまっている。登場人物一人一人の気持ちを細部にわたり描写し、それも、私の今の生活とは無関係の環境の方々の境遇や心境を描いている。その背景の複雑さとその中で揺れ動く人々の感情の起伏に私自身、共感し、振り回されながら読了するのである。ちなみに「マチネの終わりに」は2回Audibleで聴いた。久しぶりに恋愛小説を読み、男女間の感情のやり取りに、惹かれあうということに深い感動を覚えた。New York のセントラルパークで再会した二人がその後、どうなろうと、私がヨウコなら、このセントラルパークでの再会でもう残りの人生を十分幸せに過ごせるような気がした。